大手総合商社伊藤忠商事は、2020年4月よりグループの基本理念を28年振りに「三方よし」に改定しました。これは創業者で近江(おうみ)商人の、初代伊藤忠兵衛の経営理念、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」のこと。商いの原点に立ち返り、急激な経営環境の変化にも対応できるようにとの思いでしたが、現実はその通りになってしまいました。
今回は、近江商人の成り立ちや種類、経営哲学をお伝えします。ここから、生きていく上で大切なことを感じてもらえればと思います。
近江商人とは
近江商人の成り立ち
まずは近江国(現在の滋賀県)で、近江商人が誕生した背景を見ていきましょう。
近江国は京都に近く、古代より交通の要所とされていました。
戦国時代には織田信長が「楽市楽座」を制定し、商業が盛んに。江戸時代になり、藩が1つの経済単位となりました。しかし、彦根藩を除くと小規模の領地が多く、自給自足で経済を回すには限界が。そこで領主は、麻布や蚊帳(かや)、畳表などの地場産業を奨励。そのうち余剰分が出ると、農民は行商をして、国内外へ販路を広げます。
ここから発展し、近江国に本店と本家を置き、国外へ行商や出店をした近江国出身の商人が、「近江商人」。
ちなみに、近江国内で商売をしている場合は、「地商い(じあきない)」として区別されます。
近江商人の「のこぎり商法」
近江商人の商法は、「のこぎり商法」と呼ばれるもの。地元の特産品を江戸や大坂、京都などに運んで売り、その売り上げを元手に出先で商品を買い、帰り道はそれらを売ります。
つまり、1回の行商で商品の販売と仕入れを同時に行います。行き帰りとも商いをするので、押しても引いても切れる「のこぎり」の名前がついたのでしょう。
近江商人の分類
一口に近江商人と言っても、成立時期や地域によって商法や商圏はさまざまです。成立した順番に、紹介します。
近江商人の原型、高島商人
出身地:高島郡(現高島市)大溝村など
活動時期:戦国時代末期
取扱品:呉服・油・醸造・金融・東北の産物
活躍地:京都、奥州(東北)
最も早い時期に活躍した高島商人。城主浅井長政の滅亡により、地元を離れた農民が商人に。京都に出た米穀商飯田儀兵衛の娘婿新七は、古着や木綿商を立ち上げ、後の百貨店高島屋へとつながります。また、南部藩(現岩手県)の盛岡に行った者は、城下町の形成に貢献しました。
都市部大型店経営の八幡商人
出身地:蒲生郡八幡町(現近江八幡市)
活動時期:江戸時代初期
取扱品:畳表・蚊帳・麻布・呉服・醸造・紅花
活躍地:江戸・京都・大坂・蝦夷地(現北海道)
戦国時代には豊臣秀次が城主となり、栄えた八幡町。しかし、秀次の失脚により一時期衰退。その後、江戸幕府の直轄地、天領(てんりょう)になり、再起を図ります。商人たちは江戸に進出し、「八幡の大店(おおだな)」と呼ばれる大型店舗経営に着手。
その中の、蚊帳や畳表を扱っていた西川仁右衛門が「ふとんの西川」で有名な西川産業の祖です。
また、蝦夷地での漁場経営や交易にも力を入れました。
地方に小規模多店経営の日野商人
出身地:蒲生郡日野町
活動時期:江戸時代中期
取扱品:塗椀・売薬・生糸・絹織物・木綿・醸造・紅花
活躍地:北関東・東北・九州
日野城主蒲生氏郷(がもううじさと)の保護により、商業が発展した日野町。しかし、彼が領地替えで日野町を去った後、一時衰退。その後、日野椀や売薬が盛んに生産されるようになり、これを機に行商を始めます。北関東や東北の、地方都市や農村を中心に展開。「日野の千両店(だな)」と言って、醸造業を主に小型店を多く構えました。また、「日野大当番(おおとうばん)仲間」という商人組合を作り、お互いの商いを支えました。
現代に受け継がれる系譜、五個荘商人、湖東商人
出身地:犬上郡豊郷(とよさと)村、神崎郡五個荘(ごかしょう)村・同郡能登川村など
活動時期:江戸時代後期
取扱品:麻布・呉服・小間物・蚊帳・繰綿(くりわた)・生糸・紅花
活躍地:信州・東国・蝦夷地・京都・大坂
農民の離村が厳しく制限されていた時代。しかし、領主の彦根藩は、経済の活性化のため農民の行商を奨励。地元に店舗を構え、農閑期に行商を行う形を取り、江戸時代に他国への出店はあまり行いませんでした。
明治時代に入り、海外への視察や進出などを行い目覚ましく活躍。
冒頭に紹介した伊藤忠商事の祖、繊維品を扱った伊藤忠兵衛は豊郷村の出身です。
五個荘・湖東商人以外、「城主の不在」という危機を「商い」で乗り切った近江商人。たくましさを感じます。
活躍時期が異なり、活躍地も日本中に散らばり、取扱品も多種多様。これが、長く繁栄した理由かもしれません。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」
近江商人の経営哲学の1つとして有名な、「三方よし」。商売において、「売り手」と「買い手」の当事者が満足するのは当然のこと。それだけでなく、社会(世間)のためになるべき、というものです。
「三方よし」の表現自体は、後世に作られたものですが、そのルーツは初代伊藤忠兵衛の「商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」という言葉にあると、考えられています。
「三方よし」の精神は、現在のCSR※につながるものとして、多くの企業の経営理念の軸になっています。
※Corporate Social Responsibility 企業の社会的責任
他にもある、近江商人の心得
しまつして、きばる
しまつして、きばる
「しまつ」は倹約、「きばる」は本気で取り組むの意味。
倹約に努めて無駄を省いて支出を抑え、勤勉に働き収入の増加をはかること。
利真於勤~りはつとむるにおいてしんなり
利益は、努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎない。暴利を貪ることなく、本来の商活動に励むことが「勤」の本来の意味である。
陰徳善事~いんとくぜんじ
人に知られないように、善行を施すこと。自己顕示や見返りを期待せず人のために尽くすこと。しかし、陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じる。
近江商人は出店した先で、商売だけでなく、道路改修や貧民救済、寺社や学校への寄付を行い、他国の人々の信頼を得ました。
幕末、一揆や打ちこわしが頻発した際も、近江商人の出店が襲撃をほとんど受けなかったのも納得です。
しかし、「三方よし」を忘れてしまった近江商人も
しかし、中にはこんなことも。
江戸時代後期、蝦夷地の根室や斜里などで漁場を開いた近江商人。アイヌの人々を連行し低賃金で雇い酷使したため、箱館奉行所に「アイヌの遣ひ方に非道がある」と改善を命じられました。
近江商人の研究をしている駒井正一氏は、
近江から遠く離れ、二代目、三代目となるうちに商道徳を見失ったのかもしれない。
(日本経済新聞「文化 近江商人の功罪両面見て 駒井正一」2019年11月15日付)
駒井氏は企業向けに近江商人に関する講演会を行っていますが、
商道徳だけでなく負の側面こそがビジネスマン育成の参考になると好評だ。物事の両面に視線を向けることが、歴史を学ぶうえで大切だ。
(同上)
先達の成功だけでなく、失敗からも学ぶことは多くあります。
おわりに
伊藤忠商事の本社ビル前彫られた、「ひとりの商人、無数の使命」の文字。企業理念の改訂と併せて、この文言がグループ企業行動指針に位置づけられました。世界を相手にする一流商社でありながら、「商人」であることを忘れないでいるのです。
生きていく上で、自分のことを真っ先に考えるのは、当然のこと。でも、少し他人や世の中を思いやる気持ちを持てば、巡り巡って自分のところに戻って来て、皆が幸せになれる。これが、近江商人の「三方よし」です。
世界中がギスギスしてしまった2020年だから、胸に刻んでおきたい言葉ですね。
※アイキャッチ画像 近江商人の行商旅姿(昭和初期頃の復元)、滋賀県日野町教育委員会提供
〈協力〉
滋賀県日野町教育委員会
〈参考資料〉
・滋賀県日野町『ふるさと日野の歴史』(2016年)
・西口敏宏 辻田素子『コミュニティー・キャピタル論 近江商人、温州企業、トヨタ、長期繁栄の秘密』(光文社、2017年)
・邦光史郎『新近江商人』(日本経済新聞社、昭和59年)
・日本経済新聞「文化 近江商人の功罪両面見て 駒井正一」(2019年11月15日付)