室町時代後期、戦国大名の台頭で、将軍だけでなく朝廷や公家の力も失墜。そんな時期に即位した第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)。恵まれない環境下、実は織田信長をはじめ戦国大名とさまざまな駆け引きをし、朝廷を立て直した再生請負人なのです。2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では、坂東玉三郎さんが演じます。「高貴で美しい帝」とウェブサイトでは書かれていますが、どんな人物かご存じない方も多いのでは? 今回はそんな正親町天皇の生涯をお伝えします。天皇と信長の、丁々発止のやり取りにご注目ください。
40歳で皇位継承、資金がなく即位式は3年後
正親町天皇は1517(永正14)年5月、後奈良天皇の第二皇子として誕生します。16歳で、親王宣下を受け元服。40歳のとき父の後奈良天皇が崩御し、皇位を継承。しかし、資金がないため即位式を行うことができませんでした。
皇位継承から3年が経った1560(永禄3)年正月、安芸国(広島県)の戦国大名・毛利元就から献金を受け、やっと即位式を執り行うことができました。
幼いときから、朝廷の困窮を目の当たりにした天皇。朝廷の立て直しと京の安全を守ることが、自らの使命と感じたのかもしれません。
毛利氏以外の他の戦国大名や領主にも協力を求め、彼らから地道に資金を獲得。その見返りは「任官」。こうして天皇は、朝廷の権威回復を一歩一歩進めていきます。
正親町天皇と織田信長の出会い
正親町天皇は、美濃国(岐阜県)の斎藤氏を倒し着実に力をつけた戦国大名・織田信長に目を掛けます。
1567(永禄10)年11月には、信長に「古今無双之名将」と褒めたたえた書状を出します。そのなかには、尾張国(愛知県)と美濃国の朝廷の領地の年貢を納めるようにという内容も含まれていました。また別の書状では、息子の誠仁(さねひと)親王の元服費用の依頼をしています。早々に2つもお願いをするなんて、ちょっと図々しい気もしますね。
実は、信長の父・信秀は、生前に御所の普請を行っていました。天皇にすると、「息子も当然応じるもの」と思ったのかもしれません。
信長はこの2つの書状に対し、お礼を述べつつ「心得ました」とあっさりした返事。
信長の入京、室町幕府の滅亡
1568(永禄11)年10月、信長は室町幕府15代将軍足利義昭を奉じて入京。この前から、さまざまな面で朝廷に貢献していた信長を、正親町天皇は副将軍に任命しようとします。
誠仁親王の元服費用の用立てなどはあっさり引き受けた信長でしたが、副将軍の件には返答せず。今でいう「既読スルー」状態。その後も朝廷の面倒な依頼にはこの態度を貫きます。
天皇の、自身の下に将軍・義昭と信長を位置付けたいという気持ちを察したのでしょうか。信長は、将軍の下に位置付けられ、自由に動けないことを嫌っていたことが分かります。
天皇の行動は、なりふり構わないように見えるかもしれません。しかし、私は必要なことを見極め、そのために見栄や美意識は横に置ける人物だと思います。
無愛想な態度を取っても朝廷にさまざまな贈り物をする信長に対し、天皇の信頼は増していきます。
正親町天皇と信長との駆け引き
室町幕府滅亡後、正親町天皇は信長と政治的な関わりを深めていきます。しかし、一筋縄ではいかず。そんな丁々発止のやり取りを紹介します。
元号を「天正」に改元
1573(元亀4)年2月に義昭を追放(室町幕府滅亡)し、京に戻った信長は改元を申し入れます(明治以前は節目ごとに改元)。候補の中から正親町天皇が選んだのは「天正」。これは信長の希望だったので、意向を汲んだ形になります。これにより、信長が名実ともに京の支配者になったことを公にしました。
正親町天皇、信長に譲位を勧められる
1573(天正元)年末、57歳の天皇は、信長に譲位を勧められます。皇太子である誠仁親王は22歳。2人とも、年齢的には問題ありません。
信長としては聡明な天皇が退位し、自身が元服を支援した誠仁親王に位に就いてほしかったのでしょう。天皇としても、費用は信長が工面してくれるので受け入れたいところ。
しかし信長存命中は実現せず。諸説ありますが、伊勢長嶋の一向一揆を抑えるなど多忙だったからかもしれません。
切り取られた、名香「蘭奢待(らんじゃたい)」
1574(天正2)年3月、信長は名香「蘭奢待※1」の拝見と切り取りを願い出ます。天皇は聖武天皇の怒りに触れると猛反対。しかし、朝廷に多大な貢献を行っている信長の頼みは断れず、受け入れました。信長には「蘭奢待を、朝廷の儀式の復興につなげていってほしい」と書状にしたためました。大人な対応です。
それにしても。どんな香りがするのか、気になりますね。
信長への「任官」と「辞官」
1575(天正3)年11月、天皇は信長に大納言の位を与えます。7月に伝えていたのが、ようやく受け入れられました。「朝廷の官位制に容易に取り込まれたくない」という信長の思いが感じられます。天皇としては、「取り込むことができて満足」というところ。
その後信長は、正二位(しょうにい)右大臣まで上り詰めます。この上の太政大臣(だいじょうだいじん)が総理大臣とすると、それに次ぐ地位というところ。あわせて嫡男・信忠も、三位中将(さんみのちゅうじょう)に昇進。本来中将は四位で、三位は大臣の子や孫に授けられるもの。親の七光りですね。
しかし、1578(天正6)年4月、信長は突然右大臣の官を辞しました。理由は、朝廷との関係を白紙にして、「信長包囲網」との戦いに専念するため。さらに、自身の職を信忠に譲りたいと、続けます。嫡男に位を譲ることで、その上に立とうとする目論みが見えたのか、天皇はこれを無視。「既読スルー」で返答。やられたらやり返す、芯の強さが垣間見えます。
信長の馬揃えを見学
1581(天正9)年正月、信長は2年前に転居した安土で「馬揃え※2」を行いました。その様子が京に伝わり、天皇は京での開催を希望。2月、信長は京でも「馬揃え」を行いました。自身の家臣や足利幕府の旧臣、公家などが参加して、京の町を練り歩きました。天皇や朝廷だけでなく町民も見学できる行事で、信長は自身の力を広くアピール。天皇は信長の真意をどう受け取ったかは分かりませんが、願いがかなったことにはご満悦でしょう。
官位で信長を取り込みたい、正親町天皇
馬揃えで気を良くしたのでしょうか。天皇は、1581(天正9)年3月に信長を左大臣に推任するも、立ち消え。1582年(天正10)年4月には、「太政大臣でも関白でも将軍でも好きな位をどうぞ」と大盤振る舞いします。
しかし、信長はこれにも得意の「既読スルー」で対応。「朝廷から離れて、超越した場所に行きたい」信長のそんな思いを感じます。
いや、将軍でもどうぞって……。この時点ではまだ、足利義昭が将軍なんですけどね。
室町幕府滅亡後、天皇と信長はお互いを探り合いつつ、立ち位置を確立していきます。ただ、私には信長が右大臣辞任のころから、暴走しているようにも見えます。もし義昭がいたら、三角形のバランスは崩れなかったのかもしれません。
明智光秀による本能寺の変、信長との別れ
1582(天正10)年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、信長自刃。6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉は光秀を倒します。
翌日14日、正親町天皇は「次に京を支配するのは、秀吉」と素早く察し、秀吉に太刀を授与。10月9日、天皇は没後に関わらず信長に太政大臣従一位(じゅいちい)を贈りました。複雑な思いを抱えつつ、哀悼の意を示したのです。
信長の次に目を掛けたのは、豊臣秀吉
本能寺の変の直後、すばやく京に駆けつけた秀吉が、正親町天皇には新たな救世主に見えたのかもしれません。
1584(天正13)年3月の小牧・長久手の戦い後、天皇は秀吉に五位ノ少将(ごいのしょうしょう)を与え、最終的には関白に任命。秀吉はこれに応えるように豪華な献上品と共に参内。武家の参内は、朝廷にとって政治的にも経済的にも喜ばしく、財源は豊かになりました。
天皇の目下の願いは、自身の譲位と誠仁親王の即位、仙洞御所(譲位後の住まい)の造営でした。
朝廷の行く末を気にしつつ、譲位、崩御
息子誠仁親王の急死
1586(天正14)年7月、誠仁親王が35歳で急死。近く即位する予定だったので、69歳の正親町天皇のショックは相当なものでしょう。「わらわやみ」と言われる病死でしたが、突然の出来事のため噂が飛び交い、中には自害説まで。ネットのない時代ですら、こうなのですね。
正親町天皇譲位、後陽成天皇即位
落ち込む暇もなく、1586(天正14)年9月には誠仁親王の第二皇子の親王宣下と元服の儀が行われ、和仁(かずひと)親王に。秀吉が加冠役を務めました。11月7日、天皇は譲位。15歳の和仁親王が即位し後陽成天皇に。11月25日には即位式が行われました。「自分のときは、即位式を延期するほど財源不足だったのに」正親町天皇改め上皇は、20数年前を振り返ったかもしれません。この後、造営がかなった仙洞御所へ移ります。
一歩離れて朝廷の行く末を見守り、崩御
後陽成天皇と秀吉とのやり取りは割愛しますが、祖父譲りの聡明さと意志の強さを発揮。上皇は、一歩離れて朝廷の行く末を見守ります。
1592年(天正20)年8月、上皇は病に倒れます。このころの秀吉はというと、朝鮮への出兵を目指していました。上皇は最後の力を振り絞り、中止するよう書状を送りましたが、思いは届かず。翌年正月、77歳で崩御します。
朝廷のことは、後陽成天皇に任せられて安心と思う反面、秀吉の行動を止められなかったことは無念だったでしょう。
おわりに
戦国時代天皇や朝廷は弱体化しましたが、何もせず江戸時代を迎えたわけではありません。
確かに江戸時代に入り、天皇や朝廷は徳川幕府の統制下に置かれますが、その「権威」は不可侵で、幕末まで安定したものでした。これは生涯かけて、朝廷の立て直しに奮闘した正親町天皇の功績です。「高貴で美しい」というより、「高貴で強さを秘めた」人物であると私は思います。
今回調べてみて、武家との関わりが大変多いことに驚きました(泣く泣く割愛したエピソードも)。大河ドラマとこの記事(←図々しい)を通して、正親町天皇のことを多くの方に知っていただきたいです。
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※アイキャッチ画像 『正親町天皇宸翰和歌懐紙』(京都国立博物館所蔵)「ColBase」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/cobas-4148)
「宸翰(しんかん)」は天皇直筆の文書のこと。
<参考資料>
・藤井讓治『天皇の歴史05巻 天皇と天下人』(講談社、2011年)
・『国史大辞典』