親も故郷も捨てて、大恋愛の末に結婚した尊敬する夫がダメ男になったら、あなたならどうしますか? もう別れたいと思う人もいるかもしれません。しかし、『みだれ髪』で知られる歌人・与謝野晶子は、夫・与謝野寛(号・鉄幹)の起死回生のため、費用を工面してフランス留学に送り出しました。夫の浮気、子だくさん、生活苦、そして完成間近だった源氏物語現代語訳の原稿の焼失と、度重なる試練に見舞われても、並外れたバイタリティーで乗り切ったサバイバーでした。コロナ禍で心が縮こまっている今こそ、元気と勇気が湧く、与謝野晶子の恋とライフワークにまつわるエピソードを、短歌を引きながらご紹介します。
晶子の全生涯を決めた最初の恋愛
「最初の恋愛が殆ど私の生涯の全部」–。「私の恋愛観」(『我等何を求むるか』所収)と題したエッセーの中で、晶子は自らこう書いています。押し寄せる人生の荒波に立ち向かった原動力は、初恋の相手を勝ち取った体験にあったと私は思います。
21歳夏の巡り会い
晶子は21歳の夏、1900(明治33)年8月、大阪で寛と出会ったとされています。文学仲間の集まりや歌会で、新進歌人として注目されていた山川登美子とも顔を合わせ、意気投合。晶子、寛、登美子の3人は住吉神社や粟田山へ泊まりがけで出掛けました。晶子と登美子はともに寛への恋心を募らせますが、登美子は親の決めた縁組みのために帰郷。一方の晶子は翌01年1月、寛とふたりだけで再び粟田山へ。寛と結ばれて、晶子の恋情は一気に燃えさかります。
「自分の処女時代は右の様にして終つた。思ひも寄らぬ偶然な事から一人の男と相知るに至つて自分の性情は不思議な程激変した。自分は初めて現実的な恋愛の感情が我身を焦すのを覚えた」(「私の貞操観」『雑記帳』所収)。
その5ヵ月後、晶子は動きます。老舗和菓子店を営んでいた大阪・堺の実家を捨て、親を捨て、故郷も捨てて、寛のいる東京へ出奔したのです。
狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅(与謝野晶子『みだれ髪』)
恋のほつれが生んだ『みだれ髪』
晶子が押しかけ女房同然で身を寄せた寛の家は、現在の渋谷・道玄坂の近くにありました。寛が短歌の革新を掲げて1899年11月に創立した詩歌結社「東京新詩社」を構えていた場所です。1900年4月には機関誌『明星』を創刊、古い因習にとらわれず、自己を解放して感情をありのままに歌い上げる浪漫主義の歌風で、若者たちの心をつかみました。
そのアイコンとなった歌集が、東京出奔2ヵ月後、1901年8月に出した『みだれ髪』でした。晶子は結婚前の旧姓「鳳(ほう)晶子」の名前で出しています。その中から鮮烈な印象を放つ2首ご紹介します。
そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云いたまへ
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る
恋に狂った罪の子。人の道に外れ世間から何と言われても構わない……。恋に走った晶子の心情が赤裸々に歌われています。この歌の背景には何があったのでしょう。
実は寛には内縁の妻・林滝野と子がいたのです。その上、登美子をはじめ、慕ってくる女性の弟子たちも。『みだれ髪』には、恋の歓びや罪悪感、葛藤や嫉妬をさらけ出して詠んでいます。青春の情熱のままに、実生活の恋愛を短歌に昇華した歌集は日本中に衝撃を与え、ベストセラーになりました。そして、『みだれ髪』出版から2ヵ月後の01年10月、晶子は寛と結婚式を挙げました。22歳の秋でした。
寛のフランス留学、追いかけた晶子
『明星』終刊で失意の寛
『明星』は晶子や登美子、高村光太郎、石川啄木、北原白秋ら多くの歌人を輩出、その名の通り、歌壇のスターとなります。しかし、その輝きは長くは続かず、白秋らの大量脱退や寛に対する怪文書事件、貧富の格差や社会不安を背景とした自然主義文学の高まりに伴って、次第に翳りを増していきます。最盛期には5000~7000部あった発行部数が、1905(明治38)年には1200部、08年はわずか950部に落ち込み、同年11月についに100号で終刊に追い込まれました。
精魂傾けた『明星』が廃刊となり、寛は意気消沈。やることもなく失意の日々を過ごす寛を、晶子は自分たちをモデルにした小説『明るみへ』の中で次のように描写しています。
「良人はダリヤの根の元にある穴より出で来る蟻を錆包丁にて叩き廻すことを致し居り候。二時間経ちて書斎を出でて眺め候時も、三時間経ちたる時も良人は変らずじつと蟻の張番を致し居り申し候。(略)『憎らしいからね。』と良人は申候。面白ければとは申さず、憎し憎しと良人が錆包丁にて土を叩き居り候こと、世にかゝる悲しき事またあるべしと私は思はれず候」
文壇で華々しく活躍していた夫が、何時間も錆びた包丁で蟻を叩き廻す。その姿に晶子は怒りよりも、痛ましさを覚えています。
寛に導かれて文学の世界へ羽ばたいた晶子の文名はいよいよ上がり、評論や小説にも活躍の場を広げ、仕事が次々と舞い込んできました。寛と晶子の社会的立場は逆転。時流から外れた寛はすっかり自嘲気味になり、晶子に苛立ちをぶつけました。
芸術家同士だからこそ、表面上はどんなに繕っても、お互いの状況が手に取るように分かってしまう。プライドゆえの妬ましさもあったでしょう。夫婦関係はぎくしゃくしますが、この間にもふたりの間には次々と子どもが生まれ、結婚11年目の1911(明治44)年時点で既に7人。その生活は、晶子の筆にかかっていたのです。
フランス留学に再起をかけて
今で言うと、寛はうつ気味だったのではないでしょうか。この時の状況を考えれば、晶子は寛と別れる選択肢もあったはずです。文学の「師」と仰いだ男がその世界で落ちぶれたら、幻滅して離れていくのは世の常だからです。彼女自身、葛藤したと思います。しかし、晶子は新天地に活路を見出そうとしました。なぜなのか。婚活をしていたとき、私はずっと疑問でした。しかし、自分が結婚して気づいたのは、寛に対する晶子の深くて大きな愛です。人を愛するとは、どういうことか。私は晶子から教わったような気がします。
さて、晶子が寛の再起をかけようとしたのは、フランス留学でした。寛が30代後半の若さで虚脱感に襲われる中、意欲を見せたのがフランス語の習得だったからです。
莫大な留学費用をどう捻出するのか。晶子の報告によると、寄せてもらった義援金だけでも、その総額は2700円。物価指数から昔の1円=今の1万円で換算すると約2700万円。これは多すぎるかもしれませんが、今よりもずっと多額だったのは間違いありません。商家出身の晶子が考えたアイデアは、自作の和歌100首を書き散らした「百首屏風」の制作でした。金屏風200円、金砂子50円の2タイプを販売することに。知人や財界関係者らにも購入依頼文を送り、販促活動にも精を出しました。そして、ライフワークとなる源氏物語の現代訳を思い立ったのも、このときだとされています。実際のところ、百首屏風はあまり売れず、洋行費のほとんどは寛の兄たちや出版社からの義援金で負担されることになりましたが、晶子も大いに奮闘しました。
シベリア鉄道に乗ってフランスへ
1911(明治44)年11月8日、ついに寛は横浜港から船に乗って海路、パリへ向かいました。晶子は子どもたちを残し、神戸まで同乗しましたが、見送りはここまで。寛は上海、シンガポールなどを経て、スエズ運河を通り、12月末に無事、フランスのマルセイユに到着しました。
亭主元気で留守がいい。やれやれ、これで仕事がはかどる。晶子がやっと一息ついたところへ、寛から「是非この欧州の光景を君と共に見たく候」(『与謝野寛晶子書簡集成』)と、渡仏を促す手紙が届くようになると、昔の恋心がよみがえります。
君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳きても筆の柄をながめても (同『青海波』)
まさに、会えない時間が愛のありかを教えるのです。いてもたってもいられなくなった晶子は渡欧を決断。そうなると、さっさと算段をつけてしまうのがスゴいところ。新聞社や出版社、呉服店と交渉、スポンサーからも募って旅費を工面。養女に出した下の2人を除いて、9歳の長男をかしらに5人の子を寛の妹に預けることに。そうして、寛に遅れること半年、1912年5月5日、晶子はパリに向かって旅立ちます。新橋から鉄路で敦賀へ、そこから船でロシアのウラジオストクへと渡り、シベリア鉄道に乗りました。寛と違って鉄路を選んだのは、旅費が多少かかっても、時間が短縮できるから。2週間後にはフランスのパリ北駅に到着。出迎えた寛の腕の中に飛び込みます。
三千里わが恋人のかたはらへ柳の綿のちる日に来(きた)る (同『夏より秋へ』)
ふたりはパリ・モンマルトルで下宿。ルーブル美術館やシャンゼリゼ通りなど名所を巡りました。ロワール地方へも赴き、一面のひなげし(コクリコ)を見て、晶子の絶唱とされる歌が生まれます。
ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)(同『夏より秋へ』)
緋色の花が咲き誇る異国の野でふたり、火のように燃え上がる愛。夫婦の絆を取り戻した晶子の歓びが鮮やかに伝わってきます。
ふたりは彫刻家オーギュスト・ロダンら芸術家たちと交遊、イギリス、ドイツ、オーストリア、オランダへも足を伸ばしています。
晶子は寛と共に過ごし、「妻」として満たされると、今度は「母」として日本に残してきた子どものことばかり気にかかるように。
子を捨てゝ君に来(きた)りしその日より物狂ほしくなりにけるかな (同『東京朝日新聞』)
晶子は妊娠していました。寛を残し、4ヵ月滞在したフランスを慌ただしく後にします。9月21日にマルセイユから船に乗って、10月27日に帰国の途につきました。翌1913(大正2)1月には寛も帰国。4月に晶子は4男を出産。渡仏で出会ったロダンにあやかり「アウギュスト」と命名されました。余談ですが、彼自身は日本人離れした名前が苦痛だったようで、後年、昱(いく)と改名しています。
源氏物語の現代語訳
紫式部は12歳からの恩師
フランス留学がもたらした果実は、旅費を工面するために思い立った源氏物語の現代語訳でした。そもそも晶子にとって、源氏物語を書いた紫式部とはどんな存在だったのでしょうか。「紫式部は私の十二歳からの恩師である」(同「「読書・虫干・蔵書」、『光る雲』所収)と語っています。読書好きな父・宗七が所蔵していた古典文学や歴史書を読みふけりながら、和菓子店の店番をしていました。全くの独学で、「紫式部と唯二人相対してこの女流文豪の口づから『源氏物語』を授かつた」(同「「読書・虫干・蔵書」)と。20歳までに何回も通読したと言います。
12歳といえば、私もちょうどこの年頃に初めて源氏物語に触れました。父にねだって買ってもらったのは、晶子の現代語訳(角川文庫版)。1巻ごとに晶子自作の和歌が添えてあり、おしゃれな感じがしました。
「光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素(じみ)な心持ちの青年であった」(新新訳版『帚木』)と、ズバリ言い当てる明解さ。藤壺が光源氏と密通し、罪の子を宿したことに気づく場面でも、「宮は実際おからだが悩ましくて、しかもその悩ましさの中に生理的な現象らしいものもあるのを、宮御自身だけには思いあたることがないのではなかった」(同上『若紫』)とストレートに表現。「奥様」「愛人」などの近代的な言葉づかいもあり、深い意味は分かりませんでしたが、小学生でも読みやすかったのを覚えています。
源氏物語に登場する個性豊かな女君たちがまるで「図鑑」のようで面白かったです。幼かった私がシンパシーを感じたのは、気位が高くて素直になれない葵上でした。夫の源氏に振り向かれず、六条御息所に祟られて亡くなっていくのがかわいそうで仕方がありませんでした。「源氏物語=難解な古典」という先入観を持たず、小説の一つとして楽しめるようになったのは、12歳の出合いのおかげです。
与謝野源氏は、原文に忠実ではない点もありますが、物語の本質をとらえていると思います。長年愛読して自らの血肉としてきたからこそ、血の通った表現につながったのではないでしょうか。森鷗外は、晶子の「新訳源氏物語」に、紫式部と同じ気質の人の手による訳だという序文を寄せています。
3度挑んだ現代語訳
晶子は26歳ごろから源氏物語の研究を始め、自宅で講義もしていました。そして、一生の事業として生涯に3度にわたって現代語訳に挑んでいます。
一つ目が、晶子32歳の1911(明治44)年1月から取り組んだ「新訳源氏物語」。途中、フランス留学中は森鷗外が校正作業に当たりました。12年2月から13年11月までに全4巻が、歌集出版で関係の深かった出版社、金尾文淵堂から刊行されました。大正期に重版を重ねて普及した「新訳」は、原文量の8割程度の長さ。読み物として楽しんでもらうため、思い切った意訳や抄訳があるのが特徴です。
「新訳」着手に先立つ1909(明治42)年、別のプロジェクトも、晶子の元へ持ち込まれていました。この二つ目の現代語訳は、原文の一語一語を忠実に現代語訳する全訳版でした。クライアントは、京都の実業家、小林政治(号・天眠)。設立構想を温めていた出版社事業の目玉にしようとしたのです。
契約では、100ヵ月(満8年)をかけて執筆する計画で、その間は毎月原稿料の仕送りを受けることが取り決められました。晶子は生涯で13人を産みました。死産や夭折で2人が亡くなったものの、11人が育ちました。常に生活苦を抱えていた子だくさんの一家にとって、継続的な安定収入は何よりも貴重だったことでしょう。多忙な日々の中、晶子は毎月400字詰め原稿用紙40枚ずつ(原稿料20円)、後には80枚ずつ(同上50円)で書き進めていきました。
執筆作業は遅れに遅れながらも、こつこつと続けられていきました。足掛け14年、残すは宇治十帖というところで、突然の悲劇に見舞われます。1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、講師をしていた勤め先の文化学院(東京・神田駿河台)が全焼、その事務所に預けてあった現代語訳の草稿数千枚も一瞬にして灰になってしまったのです。
十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰 (同『瑠璃光』)
「今一度初めから書くだけの時も精力もない」(同「読書・虫干・蔵書」)。気丈な晶子も、この時ばかりは落胆しました。スポンサーであった小林の出版社も、大震災後に不況で立ちゆかなくなり、プロジェクト自体が頓挫してしまいました。
最愛の夫との別れ
大震災から9年後、1932(昭和7)年秋のこと、54歳を迎えようとしていた晶子は三度(みたび)、現代語訳に取りかかったと、六女藤子が書き記しています(「母与謝野晶子」、『婦人公論』掲載)。焼失した草稿を思い起こしつつ、さらに新たな創意も注ぎ込んで書き継ぐことにしたのです。この不屈の闘志はどこから湧いてきたのでしょうか。
ちょうどこの頃、晶子の異母姉、輝が61歳で亡くなりました。晶子自身も心臓を悪くして静養しています。残りの人生の砂時計を意識したとき、一生の仕事と決めたからには源氏物語の全訳は何が何でも成し遂げなければと、自らを奮い立たせたのでしょう。
35年3月26日、夫・寛が62歳で世を去ります。最愛の人の死に打ちひしがれ、晶子の筆はしばらく止まりますが、再び机に向かいます。支えになったのは、紫式部でした。
源氏をば一人となりて後に書く紫女年若くわれは然らず (同『冬柏』)
同じく夫と死に別れて書き続けたとき、紫式部はまだ20代前半でしたが、晶子は60歳近く。37年3月には1度目の脳溢血に見舞われますが、幸いにも軽度だったため、1ヵ月病床に伏した後、執筆を再開。ついに38年10月、『新新訳源氏物語』第1巻が、『新訳』と同じ金尾文淵堂から刊行されます。それから毎月1巻ずつ刊行され、39年9月に全6巻で完結しました。計4000枚の書き下ろしを、成し遂げたのです。全訳の着想から40年近くの歳月が流れていました。
気力を振り絞ってのライフワーク完遂にホッとしたのか、晶子の容体は急速に衰えていきます。1940(昭和15)年5月に2度目の脳溢血で倒れ、半身不随になりました。太平洋戦争が始まり、戦時色が強まる中、42年5月29日に晶子は63年の生涯を閉じます。『新新訳』完結から2年後のことでした。
自分で選んだ道を、生涯をかけて全うする。恋愛もライフワークも。挫けない。諦めない。初志貫徹をして、ひたすらに駆け抜けた彼女の人生を思い返すたびに、私はいつも背中を押してもらっています。与謝野晶子は、私の12歳からの恩師なのです。
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参考文献
『年表作家読本 与謝野晶子』平子恭子・編著 河出書房新社 1995年
『新文芸読本 与謝野晶子』 河出書房新社 1991年
『女三人のシベリア鉄道 』 森まゆみ・著 集英社 2009年
『没50年記念特別展 与謝野晶子-その生涯と作品-』 堺市博物館・編集・発行 1991年
『山の動く日きたる-評伝 与謝野晶子』山本千恵・著 大月書店 1986年
『君(きみ)も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)(上)(下)』 渡辺淳一・著 文藝春秋 1999年
『与謝野晶子の源氏物語 下 宇治の姫君たち』与謝野晶子・著 角川学芸出版 2008年