6.なぜ2度目の上洛で5,000の精兵を率いていたのか?
京都
景虎を危険視する存在
永禄2年(1559)4月、景虎は6年ぶりに2度目の上洛を敢行。その目的は足利13代将軍義輝(よしてる)が避難先の近江(現、滋賀県)から京都に戻ったことの祝いと、越後に亡命してきた関東管領・上杉憲政より、「上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職を景虎に譲りたい」と言われていることに対し、幕府の承諾を得ることにありました。
しかし、それだけならば上洛人数は少数で済むところ、景虎は精兵5,000を率いていたのです。そもそもそんな景虎一行を、京都に至るまでの国々がよく黙って通過させたものですが、それは事前の交渉とともに、景虎の上洛に野心がないことが明らかであったからでしょう。景虎の人柄に、他国の領主たちが一定の信頼を置いていたことがうかがえます。
しかし、景虎一行は京都に入る手前の近江で足止めされました。「越後の龍」とも呼ばれる景虎を危険視し、京都に入れまいとする存在があったためです。すなわち畿内で最大勢力を誇り、将軍と対立する三好長慶(ながよし)や、その家宰(かさい)・松永久秀(まつながひさひで)らでした。これこそまさに、景虎が精兵を率いてきた理由であったのです。
一魁斎芳年『魁題百撰相 足利義輝』(部分、国立国会図書館デジタルコレクション)
関東における「室町幕府の代理人」に
景虎は主力を近江坂本付近に分宿させ、自らは少数の供を連れて京に入り、将軍義輝に初めて拝謁。義輝にこう伝えています。「相応の御用を命じて下さるのならば、私は領国のことなど一向捨て置き、無二、上意様(義輝)の御前をお守りする所存です」。景虎は将軍の命令一下、三好勢を討ち平らげ、将軍を守護いたしますという思いを込めていました。
景虎が領国をなげうってまで将軍を守ろうとした理由は、そもそもの乱世の原因が「秩序の乱れ」にあると考えたからでしょう。本来、幕府管領細川(ほそかわ)氏の家臣に過ぎない三好氏が、武門の頂点に立つ将軍を京都から放逐(ほうちく)するなど、あってはならないことでした。将軍の権威が揺らげば、景虎が就任許可を求めている関東管領の権威も脅かされることになります。景虎は世の乱れの根本を正そうとしていました。
景虎の強い意思に接した将軍義輝は、深く感動します。軍を動かすことには同意しなかったものの、景虎を幕府相伴衆(しょうばんしゅう、管領に次ぐ席次)に取り立て、多くの特権を与えるとともに、上杉家の相続、関東管領就任の内諾も与えて、景虎に応えました。これによって景虎は、越後はもちろん、関東や信濃で「室町幕府の代理人」として振る舞えることになったのです。さらに義輝は、自分と景虎をつなぐ一人の人物を紹介します。関白近衛前嗣(このえさきつぐ、後の前久〈さきひさ〉)でした。