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2019.12.09

上杉謙信とは何者だったのか? 乱世に挑んだ越後の龍!【武将ミステリー】

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7.11万5,000の大兵力を動員した小田原攻めの真の目的とは?

密約を結んだ可能性

前嗣は義輝の正室の弟で、二人は同い年の24歳ということもあり、親密な間柄です。景虎はこの時、30歳。前嗣は公家の最高位である関白ながら行動力があり、朝廷、幕府の再建と秩序回復を願っていました。景虎ともすぐに昵懇(じっこん)となります。

そしてこの時、将軍義輝、関白前嗣、景虎の3人の間で密約が結ばれたという説があります。それは関東管領就任の内諾を受けた景虎の帰国とともに、前嗣も越後に下り、関白の権威をもって景虎を支援し、関東平定を実現。さらに関東を掌握した景虎率いる大軍が上洛して、畿内を牛耳(ぎゅうじ)る三好勢を打ち破り、秩序を回復させるという内容で、まさに「戦国終焉(しゅうえん)のシナリオ」と呼ぶべきものでした。

もちろん明確な史料の裏づけはありませんが、景虎と前嗣が血書の誓詞を交わしていること、また義輝が前嗣に内密で起請文(きしょうもん)を送り、実際に前嗣が関東に赴いていることからも、そうしたシナリオが実在した可能性は高いといえるでしょう。

小田原攻め

京都から越後に帰国した景虎は、翌永禄3年(1560)8月、小田原の北条氏に圧倒される関東諸将の救援要請に応えて出陣。三国山脈を越えて上野(こうずけ、現、群馬県)に入ると、瞬く間に諸城を攻略して上野一国を平定、上杉憲政の領地を奪還します。景虎は厩橋(まやばし)城(現、前橋市)に入り、北条討伐の檄文(げきぶん)と将軍義輝の御内書(ごないしょ)の写しを関東の諸将に送り、参集を呼びかけました。

そして年を越した永禄4年(1561)春、関白近衛前嗣と関東管領上杉憲政を従えて厩橋城を出陣。武蔵(むさし、現、埼玉県、東京都)に進軍すると、参陣者が続々と集結し、軍勢は実に11万5,000余りにふくれあがります。一方の北条氏は形勢不利と見て、主力は本拠の小田原城に籠(こも)りました。景虎は北条方勢力を潰しつつ、小田原に迫ります。

小田原城を囲んだ景虎は、3月13日より攻撃を始めますが、無理な力攻めはしません。景虎にすれば北条を滅ぼすつもりはなく、関東管領の威の前に北条氏康が膝(ひざ)を屈し、景虎を頂点とする関東の新秩序内に組み込むことができればよかったのです。11万5,000の大軍勢はいわば権威を示し、筋目を正すためのデモンストレーションだったのでしょう。

鶴岡八幡宮

関東管領・上杉政虎の誕生

しかし北条氏康は屈せず、同盟を結ぶ武田信玄に支援を要請。信玄は北信濃に進攻する動きを見せ、また越中(現、富山県)で一向一揆を活発化させて越後を脅かします。一方、氏康は別働隊に景虎軍の食糧弾薬を奪わせ、諸将の厭戦(えんせん)気分を募らせました。

景虎は頃合を見て陣を払い、閏(うるう)3月16日、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行います。関東諸将にこの儀式を見せ、新たな関東管領の下で戦乱が終結、新秩序が確立されることを意識づけることこそ、小田原攻めの最大の目的であったかもしれません。

景虎は上杉憲政より上杉の名跡を継ぎ、名を上杉政虎(まさとら)と改めました。本稿では以後、最もなじみのある上杉謙信の名を用いることにします。実際に謙信を名乗ったのは、元亀元年(1570)頃からでした。

謙信は6月中旬まで武蔵にとどまって北条の動きを牽制しましたが、その後、あわただしく帰国の途につきます。越後勢が疲弊しているとみた武田信玄の、北信濃での動きが本格化していたからでした。史上有名な「第四次川中島合戦」が迫っていました。

以下、【謙信の謎に迫る 後編】に続きます。

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【謙信の謎に迫る 後編 】もぜひお読みください。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。