平安時代の日記文学と言えば、「古典のテストで、名前と作者覚えたな」と思い返す人も多いはず。では、その内容はというと、「男なのに女のフリして書いた人」「やたら夫の愚痴ばかり書く人」「源氏物語オタク」とうろ覚えなもの。
それらを全否定はしませんが、読み込むと奥が深く、現代の私たちが読んでも「あるある」と納得することがたくさんあります。そんな平安時代の日記文学について、お伝えします。
平安時代の日記文学は、ブログのようなもの
現在、「日記」といえば、個人の心情を書いて時々見返すもの。基本的に、誰かに見せるものではありません。一方、平安時代は、記録として誰かに読まれることを意識して書いたもの。さらに、一日の終わりに書くというより、過去を振り返る「回想録」的なものでした。
また、書体は「漢文」と「かな」と2種類あります。前者は男性が使用し、行事内容などをまとめた「公的記録」。『小右記』(しょうゆうき)や『御堂関白記』(みどうかんぱくき)など。後者は女性が使用し、個人的な心情を表す「自叙伝」。今回は、こちら「かな」で書かれた日記について紹介します。
「漢文日記」は公的記録なので、後世に残す必要があるのは分かります。では、「かな日記」は何のために書かれたのでしょうか。諸説ありますが、「物語スポンサー」説を唱えた黒澤弘光氏は、このように書いています。
当時は紙が非常に貴重だったから貴族の娘でもやたらと使えない。そこを説明するのが「物語スポンサー」説です。(中略)おそらく『更級日記』も高貴なお方から依頼され、その方に読まれることを意識して書かれたものと推察されます。
『トランヴェール』「『更級日記』でめぐる、千葉・茨城」8ページ(2020年11月号)
読まれることを意識するうちに、もっと楽しんでもらいたい、多くの人に読んでもらいたいという思いが強くなり、内容が洗練され文学として高い評価を得ていったのですね。
現代のブログのよう。そして作者はブロガー。そう考えると、親しみが湧きませんか?
『更級日記』アラフィフには感慨深い
まずは、最近私が読んで感銘を受けた『更級日記』の紹介を。
『更級日記』 作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)1060(康平3)年頃成立
国司※である父の菅原孝標と共に、10~13歳まで上総国(今の千葉県)に住む。日記は13歳で京に戻るところから始まる。『源氏物語』など、物語の世界に夢中になった少女時代、結婚から夫との死別までの約40年、52歳までを記す。菅原道真の玄孫(やしゃご)。※国司(こくし) 朝廷から諸国に赴任した役人。
参考『新潮日本古典集成 更級日記』
菅原孝標女は、執筆時アラフィフ。その世代に入った私は、これも何かの縁かもと思い読んでみることに。
オタク精神は、自らを救う
『更級日記』のキーワードの1つが、『源氏物語』をはじめとする、「物語」。
世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ
(訳)世の中には物語というものがあるらしいけど、何とかして読んでみたいな。同上 13ページ
と、冒頭から興味津々です。その後都に着くと、母にせがんで物語を入手。「超うれしいー」と上機嫌でしたが、この後悲しい別れが続き、物語を読む気も失せてしまいます。
しかし、母が励まそうと知り合いから、『源氏物語』50余巻を入手。ようやく元気を取り戻します。もらったときは、天にも昇る心地。
人もまじらず几帳の内にうち臥して、(中略)昼は日ぐらし、夜は目の覚めたるかぎり
(訳)一人でつい立ての中に籠って、(中略)一日中、起きている限り同上 35ページ
と読みふけり、頭の中に物語の文章や内容が浮かんでくるほど。オタクの境地です。その結果、
さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
(訳)私だって年頃になったら、きれいになって、髪もすごく長くなって、『源氏物語』に出てくる夕顔や浮舟みたいになれるんだ、とその頃は思っていた。他愛なくて、あきれてしまう。同上 36ページ
中二病全開です。落ち込んでいた少女は、どこにいったのでしょう。とはいえ、悲しみを吹き飛ばすくらい好きなことに出会えるのは幸せなことです。しかし、直後に当時の自分にあきれている様子。その後も、「何てつまらないことを考えていたのだろう」と、物語に夢中になっていた自身を批判する描写が、いくつか見られます。
でも、私は本心には思えないのです。最初は否定する気持ちもあったかもしれませんが、自分の人生は「物語との関わり」なくしては語れない、と書きながら気付いたのではないでしょうか。
最愛の夫の死に、嘆き悲しむ
さて、孝標女は33歳で、橘俊通(たちばなのとしみち)と結婚しました。当時としては、遅い方です。日記には「結婚した」とだけ書き、期待とかけ離れた境遇だとこぼします。そして、妻として母として生きるうちに、物語のことは忘れてしいます。
しかし、その後、初瀬詣(長谷寺、現在の奈良県桜井市)にいったときのこと。1046(永承元)年、後朱雀天皇が譲位し、御冷泉天皇が即位。そのための儀式大嘗会(だいじょうえ)が開かれ、京は大騒ぎ。そんな中孝標女は、以前計画していた初瀬詣に行きます。家族や周囲の人は、「そんなときに行かなくても」とあきれ顔。このときの夫俊通とのやりとりは、
児どもの親なる人は、「いかにもいかにも、心にこそあらめ」とて、言ふにしたがひて出だし立つる心ばへもあはれなり。
(訳)夫利通が、「どうぞどうぞ、好きにしたらいいよ」と、私の意志に任せて行かせてくれた心使いは、とてもうれしい。同上 89ページ
夫を「児どもの親なる人」と他人行儀な言いはさておき。「好きにしたらいいよ」と言われ、孝標女も「あはれなり」と思うあたり、夫婦として連れ添い親になり、信頼関係ができていたのかなと思います。私が一番好きな場面です。
結局夫が病死するまで添い遂げるのですが、その描写は悲しみに満ちています。孝標女にとって、その死はショックであるため「書く」ことで、気持ちを落ち着かせていたのではないでしょうか。だから、日記の最後は寂しさに溢れています。孝標女は「晩年は侘しい人生を送った」と言われていますが、一部分を切り取って「侘しい人生」と判断するのは、私にとって違和感があります。
読んで感じたのは、「清濁併せて人生を振り返られる、客観能力のある人」だということ。当時のアラフィフは、人生の終焉期。心穏やかな来世のために、自分の人生を振り返る意味があったのではと思います。今は「人生これから」です。だからこそ、私も人生を振り返る作業をしたいです。
『蜻蛉日記』冷静と嫉妬の間
平安日記文学は、なかなか奥の深いもの。他の作品はどうでしょうか? 次に紹介するのは、菅原孝標女の伯母にあたる、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の『蜻蛉日記』です。
『蜻蛉日記』作者は藤原道綱母 974(天延2)年頃成立
藤原兼家との婚礼から始まり、夫の不貞に悩まされる日々、母としての思いなどを回想。内面を描き出し、女流文学の先駆けと言われ、『源氏物語』を始め多くの文学に影響を与えた。参考『新潮古典日本集成 蜻蛉日記』
ブラックな心情も、包み隠さず
藤原兼家は、藤原北家の御曹司(息子は道長)。一方の彼女も「日本三大美女」ともてはやされ、和歌の名手。リア充まっしぐらの、結婚生活のはずでした。当時は一夫多妻制。身分が高い夫ほど、他に妻がいて当然。しかし、彼女はそれに納得できず。
他の女(町の小路の女)の元に通うようになった兼家が、明け方自分の屋敷に来た際、門を開けませんでした。その後、嫌みを込めた和歌と色あせた菊を送ります。このときの和歌が、百人一首にも載った有名なこちら。
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
(訳)あなたが来られないことを嘆きながら、一人で夜を過ごす私にとって、夜の明けるまでの間がどんなに長いものか、あなたはご存知でしょうか。
女は妊娠・出産するも、息子は程なく亡くなります。そのときの心情がブラック(ここに書くのは控えます)。この頃彼女も息子を出産し、「道綱母」となりますが、同じ母としての気持ちが分からないのでしょうか。さらに、道綱に対しては息子命モード。成長しても「幼き人」と書き、子離れできない様子。彼女の内面に共感するのは、私には難しいので、別の角度で見てみましょう。
▼『蜻蛉日記』についてはこちらもチェック!
女のマウンティング合戦!『蜻蛉日記』作者・道綱くんママとランチ会 PART1【妄想インタビュー】
歌人としての誇り
『蜻蛉日記』には、200首以上の多くの和歌が収録。その中で兼家の作品は、大変たくさんあります。兼家側から依頼があったのかもしれませんが(物語スポンサー説)、政治家として大成した夫を、後世に伝えたいと考えたのかもしれません。道綱母の兼家に対する文章は、恨み言が多く主観的。そんな自分の思いは横に置き、兼家の和歌を載せることに、「歌人」としての誇りを感じました。
「安和の変」主観的だけど冷静な視点
969(安和2)年、安和の変という、藤原北家による他氏排斥事件が起こりました。これにより、左大臣源高明(みなもとのたかあきら)は流罪になり、藤原北家は政治的地位を独占。道綱母は、
身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、悲しと思ひ入りしも誰ならねば、記しておくなり。
(訳)身の上だけを綴るこの日記には、入れるべき事柄ではないけれど、悲しいと思ったのは他でもない私なので、書いておくことにする。同上 91ページ
と断り、事件に触れています。高明が流罪に至る過程を詳しく書く一方、夫兼家の家系の藤原北家には触れないところに、気遣いを感じます(兼家は事件に直接関わらず)。
高明側に同情する主観的な描写の中にも、当時の世間の不穏さが伝わってきます。無意識に書き残す必要を、感じたのではないでしょうか。
嫉妬深さが強調されがちですが、冷静に物事を見られる現実的な人でもあると思いました。門を開けなかったときの和歌が、百人一首にも載っているため、その印象が独り歩きしたのかもしれません。
『土佐日記』珍道中に裏テーマあり
最後は古典のテストにも出てくる、『土佐日記』。
『土佐日記』作者は紀貫之(きのつらゆき) 935(承平5)年頃成立
国司として赴任していた土佐国(現在の高知県)から、京に帰るまでの2か月余りの出来事を綴った紀行文。日記文学としては最古のもので、後に成立する『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』などに影響を与える。
歌人としても有名で、『古今和歌集』の編纂に関わる。参考『新潮古典日本集成 土佐日記 貫之集』
冒頭部分が、よく出てきますね。
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
(訳)男だって書くという日記を、女の私も書いてみよう。同上 11ページ
「す」の使い方について問われたのを、思い出した方もいるかも。
自分の思いを書くのは、「かな」
貫之が女性の立場で書いたことには、諸説あります。ただ、「かな」で書かれたことは間違いありません。最初に書きましたが、男性の日記は「漢文」で書かれた公的記録が、一般的。自分の思いは、「かな」の方が書きやすいと思ったのでしょう。
また、得意の和歌も載せるには(和歌は男女とも「かな」で書く)、好都合だったのかも。では、そこまでして伝えたかった「思い」は何でしょうか。
亡き娘のことを、笑いと涙で伝えたい
帰京の準備の様子が7日ほど書かれた後に、亡き娘のことが不意に語られます。京で生まれて土佐に連れて来たものの、この地で急死。京には連れて行けない、と嘆きます。しかしその後、旅はテンポ良く進みます。時期はお正月。長寿を願う食べ物を口にする習慣があるのですが、旅の途中で、手に入ったのは、土佐の名産の押鮎(おしあゆ)くらい。それを頭から食べながら、
この吸ふ人々の口を、押鮎もし思ふやうあらむや。
(訳)鮎もこんな風に人の口で接吻されて、何か感じているのかもしれないな。同上 16ページ
とオヤジギャグ。これでは「女」でないことバレませんか?
こんな感じで、笑いと涙が交互にやってきて、引き込まれるように読みました。ただ、旅で関わった子どもについては詳しく書かれたり、娘を失った悲しさを歌に詠んだり、かたときも娘のことは忘れていませんでした。
最後、念願の京に戻り自宅に着くのですが、娘がいないこの家でまた暮らす寂しさがひしひし伝わってきました。男の自分が、娘の死を悲しんでいるところを見せたくない。だけど書き残したい。と複雑な思いから「かな」にしたのかもしれません。
おわりに
一部ですが、平安時代の日記文学を紹介しました。
どれもそれほど長くなく、1000年近く前のことなのに、「あるある」と共感することしきり。古典に興味を持たれた方は、『源氏物語』『平家物語』の長編より、日記から読み始めると良いと思います。
SNSをされている方、「読まれる文章」を書くヒントが隠されているかもしれませんよ。私も他の作品を読んで勉強しようかな。
<参考文献>
・秋山虔 校注『新潮日本古典集成 更級日記』(新潮社、平成29年)
・文:平塚武二、絵:竹山博、監修:西尾実『わたしの古典 更級日記』(童心社、2009年)
・『トランヴェール』「『更級日記』でめぐる、千葉・茨城」8ページ(2020年11月号)
・犬養廉 校注『新潮日本古典集成 蜻蛉日記』(新潮社、平成29年)
・木村正中 校注『新潮日本古典集成 土佐日記 貫之集』(新潮社、平成30年)