「おばさん」って何歳からでしょうか?
おそらく、答える人によって回答が変わってくるのではないかと思います。年齢不詳の女優や美魔女が話題になる一方で、女子大生にとっては、「25歳をすぎたらおばさん」という調査結果もある模様……。
江戸時代よりも平均寿命が延び、見た目だけでは年齢を推測することが難しい現代。女性にうっかり「おばさん」なんて言ったら、たちまち非難の声が出てきたり、炎上したりする恐れもありそうです。
男性が女性を演じる歌舞伎には「悪婆(あくば)」と呼ばれる年齢不詳のいい女の役があるのをご存じでしょうか? 漢字だけを見ると、何となく「悪いお婆さん」役にように思ってしまいますが、実は、「悪婆」は素敵な女性なのです!
この記事では、悪婆の代表的な役の一つである『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』の「土手のお六」を例に、悪婆の魅力を紹介します。
歌舞伎の「悪婆」ってどんな役?
「悪婆」は歌舞伎の女形の役柄の一つで、ちょっと威勢のいい姉御肌の女性。歌舞伎関係の事典の説明では、「悪婆」を「中年の女性(=おばさん?)」としていますが、あくまでも江戸時代の中年女性なので、私自身は20代後半から30代半ばくらいの年齢設定ではないかと思っています。「婆」という字があててありますが、年をとったお婆さんいうよりも「お転婆」で、女盛りのどこか色っぽい、魅力的な女性といった感じでしょうか?
歌舞伎の立役の「色悪(いろあく)」は、イケメンだけど、血も涙もないような非情な悪い男。
一方「悪婆」は、かわいいらしさも持ち合わせた女性です。女だてらに刃物を振り回したり、強請(ゆすり)たかりをしたりするので、毒婦、妖婦と呼ばれる悪女? でも、悪事を働くのも、男を惑わすのも大好きな男のためとか、以前に奉公した主のためとか、「仕方なくやる」場合が多いのが悪婆なのです。
上記画像の作品名にある「左り」というのは「左党(さとう/酒好きな人)」という意味です。
生え際の髪がほつれ、いまにもほどけそうなヘアスタイルで、地味な着物の衿元がはだけた女性は、右手に持った盃を隠すようなしぐさをしいます。かなり酔っていて、「もう、お酒はいらない」とでも言っているのでしょうか?
幕末の退廃的な世相が生んだ「悪婆」という役
歌舞伎には、「世話物(せわもの)」と呼ばれる演目があります。世話物は江戸時代の町人社会を描いた、江戸の現代劇のようなもの。登場人物は江戸の町のどこにでもいる職人や長屋の住人などが多く、実際に起きた事件が取り入れられる場合もありました。
世話物の中でも、特に下層社会の人物や生活をより写実に描いた演目、人間の性根や悪性をリアルに描いた演目は「生世話物(きぜわもの)」と呼ばれます。生世話物の代表作と言えば、四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』。江戸時代後期、文化文政時代(1804~1830年)の退廃期と言われた世相を背景に、伊右衛門の悪事や、お岩をはじめとする様々な人々の救いのない悲劇が赤裸々に描かれています。
「悪婆」という役は、このような世相の中で生まれた歌舞伎の役柄なのです。
初めて「悪婆」が舞台に登場したのは、寛政4(1792)年11月の河原崎座『大船盛蝦顔見世(おおふなもりえびのかおみせ)』で四代目岩井半四郎が演じた切見世女郎「三日月おせん」だと言われています。
この芝居は脚本が残っていないらしいため、「三日月おせん」がどのような性格だったのかはよくわからないのですが、おせんは下級の遊女で、ならず者とぐるになり、女官に化けて新田義貞(にった よしさだ)の館に文句を言いに行く、という内容だったようです。おせんの役を勤めるにあたって、四代目半四郎は、三田の私娼街に行き、下層階級の生活をリアルに舞台に再現して成功したと言われています。
これをきっかけにして、「土手のお六」「うんざりお松」「鬼神のお松」「切られお富」「女定九郎」など、様々な悪婆の役が生まれました。
悪婆の代表的な役・「土手のお六」はこんな女性!
悪婆の代表的な役の一つ「土手のお六」は、『於染久松色読販』と『杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)』に登場します。
『於染久松色読販』のあらすじ
土手のお六と、鬼門の喜兵衛は悪事を働く夫婦です。
向島・小梅で莨屋(たばこや)を営むお六のもとへ、かつて仕えていた奥女中の竹川から手紙が届きます。そこには、「紛失していた御家の重宝の名刀・午王吉光(ごおうよしみつ)と折紙が油屋にあることがわかったので、とり戻すために必要な100両の金を工面して欲しい」とあります。お六が思案しているところへ、亭主・鬼門の喜兵衛が帰ってきます。しかし、実はそれらを盗み出した張本人が、喜兵衛。
河豚(ふぐ)にあたった丁稚久太の死体に細工をし、強請(ゆす)って金を手に入れることを思いついた二人は、油屋へ乗り込みますが……。
名女形・五代目岩井半四郎によって生まれた役
『於染久松色読販』は、文化10(1813)年3月、森田座で初演されました。
宝永5(1708)年に起こった大坂・瓦屋橋(かわらやばし)にあった油屋の娘・お染と丁稚(でっち)久松の心中事件を題材にした「お染久松物」と呼ばれる浄瑠璃・歌舞伎作品の一つです。この作品では、大坂で起こったお染久松の心中の舞台を江戸に移して描いています。
この作品は、愛嬌あふれる瞳で「目千両」「大太夫」と呼ばれた人気絶頂の名女形・五代目岩井半四郎のために鶴屋南北が書下ろした作品です。容姿に恵まれ、特に目に愛嬌や色気がある上、せりふも優れていて人気だったと言われる五代目半四郎の個性が、土手のお六という役に十分に生かされたものと思われます。
お六の活躍を見逃がすな!
通称「お染の七役」と呼ばれるこの作品では、油屋お染、丁稚(でっち)久松、久松の姉竹川、お染義母・貞昌尼、土手のお六、お光、賤の女(しずのめ)お作の七役(町家の娘、若衆、奥女中、町家の後家、悪婆、田舎娘、百姓女房)を、初演当時流行していた早替わりで演じます。(現行では、賤の女お作ではなく、芸者小糸として演じられます。)
七役の早替わりの面白さに加えて、土手のお六の活躍も見のがせません。惚れた男のために悪事を働く「悪婆」と呼ばれる役柄のお六。お六は女性でありながら男性的な気風(きっぷ)の良さと強さ意志を持ちつつ、どことなく色気も感じられます。
江戸の町の最底辺に生息し、封建道徳の枠を超えて自らの欲望の赴くままに行動するという喜兵衛やお六という人物が生き生きと描き出されています。特に、油屋での強請の場では、お六の鉄火な啖呵(たんか)に喜兵衛の凄みのある悪が加わり、悪の魅力があふれた場面です。
『杜若艶色紫』の土手のお六
『杜若艶色紫』にも土手のお六が登場しますが、お六はなんと見世物小屋の蛇つかい! 職業は違うものの、『杜若艶色紫』のお六も、粋で気風が良く、魅力的な女性です。
お六は、亭主・伝兵衛の弟の金策ため、悪人に加担。堕落僧・願哲 (がんてつ) と共謀し、奥女中に化けて、吉原の遊女八ツ橋と佐野次郎左衛門の仲を裂きます。八ツ橋は、誤解した次郎左衛門に殺されてしまいますが、実は、八ツ橋はお六の実の妹でした。
いったんは次郎左衛門の罪を被って縄にかかったお六でしたが、縄を振りほどき、次郎左衛門さ探し求める籠釣瓶(かごつるべ)の名刀を所持する願哲を吉原の土手へ追っていきます……。
鶴屋南北原作の『杜若艶色紫』は、文化12(1815)年5月、江戸・河原崎座で初演され、五代目岩井半四郎が遊女八ツ橋・土手のお六という対照的な二役を早替りで演じ分けました。
「悪婆」のファッションに注目!
悪婆の役は、ファッションが特徴的です。
まず、ヘアスタイル。髪は髷(まげ)を結わずに後ろに結んでいます。このヘアスタイルが馬の尻尾を結んだ形に似ていることから、歌舞伎では「馬の尻尾」と呼ばれています。歌舞伎では、悪婆の役のほか、田舎の娘や女房の役がこうしたヘアスタイルをしています。
髪を後頭部で一つにまとめて垂らしたヘアスタイルを「ポニーテール」と呼びますが、単にゴムで一つに結ぶだけではNG? トップを無造作に引き出してニュアンスを作り、こなれ感を持たせるのが大人女子のおしゃれなポニーテールなのだとか。ちなみに、歌舞伎の「馬の尻尾」ヘアも、色っぽく見せるように工夫をしているそうです。アクセントに、髪の横に櫛(くし)を指すこともあります。
着物は、黒繻子の衿をかけたシックな色の着物。弁慶縞と呼ばれる大きな格子柄だったり、縞柄だったり。着物自体はシックな色ですが、実は着物の裏地や中着、襦袢、半衿の色や模様が凝っていて、おしゃれなんです!
『於染久松色読販』の強請の場で、お六は目いっぱいおしゃれをして油屋に出かけます。
「馬の尻尾」と呼ばれるヘアスタイルはいつもどおりですが、弁慶縞の着物に半纏を着たいなせな姿で啖呵をきる姿に、「かっこいい!」と思ってしまうこと、間違いなしです。
悪婆は悪い女? それとも……?
「悪婆」と呼ばれる女形の役は、歌舞伎の女形の役の中でも現代的な役のように思います。
「悪婆」について、「悪知恵にたけた女。腹黒く、人に害を与える女。平気で悪いことをする女」という説明が書かれていることもありますが、私自身は、その説明に違和感を感じてしまいます。下層階級に属していて、ちょっと悪の匂いもするけれど(悪いこともするけれど)、頼りがいがある女性。男性から見ると、どこか色っぽく、粋で奔放で、かわいらしい面も持ち合わせた女性。同性からも人気のある、姉御肌のいい女こそが悪婆なのではないでしょうか?
機会があれば、ぜひ舞台を観て、ご自身で「悪婆」がどんな女性なのか確認してみてください。
主な参考文献
- 『新版歌舞伎事典』 平凡社 「悪婆」「お染久松色読販」の項目など
- 『演劇界』 2011年7月 巻頭特集「四世鶴屋南北」
- 『演劇界』 2009年6月 巻頭特集「強く妖しく美しい女 悪婆」