何気ない退屈な日常が、実はかけがえのない日々だった。そう気づかせてくれるのは、過去に他所から来た旅人かもしれない。今回の主人公は明治初期のイギリス人の女性旅行家、イザベラ・バード。1878年に東北や北海道、関西などを旅し、1880年に出版された『Unbeaten Tracks in Japan』やその後に出された簡略本は世界的に高く評価され、女性として初めて英国王立地理学協会の特別会員にも選出されている。
この時代の日本といえば、鎖国状態から一転。1853年にペリー率いる黒船が来航したのち、各国との和親条約の締結や遣欧使節の派遣など、海外との交流は活発化していった。しかし、制度面の整備が追いついておらず、海外の人が日本を旅をするには、調査・研究活動など相当な理由がないと許可が下りなかった。通行手形や宿泊の届け出などの決まりも厳しく定められていた。そのような時代に、イギリス人女性がなぜ一人で日本に入国し、長い旅ができたのか。そして、どのような旅をしたのかに迫る。
イザベラ・バードの日本の旅の旅程
イザベラ・バードが日本を旅した目的としては、「純粋に日本の生活文化を見たいという想いがあったから」と「キリスト教を普及する可能性を探るため」という2つがあった。旅のルートは行き当たりばったりではなく、宣教師のいる場所にも立ち寄るよう計画をされていた。旅の立案は英国公使のハリー・パークスが行い、外務省や開拓使など日本側の支援もあった。
日本の旅に向けての準備は、インターネットが普及していない時代なので、事前に日本に住んだことのあるイギリス人に話を聞き、個人的にも情報収集をした。日本入国後は、伊藤鶴吉という通訳を雇った区間もあるが、一人旅をしたという区間もある。旅行家としての純粋な想いとキリスト教を普及するという任務の双方を考えながら、旅をしていたのだろう。まずは、旅行記(『Unbeaten Tracks in Japan』)の執筆の元になった、日本での旅の基本的な情報について以下にまとめておく。
滞在期間
1878年のうち7ヶ月間
滞在場所
①東京から北海道までの陸路片道
(東京→日光→新潟→山形→秋田→函館→平取)
②北海道から横浜までの海路片道
(平取→横浜)
③神戸から伊勢神宮までの陸路往復
(神戸→大阪→京都→奈良→伊勢神宮→鈴鹿→京都→大阪→神戸)
交通手段
馬、船、人力車、徒歩など
宿泊場所
村の貧しい宿から、大名が泊まる高価な宿まで様々。
持ち物
リービッヒ肉エキス、乾葡萄、チョコレート、ブランデー、メキシコ風の鞍と馬勒(馬に取り付ける道具)、衣服(部屋用・外用)、ロウソク、カメラ、日本大地図、『英国アジア協会誌』数冊、革の丈夫な編み上げ靴、日本の笠など
持ち物に注目すると、和洋折衷なのが面白い。「郷に入れば郷に従う」という精神を、少なからず大事にしていたのかもしれない。今ではスマホで完結してしまう地図や書籍もきちんと持参している。また、交通手段として馬に乗ることも想定に入れてか、鞍(くら)や馬勒(ばろく)を持参しているのも興味深い。
愛用のカメラとイザベラ・バード(出典:The New York Public Library)
貧しい暮らしをしていた東北の人々
さて、ここからは本題であるイザベラ・バードの旅における視点に迫っていく。イザベラ・バードの旅行記からは、日本(とりわけ東北地方)の貧しい暮らしの実情が読み取れる。寝床には雨風が吹き込み、蚤(のみ)がたかり、顔に吹き出物だらけの人々が多く暮らしていたそうだ。生活環境は決して良いとは言えず、農民一揆も頻発して人々の不満も貯まっていた時代のことである。
イザベラ・バードの旅において最初の困難は、現在の埼玉県春日部市付近(粕壁)で、蚤の大群に襲われたことだった。宿泊先に夜も眠れないほどの蚤がいたのだ。これは当時の日本人にとって当たり前のこと。日本人が書いた旅行記には蚤に関しての記述が少なく、とりわけ強調されてこなかった。
蚤の大群が襲来したために、私は携帯用の寝台に退却しなければならなかった。
現在の福島県南会津郡付近の宿に泊まった時。医療技術が普及しておらず、村の医者ではどうしようもない病気を抱える人、貧しくて辛い暮らしをおくる人に出会ったという。服は洗濯をすると痛むので、同じ服を着続けるか裸で過ごすことも多く、新しい服を手に入れようとしても補給が追いつかないこともあったようだ。
私は障子を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。・・・子どもたちは、虫に刺され、眼炎で半ば閉じている目をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、すべてがむさ苦しい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっている。・・・私には、彼らの数多くの病気や苦しみを治してあげる力がない。
またこの宿の近くで、年老いて見える若い女と出会ったそう。今の日本の女性は若く見られることも多いが、昔は決してそんなことはなかったようだ。生活環境が非常に苦しかったことが読み取れる。
既婚の女性は青春期がなかったかのような表情をしており、その肌はなめし革のようであることが多い。川島で宿の奧さんにおいくつですかと尋ねたところ、五十歳ほどに見えたその人は二十二歳ですと答えた。
日本の素晴らしさを見抜いた観察眼
イザベラ・バードが見たのは、非常に貧しい暮らしの実情だった。しかし、その一方で、外から見た日本の魅力にもたくさん気がついていた。それは主に、日本に暮らす人々との関わりの中から見えてきたものが多かった。
通訳には誠実さがあった
イザベラ・バードは東北を数ヶ月間、伊藤鶴吉という18歳の通訳と旅をしている。当時、47歳のイザベラ・バードからすると若い男性との2人旅という感覚だろう。商売をしている日本人は旅行者から少し多めにお金を取り、懐に入れてしまうことも多かったそう。イザベラ・バードも最初は、伊藤を全く信用していなかった。しかし、後に「彼よりも役に立つ召使い兼通訳を雇えたかどうか疑わしい」と旅行記に記している。それは、以下の記述に見られるように、彼の通訳としての素質や日本人が大事にする考え方に気がついたからだろう。
酒には手を触れず、言うことに従わぬことは一切ない。同じことを二度言ってやる必要もなく、いつも私の声の聞こえるところにいる。彼は同じことを如才なく繰り返し、すべて自分自身の利益にしようという意図を隠さない。彼は給料の大部分を、未亡人である母に送る。「この国の習慣です」と言う。
プライバシーのない価値観が秩序を保つ
日本人を信用するようになった理由としては、旅の途中で荷物を盗まれることがないということもあっただろう。それはこんなシーンから読みとれる。
私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、私的生活(プライバシー)の欠如は恐ろしいほどで、今もって、錠や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほど他人を信用することができない。
このように日本の家屋は開放的に作られているため、最初は母国・イギリスの家に比べるとプライバシーが欠如していると感じて不安だったそうだ。その後に、「目の不自由な人や少女が障子を開けて部屋に入ってきてしまった」という記述もある。しかし、襲われたり物を盗まれたりということがなく、結果的には安心して旅ができたようだ。
私の心配は、女性の一人旅としては、全く当然のことではあったが、実際は、少しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。
これについて、民俗学者・宮本常一は著書『イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む』の中で、興味深いことを書いている。それは、「われわれの生活を周囲から区切らなきゃならない時には、すでにわれわれ自身の生活が不安定になっていることを意味するのではないかと思うのです。」という記述に見られる。
実際に、イザベラ・バードもこれと同じような実感を抱いていたらしく、それは混浴のお風呂に入った時の表現から読み取れる。
浴場においても、他の場所と同じく、堅苦しい礼儀作法が行われていることに気づいた。お互いに手桶や手拭いを渡すときは深く頭を下げていた。日本では、大衆の浴場は世論が形づくられる所だ、といわれる。ちょうど英国のクラブやパブ(酒場)の場合と同じである。また、女性がいるために治安上危険な結果に陥らずにすむ、といわれている(つまり男女混浴ということ)。しかし政府は最善をつくして混浴をやめさせようとしている。
つまり、イザベラ・バードは混浴こそが、日本の生活の安定した秩序を保つために不可欠な習慣として機能していると考えたわけだ。これは、非常に斬新で面白い視点である。
警官が日本の生活文化を方向づける
決まりを作るのが政府とすれば、それを人々の生活の中で忠実に遵守して、取締りを行うのが警官。つまり、日本の生活文化は現場に立つ警官の行動によって、その方向を見て取ることができる。そう考えるのは、重要な視点かもしれない。イザベラ・バードは秋田で見物した祭りにおける警官の人数を正確に記録している。
祭りに浮かれている三万二千の人々に対し、二十五人の警官で充分であった。私はそこを午後三時に去ったが、その時までに一人も酒に酔っているものを見なかったし、またひとつも乱暴な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
この時代には、警官が多数出動する必要がないほどに治安がよかったということである。ちなみに、近年渋谷のハロウィンには100人以上の警官が動員されている。今より明治初期の方が規制がなくても秩序が保たれる社会だったことは間違いない。
このように、イザベラ・バードは「暮らしの中にある幸せ」について、表面的な貧しさや農民一揆のような出来事に目を向けるだけでは気づかないところまで見抜けていた。日本のみならず様々な国を旅する中で獲得した観察眼には、ただただ驚かされる。
イザベラ・バードの肖像(出典:The New York Public Library)
旅の中での新鮮な体験が視野を広げた
ところで、旅行記の中にはイザベラ・バードにとって新鮮だった体験に関する記述が多く見られる。例えば、日本人は味噌汁が好きな方も多いと思うが、これを「ぞっとするほどいやなもののスープ」と表現している。また、日本人は蓮の根っこ(蓮根)を食べることに驚き、「あの壮麗な花の蓮が、食用のために栽培されている」と新鮮な目を向けている。イギリスでは普段、蓮根を食べないようだ。このようなエピソードはたくさんあり、日本の旅が非常に刺激的であったことが窺える。新鮮な体験の数々が視野を広げ、先ほど述べた観察眼を磨くことに繋がったのかもしれない。
明治時代を生きた画家・幸野楳嶺が描いた蓮根(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
視点を変えれば違って見える
私たちは普段、自身の偏った見方や小さなコミュニティの見解、少ない情報等によって物事を判断しがちだ。生活環境も人間関係も全てにおいて言えることだが、不満を持った時は一度立ち止まって様々な角度から検討しないと見えてこないこともある。切り捨ててしまってから、意外と恵まれていたことに気づくのは避けたいものだ。物事に対して早急に判断を下さないことが意外と幸せへの近道かもしれない。何れにしても、自分は意外と何も知らない人間である。そう思いながら、新鮮な感動や驚きに触れ続けたいものだ。
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参考文献
宮本常一,『イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む』, 講談社学術文庫, 2014年
イザベラ・バード 著,金坂 清則 訳注,『完訳日本奥地紀行 2』, 平凡社, 2012年
アイキャッチ画像の出典:The New York Public Library