「勇気、希望、そしてサム・マネー(ほんの少しのお金)」
これは、喜劇王チャールズ・チャップリンの有名なセリフの一節。
映画『ライムライト』の中で、「人生に必要な3つのモノ」として挙げられた内容だ。
一方で、こんな3つを選んだ人も。
「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」
コチラは、京セラや第二電電(現KDDI)などを創業した稲盛和夫(いなもりかずお)氏の言葉。人生や仕事の結果は、この3つの要素の掛け算で決まるのだとか。
歩んできた人生は、人それぞれ。
生まれも境遇も、そして人格も異なる。だからこそ、自身の経験を踏まえた言葉には、フィクションではない「自然の重み」が増すのだろう。
今回は、そんな「人生に大事な3つのモノ」がテーマ。
さて、ここで。誰を取り上げようかと迷ったが。激動の戦国時代に、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えた男をロックオン。この三英傑に大事にされた人物といえば。
コチラのお方。
播磨姫路藩初代藩主「池田輝政(てるまさ)」である。
早速、彼の言葉をご紹介して、と話を進める前に。
やはり、ここは1つ。まずは、ご自身で予想をして頂きたい。
一体、戦国武将にとって、何が重宝だったのか。
池田輝政のファイナル・アンサーとは?
それでは、用意ができたところで。
答え合わせといこうではないか。
三英傑に大事にされた男「池田輝政」とは?
と、その前に。
「池田輝政」と聞いて、ああ、あの人ねとは、なりにくい。俗にいう戦国時代の「三英傑」、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を渡り歩いた男は、細川幽斎(藤孝)や藤堂高虎など、他にもいる。
ただ、3人から格別の扱いを受けていた人物はというと、恐らく少ないだろう。注意すべきは、池田輝政本人に魅力があるかどうかではないというコト。どちらかといえば、様々な出来事が運よく働いた。その結果なのかもしれない。
まずは、彼の言葉を紹介する前に。
三英傑との関係性から、「池田輝政」本人を簡単に説明しておこう。
天下人たる豊臣秀吉といえば。
その甥である「秀次(ひでつぐ)」が切腹に至った「秀次事件」が有名だろう。
これに連座して、秀次の死から半月ほどのち。秀次の妻子らが処刑される。京都で白昼に延々と時間をかけて行われた処刑は、あまりにも凄惨で。秀吉の残虐さを語るうえでは欠かせない出来事の1つ。
じつは、この描写が詳しくなされているのが、『信長公記』の作者でもある、あの太田牛一の記した『太閤さま軍記のうち』。この中で、不可思議と思えるような一節がある。抜粋しよう。
「関白秀次卿のわかまんどころ殿、羽柴三左衛門兄弟に候あひだ、三州へ送りつかはされ、そのほかの美女たち、若君三人これあり。御成敗の次第」
(小和田哲男著『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』より一部抜粋)
どうやら、信じられないことに。理不尽な処刑から難を逃れた人間がいるようだ。
それが、「わかまんどころ」という名前の女性。
これでは、ヒントが少ないだろうか。もう1つの呼び名として「羽柴三左衛門兄弟」という部分に注目しよう。じつは、この「羽柴三左衛門」の正体が「池田輝政」なのである。
「羽柴」というからには、一族かと思いきや。じつは、秀吉から「羽柴姓」を授かったというオチ。少し話は逸れてしまったが、池田輝政の妹も、次期権力者であった「秀次」に嫁いでいたのである。しかし、彼女だけは、連座で処刑場送りとはならず、なぜか別の場所へと移送。なんとも、あの悲劇を免れたというのである(諸説あり)。
一体どうして。
その理由が、芋づる式に、秀吉が「池田輝政」を格別に扱う理由へと繋がってくる。その核心は、輝政の出自によるもの。じつは、秀吉には池田家への負い目があるのだ。
輝政は、永禄7(1565)年、尾張(愛知県)にて池田恒興(つねおき)の子として生まれる。父の池田恒興と織田信長は乳兄弟の間柄。恒興の母、つまり輝政の祖母である「養徳院」が、自分の乳で信長を成長させたのである。そんな経緯もあり、信長との関係も良好。輝政も父に従い、織田家家臣として、謀反を起こした荒木村重攻めに参陣している。
しかし、天下取り寸前で。予想だにしないコトが起こる。
天正10(1582)年、「本能寺の変」にて織田信長自刃。
この謀反を起こした明智光秀を、秀吉とともに討った池田恒興。そして、信長亡きあとの天下争いでは、自分がのし上がらずに「秀吉」を支持。天正11(1583)年、次期ポストを争い秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、恒興はその功が認められ、秀吉より美濃国(岐阜県)13万石を与えられる。
これが続けば、順風満帆な人生だったのかもしれない。ただ、現実はそう甘くない。落とし穴に気付くことなく、恒興はまさかの戦死。それが、天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」でのこと。
この合戦は、秀吉が天下人となるために避けては通れなかった徳川家康との戦いなのだが。じつに、恒興の死は、予想外の出来事であった。というのも、秀吉側の軍勢は、信長の次男の「織田信雄(のぶかつ)」と家康の連合軍に比して、遥かに多かったのである。
それにもかかわらず、なんと、池田恒興は討死。それも、恒興の嫡男の「元助(もとすけ)」もろともである。さらに、秀吉にとって追い打ちとなるのが、当時、戦いを指揮したのが、次期継承者候補の甥の秀次だったというコト。
池田家当主に嫡男まで。秀吉からすれば、信じられないほどの痛手。加えて、戦死した池田家には申し訳なさでいっぱい。ここで、池田家の家督を継いだのが、父と兄を失った「輝政」であった。こうして問題なく遺領を引き継ぎ、輝政は大垣城(岐阜県)主となるのである。
その後、秀吉の下で着々と武功を上げ、天正18(1590)年の小田原征伐などに参陣。結果的に、輝政は三河吉田(愛知県豊橋市)の15万2000石を与えられている。それだけではない。池田家にとっての秀吉の最大の功績は、次期天下人である徳川家康に、うまく「縁」をバトンタッチしたことだろう。
じつは、池田輝政は、秀吉の命で、徳川家康の娘である「督姫(とくひめ)」を継室(後妻)に迎えているのである。これが、池田家繁栄のターニングポイントとでもいおうか。
庇護者であった秀吉が亡くなったのちも。
慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」では、この縁あって、家康に従い東軍で参陣。もちろん、結果は東軍が勝利し、家康は江戸幕府の礎を築くことに。後世でも、家康は「神君」として崇め奉られる人物となるのである。
そして、池田輝政はというと。
戦功により、播磨国(兵庫県)52万石の大大名へ。姫路藩初代藩主に収まるのであった。
加えて、強力な後ろ盾も。
それは、神君の「婿」という立場。
こうして、池田輝政は、世に「西国の将軍」とうたわれる男となったのである。
で、輝政のいう「三つの重宝」とは?
随分、前置きが長くて申し訳ない。いよいよ、である。
三英傑との絆がある池田輝政。
彼がいう「戦国武将の三つの重宝」の内容とは、いかなるものか。早速、発表していこう。
出典は『名将言行録』より。
それでは、ドラムロールを鳴らしての1つ目。
「領土の百姓」
まあ、なんだ。あれほど期待させておいてと、思われる方もいるだろう。じつのところ、この答えは、そんなに驚くものでもない。ちなみに、その理由はというと。
名将言行録では、池田輝政と家臣との問答という形式で記されているのだが。輝政は、あっさりと以下の理由を挙げている。
「百姓は田畑をつくって、わが上下の諸卒を養っている」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
確かに。まさしく。そりゃそうだ。という納得感。
どちらかというと、輝政だからというワケではないだろう。他の戦国武将からでも、出てきそうな回答である。捻りもなく、初級編といったところか。
この時点で、脱落という方はまだ少ないだろうか。
それでは、張り切って2つ目。
ダラララララ~
「譜代の士」
おっと。「ダン」ってなる前で、かなりのフライング気味。緊張感なき発表となったことをお許し頂きたい。
さて、2つ目の回答も、これまた普通っぽい。
うん? いや、果たしてそうなのか?
よくよく確認してみると、ただの「士」ではない。「譜代」との限定が付いている。ちなみに「譜代」とは、代々同じ主家に仕えることやその家系を意味する。つまり、池田家に代々仕えてきた家系の武士というピンポイントな回答。それにしても、どうしてそんな限定をするのだろうか。
ここは、輝政ご自身に解説頂こう。
「譜代の士は、たとい気に入らぬことがあってみずから扶持を放れても、敵国ではその者をほんとうに扶持を放たれたとは思わず、間諜に入ったのだと疑われて、敵地に逗留することもできず、結局、元のわが国に帰ってわが兵となる」
(同上より一部抜粋)
なんだか、納得できそうで、できない感じ。個人的には、腹にストンと落ちにくい、そんな論理的展開である。「譜代の士はなあ、先祖代々……ううっ(嗚咽)。よくぞ、わしに……仕えてくれた」とかねえ。一瞬、そんな情に厚い理由かと思ったのだが。
ぶっちゃけ嫌になってもさ、うち以外は行くとこないじゃん的な意味合いが透けて見えなくもない。だったらお互い、このままうまくやろうぜと。そんな前提で「大事にしたいモノ」リストにランクインしたのか。そう考えれば、輝政の個性が出始めた回答だといえるのかもしれない。
じつにこの理由まで含め、2つ目を当てた方は意外に少ないのではと推測する。
中級編のレベルといってもいいだろう。
それでは、ようやくの3つ目へ。
「武将の三つの重宝」のラストアンサーである。コチラは、あっさりと上級編に認定済み。だって、ホントに。微塵も想像できない、そんな回答なのだから。
皆さま、意を決して参りましょう。
ドラムロール!
ダラララララララ~
ダン!
「鶏」
えっ?
ええ。いや、そうです。
間違ってませんよ。想像通り。下の絵のコイツですよ。
なんでやねんと、ぼやく前に。とっとと、輝政に説明をしてもらおう。
Hey! 輝政~!
「目に見える合図や耳に聞こえる合図は、敵の耳目にかかるので、たやすく見破られてしまう。ところが鶏鳴は、誰も合図とは知らぬから、敵国の鶏鳴の一番鳥で一同を起こし、二番鳥で食事をし、三番鳥で打ち立つなどと合図を決めることができるが、敵はそれを合図とは気付かぬという徳があるのだ」
(同上より一部抜粋)
見事といえるくらいの想定外の着地。
それにしても、3つ目の回答を、誰が「鶏」と思うだろうか。そろそろ、精神面でくるかと思いきや、全くの現物。私個人の感想としては、色々な意味で、池田輝政の弾ける個性が眩しすぎる。
一方で、実戦的な視点に立つと。
目の付け所は、なるほど輝政。特に、「自国」ではなく「敵国の鶏」というところがグッドチョイス。つい、唸ってしまった。さすがは、三英傑から目をかけられた男である。
この3つ目は、超難関。
「鶏」という珍回答も含め、皆さま、いかがだっただろうか。
やはり、連続正解となると。なかなか難しかったに違いない。
最後に。
今回の記事の締めはあっさりと。
この筆の勢いのまま、終わりたい。
1つだけ、気になるコトがある。
もちろん、「三つの重宝」の中のラスト。「鶏」の合図についてである。
仮の話だとして。もしも……もしもよ。
1番鳥だけ鳴いて。
そのあと。病気で、2番鳥が鳴かないなんてことになったら……。
2番鳥の合図で、確か「食事」のはず。
考えただけで、恐ろしい。
「2番鳥、コロス」
ギロンと、敵国の鶏に向かって睨みつける兵たち。
いや、それこそ、殺したら。ホントに、鳴き声がしないワケで。
かといって、慌てて、2番鳥、3番鳥が連呼してしまったら……。
あわわ。
馬鹿げた想像は止まらない。
そう考えると。
三英傑との関係は、絶好調の池田輝政だが。
案外、「鶏」にはかなわなかったのかも。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月
『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』 小和田哲男著 PHP研究所 2016年4月
『生き方』 稲盛和夫著 サンマーク出版 2004年7月