我々現代人は、ほぼ毎日ホンダ・スーパーカブを見ている。
1958(昭和33)年に発売されたスーパーカブは、その基本設計を変えずに今なお生産され続けている。それだけではない。単純かつ堅牢な設計のスーパーカブは、初年度生産のものであっても適切なオーバーホールを施せば十分に走行させることが可能だ。
スーパーカブは「人類の足」と言っても過言ではない。日本のみならず、世界各国でこのミニバイクが利用されている。
現代史を語る上で欠かせない工業製品・スーパーカブ。これを考察すればするほど、ホンダの創業者本田宗一郎が何を考えていたのかを読み取ることができる。
庶民は「モーター付き自転車」を望んだ
今でこそ様々な排気量の二輪車を製造しているホンダだが、当初は小型モビリティに特化したメーカーだった。
終戦後、旧陸軍の放出した発電用モーターを手に入れた宗一郎は「これを自転車に搭載できないか?」と考えた。焼け野原になった日本の各都市で、それでも人々は復興に向けて汗水を流している。彼らが求めているのは何だ? 自動二輪車だ!
この時代、日本人にとって「自家用自動車」という代物は夢のまた夢である。第二次世界大戦前の昭和モダン時代は各家庭にラジオが普及し、服飾や外食の文化も大きく発展したが、一般庶民にマイカーをもたらすには至らなかった。そのようなものを所有しているのは政治家か財閥の長くらいである。
四輪だろうと二輪だろうと、「モーターの付いた乗り物に乗って走る」というのは強烈な体験だ。多くの日本人は、ホンダのモーター付き自転車に跨ることでその初体験を経た。
が、モーター付き自転車が普及するようになると競合他社も増える。ホンダは自然と開発競争に飲み込まれてしまう。戦後10年も経つと、もはやモーター付き自転車だけではシェアを拡大することができなくなった。
革新的なものを本気で考えなければいけない。庶民の願望を実現させた、優秀な小型モビリティを。
バイクの「左足問題」
さて、ここで読者の皆様に質問させていただきたい。
「庶民の願望を実現させたバイク」とは、具体的にどのようなものなのか?
単純な質問だが、同時にこの上なく難しいはずだ。
スーパーカブの開発目標を本田宗一郎は「手の内に入るモノをつくる」と言葉短く言った。藤澤武夫は「女性が乗りたくなるオートバイ」である。ふたりとも開発のキックオフで、他に余計なことは言っていない。
(『スーパーカブは、なぜ売れる』中部博 集英社インターナショナル)
これを前提にすれば、スーパーカブは股を広げて跨るバイクではいけない。スクーターのようなステップスルーでないと、スカートを履いた女性は乗れないではないか。
問題はまだある。当時のバイクはミッション車が主流だった。即ちギアチェンジを手動で行うというものだ。この仕組みのバイクは右手で前輪ブレーキ、右足で後輪ブレーキを操作しつつ、左手でクラッチレバーを握り左足でチェンジペダルを跳ね上げる。いわゆる「リターン式」だが、複雑な操作に慣れるまで時間が必要だ。中には挫折してしまう人もいる。
そして、リターン式ギアチェンジでは靴のつま先や側面が傷ついてしまう。「左足を見ればライダーかそうでないかが分かる」と言われているほどだ。もっとも筋金入りのライダーであれば靴の傷を他人に自慢したりするが、そうでない人はどう感じるだろうか? 「お気に入りの靴が傷ついてしまった!」と嘆くに違いない。また、雪駄やサンダルを履いた足ではチェンジペダルを操作できない。だからこそ、スーパーカブの変速機構はフルオートマチックである……と言いたいが、バイクのAT化は大幅な重量増をもたらす。機械的な信頼性も、MT車のほうが高い。スーパーカブが採用したのは半自動変速機構である。
右手で前輪ブレーキ、右足で後輪ブレーキを操作するのは他のMT車と一緒だが、左手のクラッチレバーがない。では左足はどうか? こちらはつま先とかかとの踏む動作だけで変速できるペダルがついている。つま先で跳ね上げる動作を必要としないから、靴も傷つかない。
スーパーカブの開発がすすむと本田宗一郎は、「これは蕎麦の出前持ちが乗るオートバイだ」と盛んに言いはじめたという。その理由は左手の自由度が大きいからである。当時の蕎麦の出前持ちは、おおむね自転車に右手の片手運転で乗って、左手で岡持ちを持ったり、左手と左肩で蕎麦を載せた大きなトレイをかつぐことが、安全運転義務違反ではあるけれど、訓練された運転技術としても町の風物詩としても、大目に見られていた。スーパーカブならそれができるという意味であった。
(同上)
釣り具の隣に展示されたスーパーカブ
ホンダが世界進出を果たしたきっかけは、ふたつある。
ひとつはマン島TTレースの出場。もうひとつはアメリカでの現地法人設立だ。1959年、ホンダは『アメリカン・ホンダ・モーター』を設立し、本格的な米進出を果たした。この現地法人の所在地はロサンゼルスである。
1959年と言えば、ホンダがマン島TTレース初出場を実現させた年。当時のアメリカ人は、よほどの日本通でない限りホンダなどという二輪メーカーを知る由もない。今現在の世界に冠たるホンダのイメージは、影も形も存在しない。
その中で、発売1年にも満たない50ccバイクであるスーパーカブをセールスするのだ。
アメリカは日本とは違って、都市部を一歩出れば広大な荒野が広がる国である。その荒野を貫くように道路が走っている。次の町まで数十km。そのような土地でスーパーカブが活躍できるシーンはあるのだろうか?
さらに、当時のアメリカではバイクそのもののイメージが良くなかった。ハーレー・ダビッドソンやインディアン、イギリス製トライアンフの大型バイクに跨るライダーは「ブラック・ジャケッツ」と呼ばれ、一般人からは恐れられていた。要するに暴走族の扱いだ。
凡人の発想であれば、このような国でのセールスは成功しないと判断するだろう。しかし、たったの8人しかいなかったホンダ現地法人の社員たちはそう考えなかった。
彼らが目をつけたのはアウトドア用品店である。アメリカはハンティングやフィッシングが盛んな国だ。釣り竿の隣にスーパーカブを置いてもらうことで、アウトドア愛好者からの需要を発生させようと考えたのだ。
アメリカでは、日本以上にキャンピングカーやピックアップトラックが普及している。スーパーカブをそれらの車に搭載し、キャンプ場に到着したらスーパーカブで川へ出かけて釣りをする……という使い方が既に開拓されていたのだ。今で言う「ラスト・ワンマイル」に近い発想である。
しかも、スーパーカブは安い。当時の米ドルはブレトン・ウッズ体制に支えられ、西側諸国唯一の兌換貨幣として君臨していた。アメリカ人から見れば、日本の二輪車は安価にもかかわらず耐久性能に優れたモビリティだったのだ。クリスマスプレゼントにスーパーカブをプレゼントする、という家庭すらあった。
「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA」
これはホンダが現地で打った広告の一文。「ホンダに乗ったあなたは、素晴らしい人々と出会うことができます」と訳すべきか。善き市民のための美しく実用的なバイク、それがスーパーカブなのだ。直接言及していないとはいえ、ハーレー・ダビッドソンに跨るブラック・ジャケッツを意識していたことは間違いないだろう。
今も世界各地で
スーパーカブは今も、世界各地の道路を走っている。
国によって製品名は異なるが、マシンとしての基本的機構は変わらない。街乗りからアウトドア、軽輸送に至るまであらゆることをこなすスーパーカブは、20世紀最大級の工業遺産になった。
いや、「遺産」という単語は適切ではない。スーパーカブは現役バリバリのバイクなのだ。これからも、我々を乗せて丘の向こうの世界へ連れて行ってくれるに違いない。
【参考】
『スーパーカブは、なぜ売れる』中部博 集英社インターナショナル
Super Cub-ホンダ公式サイト
Super Cub Story-ホンダ公式サイト