Culture
2021.06.10

大阪人じゃないのに「なんでやねん!」と突っ込むのはナゼ?大阪弁は今も昔も日本の共通語だ

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

平成27(2015)年、若者の間で人気を集めるファッションモデル「きゃりーぱみゅぱみゅ」に対抗し、頭角を現した「浜田ばみゅばみゅ」。

その正体は、同年6月に放送された日本テレビ系「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」から生まれた、ダウンタウンの浜田雅功扮する新キャラクター。音楽プロデューサーの中田ヤスタカが作詞・作曲を手がけたシングル「なんでやねんねん」で待望のデビューを果たした。

その歌詞には「なんでやねん」の言葉が多く登場し、プロモーションビデオでは浜田ばみゅばみゅがハリセンを持って突っかかるシーンも。

大阪を前面に出したコントなどでは、「なんでやねん」のツッコミと、相手の頭をポンと叩く仕草がセットになって、笑い効果が高められる。そのような思惑があって、あの演出が生まれたと見てよいだろう。

とはいえ、「なんでやねん」はともかく、相手の頭をポンと叩く仕草自体は、大阪以外の文化圏の人々には受け入れられづらい。事実、以前ダウンタウンの番組に出演した韓国人タレントがツッコミと同時に頭を叩かれ、戸惑いを示したというエピソードもあるわけで……。文化的に近いと思われる韓国でさえも、大阪のボケ・ツッコミ文化には抵抗があるようだ。

テレビをきっかけに人々に定着した言葉の数は枚挙に暇がない。例えば平成25(2013)年、NHKの朝の連続テレビ小説シリーズとして放送されたテレビドラマ『あまちゃん』で主人公が発したセリフとして話題となった「じぇじぇじぇ」。その言葉はその年の流行語大賞にも選ばれ、SNSでは驚きを示す言葉として多くの人々に使用されている。

「なんでやねん」も「じぇじぇじぇ」も一方言であることには変わりない。とはいえ、TwitterをはじめとするSNSでの使用頻度については「なんでやねん」が群を抜いている。

たしかに「なんでやねん」のイメージって強いなぁ

それはなぜだろうか?その真相を探ってみた。

大阪弁は江戸時代から日本の共通語だった

大阪府出身者でない者が大阪弁っぽい言葉を使うというのは、近年稀に見る傾向ではない。実は江戸時代にも、江戸の町において上方の言葉(正確には上方弁風の言葉)を話す人々が一定の層で存在していたのだ。

出典:メトロポリタン美術館

江戸には上方の言葉を信奉する層も

江戸時代は言語学的に「寛永期」「明和期」「化政期」の3つに区分される。明和期以前の江戸の町は、様々な地方の方言が入り混じった状態であった。当時、「上方語的な言い方が伝統的に正しい」と考えられていたが、京都や大坂を中心とした上方では経済が発達していたことも影響し、上方の言葉は高い威信を保っていた。

そのような状況下において、西日本型の文法をベースとした武家言葉が形成されると同時に、近松門左衛門の浄瑠璃をはじめ、上方の言葉をベースにした芸術性の高い作品が多数輩出された。

出典:肖像集(栗原信充)-国立国会図書館デジタルコレクション

ところが、明和期を境に東日本型の特徴を踏襲した江戸語が形成されると、江戸の若者に始まり、やがて中流階級や上流階級にも受け入れられ、最終的に江戸の町全体に浸透していった。その一方で、江戸の年配者の間では、上方言葉の使用が好まれた。

当時の江戸において、江戸の人たちの中でも、年配の人の多くは上方風の言葉づかいをしていたのであろう。特に、医者や学者などの職業を持つ人物は、言葉づかいに保守的であり、古めかしい話し方が目立ったと思われる。

(金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』)

上方の人間が上方の言葉を話すのは当然として、その他にも武士やその妻が上方の言葉を話していた。武士の中でも、庶民の世界に深く関わっていた者は、基本的に上方語と江戸語のバイリンガルであったとされる。

バイリンガルと表現されるほど、上方語と江戸語が違っていたこと、そして両方の言葉を話せる人が必要だったことが驚き。

江戸語が浸透した江戸でも、老年層にとって上方の言葉は規範とすべき言葉であり、安易に手放せないという思いがあったのだろう。それが如実に表れているのが歌舞伎だ。

若年・壮年層の人物が、いち早く江戸の新共通語である東国的表現を自分たちの言葉として駆使していた時点で、老年層は未だ上方語的表現を、規範的な言葉として手放さなかったというような構図が、江戸においてある程度現実に存在したのであろう。歌舞伎の表現は、それをより誇張し、図式・記号的に登場人物に割り当てているのである。

(金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』)

江戸時代後期を代表する洒落本作家、式亭三馬(しきていさんば)の代表作である『浮世風呂』に登場する人物のほとんどは江戸の庶民である。が、前編巻之上では生粋の江戸人であるにもかかわらず、江戸語ではなく、上方語を話すという現象が見受けられる。(江戸時代の洒落本や滑稽本などは、当時話されていた言葉を知るうえで、言語学上の重要な史料として位置づけられている)。

ばんとう:ご隠居さん、今日はお早うござります。
いんきよ:どうじや番頭どの。だいぶ寒くなった。(中略)此としになるが、ゆふべほど犬の吠た晩は覚
(式亭三馬『浮世風呂』前編巻之上)

※黒字は上方風の言葉を指す。

江戸には多くの上方の人間が居住しており、江戸語が浸透した江戸でも上方語は比較的馴染み深い言葉であった。人形浄瑠璃や、浄瑠璃を題材にした丸本歌舞伎などが江戸で上演される際も、基本的に上方のスタイルを踏襲し、上方の言葉で演じられた。

このように、江戸の町で新たな標準語が形成された後も、文芸や演劇の分野においては「老人=上方風の言葉を話す」という構図が受け継がれた結果、上方語は威信を保っていった。

江戸から明治へ。上方語の行方

明治時代に入り、東京語が事実上の標準語へと格上げした一方で、大阪弁は一方言に成り下がった……というわけではなかった。上方語の末裔である大阪弁は引き続き、エンタメ分野での活路が見出されたのだ。とにかく他の方言とは一線を画していたのは間違いない。

言語学者の金水敏氏によると、漫画やアニメの世界では概ね西日本の言葉が使用されており、その言葉を使用する者は決まって白髪または禿頭、時には腰が曲がった老人である。ここに、江戸時代に成立した「上方語を話す人=老人」の構図が窺い知れる。

お茶の水博士:じゃと?わしはアトムの親がわりになっとるわい
(手塚治虫『鉄腕アトム1』)

阿笠博士:いやー、この子の親が事故で入院したんで、ワシが世話を頼まれとったじゃが、ワシも一人暮しでなにかと大変なんじゃ
(青山剛昌『名探偵コナン1』)

※黒字は上方風(大阪弁風)の言葉を指す。ただし、「じゃ」「わし」などは中四国や九州地方でも使用が見られるが、概して上方から広まったものと考えられている。

阿笠博士がどうしてあの話し方なのか、謎が解けた!

江戸時代に老年層の間で使用されていたとされる上方風の言葉の一例が「わし」だ。その言葉の使用は、近松門左衛門の作品をはじめ、洒落本や人情本などにも見られた。

漫画やアニメの世界に登場する博士の話し方は決まっており、自称表現に「わし」を用いている。江戸時代、上方語は医者や学者の間でその使用が好まれたが、その点を踏まえても江戸の伝統が受け継がれているのが分かる。

さくら友蔵:でもまる子のいうとおりじゃなあ。ほんとにみんなお金もらえるから働いとるのう
(さくらももこ『ちびまる子ちゃん4』)

※黒字は上方風(大阪弁風)の言葉を指す。

大阪弁風の言葉を話すさくら友蔵の出身は静岡県清水市(現在の静岡県静岡市清水区)。つまり、生粋の東日本人である。もちろん、博士でもない。ただし、「老人」であるという点においては上記の事例と共通する。一般に、漫画やアニメに登場する老人が発するセリフにおいてこうした傾向が見られると金水氏は言う。

出典:メトロポリタン美術館

日本人が生まれてから間もない時期に出会う漫画やアニメ。そこには大阪弁風の言葉が多用されており、日本人の多くは無意識のうちに大阪弁風の言葉を身体に取り込んでいたのだ。よって、出身地に関わらず、大阪弁は日本に居住する多くの人々にとって生まれながらにして馴染みの言葉であり、いわゆる日本の共通語として位置づけることができる。

歴史とともに振り返る「なんでやねん」の歴史

とんねるずやウッチャンナンチャン、アンジャッシュなど、関西圏以外からの進出も少なくない中で、「大阪=お笑い」のイメージが定着している。では、なぜ大阪に対してそのようなイメージが想起され得るのであろうか。

大阪人同士の会話を聞くと、あたかも漫才のように聞こえることがある。しかし、内容を聞くとさして面白いことを言っているわけではない。そりゃそうだ。いくら大阪人でも、みんなが明石家さんまのように、オモロいことを言えるわけではない。面白く聞こえるのには、会話のテンポや言葉の言い回しに秘密がある。つまり、大阪人=「面白いことを言う」ことに命をかけている人、というイメージがあるが、正確には、「会話全体をいかにテンポよく、面白く盛り上げるか」に命をかけているというほうが近い。(中略)ふたりでいても、大人数でいても、自分がどのポジションにいて、どういう役割を期待されているのか(「ボケるのか」「ツッコむのか」)を瞬時に判断して行動しなければならない。

(『大阪ルール』都会生活研究プロジェクト 中経出版)

「ねん」「へん」など今日のお笑いに不可欠な言葉が大阪の商人文化の中で生まれた

大阪は江戸時代以降、商人文化の町として栄えた。そして、商人と客とのやりとりのためには、とにかく客を説得させるための話法が必要であった。今日よく耳にする大阪弁の多くは商人文化の中で生まれたものであり、その代表例が打消表現に用いられる「へん」だ。

江戸末期までは「へん」は登場しておらず、打消表現として「ぬ」が好まれた。その後、町人女性や遊女などの女性において「ん」の使用が目立つようになり、明治中期には「ん」の形が優勢に(少数派であるが、「ぬ」の使用も若干見られた)。そしてその流れから、「いかん」「ならん」「つまらん」「かしらん」などの慣用化された打消表現が生まれた。

次に目につくのは、いずれも全体に対する割合は小さいながら、「ヘン(二・二%)」と「ナイ(一・八%)」の出現が見られることである。このうち、「ヘン」については、属性的な面では、女性の方の使用が進んでおり(八・〇%-男性は一・一%)、また形態的な面では、単純終止(三・四%)や助詞類下接(二・〇%)の場合から始まっているようである。

(金沢裕之『近代大阪語変遷の研究』)

このように、明治時代の大阪では、江戸時代に優勢であった「ぬ」の音変化によって生まれた「ん」が主に使用された。使用層も当初は女性のみに限定されたが、明治中期から後期にかけてさまざまな活用のバリエーションが生まれ、幅広く使用されるようになった。

その他にも、「なんでやねん」でお馴染みの「ねん」。標準語で断定を表す「のだ」に相当する「のや」から出発し、「のや(んや)→ねや(ねんや)→ねん」という変遷過程を経て生まれた言葉である。より厳密に言うと、「ねん」は大正時代に「ねや」から移行する形で一気に使用ケースを増やし、大正末期には大阪弁として普及していった。

命題処理度が大きい発話ではノヤが優勢になり、命題処理度が小さい発話ではネンが優勢になることが読み取れる。ここでいう命題処理度とは、話し手が発話時に「聞き手に伝える」以外にどの程度命題処理を頭の中で行っているかということを表すので、命題処理度が小さいほど、発話時に「聞き手に伝える」ことに専念していると言える。つまり、ネンは聞き手に伝えるという機能に特化されているということになる。

(野間純平の論文「大阪方言におけるノダ相当表現:ノヤからネンへの変遷に着目して」)

「ねん」は「のや」からの変遷の流れの中で、発話時に聞き手に伝えるという、本来の「のや」には見られなかった対人用法を発展させていった。こうして、大阪のお笑いの要素をなす「なんでやねん」の礎が形成されたと見ることができる。

ラジオの普及や漫才ブームを経て、大阪はお笑いの頂点に

明治時代、近代国家の基礎を確立するために掲げられた施策のひとつが標準語の制定であった。明治末期以降、標準語推進の運動が展開される中で、ラジオは標準語普及の推進力を担っていた。そんな中で、ラジオから時折聞こえてくる、当時人気であった漫才師であるエンタツ・アチャコなどの漫才はどれほど人々を楽しませたことであろう。この流れの中で「大阪弁=お笑い」という図式が成立するに至った。

なるほど、ここで「大阪弁=お笑い」イメージができたのか!

明治中期には、江戸末期に活躍した滝沢馬琴(たきざわばきん)の作品に見る勧善懲悪や、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の低俗卑猥な笑いへの反動から、明治を代表する文豪である坪内逍遥(つぼうちしょうよう)により、ユーモアについて見直す動きが出ていた。そのような経緯もあり、大阪のお笑い文化が当時の大衆に受け入れられたと見てよいだろう。

そして、大阪のお笑い文化を語るうえで欠かせないのがボケ・ツッコミの漫才だ。

ダウンタウンの掛け合いで育った筆者としては、浜ちゃんのボケに対し、ツッコミを入れる松ちゃんのイメージが強い。自身の脳内には松ちゃんと浜ちゃんの掛け合いからお笑いの構図がすでに出来上がっているわけだが……。

漫才は、明治末期から昭和初頭にかけて、門付け芸としての万歳が軽口(俄の冒頭で演じられる二人の演者による掛け合い)や音頭(江州音頭・河内音頭)などの諸芸を融合して客席演芸化したものを始祖とする。

(『上方演芸大全』大阪府立上方演芸資料館編 創元社)

起源の観点から言及すると、漫才は元々万歳から来ており、当初は唄や踊りを伴っていた。ちなみに、現在の漫才スタイルが確立したのは昭和初期。門付け芸の万歳では賢役は「太夫」、愚役は「才蔵」、一方の軽口では道化役は「ピン」または「ボケ」と呼ばれていた。

講談・落語では、一座の座長に相応しい芸の持ち主に対し「シン」と呼んでいた。それゆえ、寄席演芸化した万歳・軽口でも座長(仕切り役)としての太夫に対し「シン」と呼ぶようになった。賢役の「シン」と対をなす愚役の名称としては、「ピン」「ボケ」が使用された。

やがて、万歳・軽口から漫才へと移行する中で、愚役の名称は「ボケ」へと固定化していった。(対をなす賢役の名称だが、「シン」や「ピン」と呼ばれることがあったものの、この時点では定まらなかった)。

その後の流れの中で、「漫才=愚役の愚かな言動(=ボケ)に対して、賢役が鋭く指摘する(=ツッコミ)ことで笑いを生む芸」という認識が生まれ、今日の漫才のスタイルが定着するに至った。

近年では、陣内智則やバカリズムがそうであるが、基本的にボケ・ツッコミを一人二役でこなすお笑い芸人も登場。その場合、スクリーンをボケ担当と見立てるという構図が存在するわけだが、スクリーンに映し出される内容(=ボケ)にツッコミを入れながら進めていくそのスタイルは、従来のボケ・ツッコミの漫才から派生した最新テクノロジーの産物とも言える。

ここで、日本におけるお笑いブームは概ね4期に分けられる。ミヤコ蝶々や南都雄二に代表される第一次ブーム、かしまし娘による第二次ブーム、やすし・きよし、海原千里・万里らが牽引した第三次ブーム、そしてかつてないほどの一大ムーブメントが巻き起こった1980年代の第四次ブームである。ちなみに、1980年代のお笑いブームを支えたのが、島田紳助・松本竜介、今くるよ・いくよなど、昭和・平成の芸能界を築き上げた人たちだ。

昭和55(1980)年1月に放送されたフジテレビ系「激突!漫才新幹線」では高視聴率を獲得。その後、昭和57(1982)年までの2年間で、フジテレビ系「THE MANZAI」が11回にわたり放送された。従来の寄席演芸とは異なるスタジオでのショーアップされた演芸が当時の若者により大変な反響を呼んだ結果、かつてない漫才ブームとなり、大阪は一気にお笑い文化の頂点へと登り詰めた。

背後に高さ103メートルの通天閣が聳え立つ、大阪を代表する観光スポット「新世界」。写真の中央に見える巨大なフグを模したちょうちんは、大阪ミナミ・新世界におけるシンボルと化した創業100年の老舗ふぐ料理店「づぼらや」の看板。令和2(2020)年6月、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う影響が重なり、あえなく閉店を余儀なくさせられ、撤去された。今や新世界でその姿を見ることはない。(出典:公益財団法人大阪観光局)

ちなみに、ボケ・ツッコミの掛け合いの言葉という印象の強い「なんでやねん」であるが、お笑い黎明期から用いられたわけではなかった。そのワードが用いられたのは1960年以降である。想定される正解からずれた言動に対する強い戸惑いの気持ちを表明する際に使用される「なんでやねん」であるが、今日ではツッコミと同時に発することで、笑い効果を高めるという役目を担っている。

プロフィールにもあるけど、大澤さんのお笑い好きが伺えるなぁ

インターネットの普及で「なんでやねん」は多くの日本人にとってより身近な言葉に

1990年代半ば、Windows 95解禁をもってインターネット時代の幕開けになった日本。インターネット黎明期には「みゆきネット」と呼ばれる今日のSNSの先駆け的存在が登場したほか、掲示板「2ちゃんねる」が開設。SNSの前身である前略プロフィールに始まり、mixi、GREE、モバゲーなど、様々なSNSが誕生しては廃れ……を繰り返しつつ、令和3(2021)年5月末現在、FacebookやTwitter、Instgram、TikTok、LINEが友人や家族とのやりとりを支える主要なコミュニケーションツールとなっている。

携帯メイルやブログや掲示板、SNS(Social Networking Service)などは、非対面・非同期というメディア特性をもつ「打ちことば」によるコミュニケーションである。お互いに顔を合わせることなく、タイムラグをはさんでのコミュニケーションであるため、「自己装い表現」が取り入れられやすい。

(田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代』)

もともと親密な間柄でやりとりする「打ちことば」には、話しことばに近いくだけた文体があらわれやすいことが分かっている。「共通語」と「方言」のバイリンガル状態がほぼ完成した一九八〇年代以降、「方言」は「くだけた話しことば」のスタイル(親密コード)としてすでに機能しており、一九九〇年代中頃以降に急速に普及した「打ちことば」において、「くだけた話しことば」らしさを表現するのに、「方言」は非常に効果的な素材となっていたといっていいだろう。

(同上)

また、「打ちことば」は、音声を伴わないため、正確な再現がなかなかむずかしい「方言」のアクセントやイントネーションを気にせずにヴァーチャル方言を使用することができる。つまり音声を伴う対面コミュニケーションに比べ、ヴァーチャル方言を採用するハードルが低いわけだ。

(同上)

以上、インターネットの普及が後押しし、大阪弁が日本の共通言語として広まっていったと見ることができる。

言語学者の田中ゆかり氏が平成16(2004)年、首都圏の私立大学に通う大学生を対象に実施したアンケート調査によると、出身者でない人が方言を使用するケースに関して言えば、関西方言において使用頻度が最も高く、次いで北関東・東北方言(~だべ、~だべさ、~っぺか、んだとも)、九州弁(~けん、~たい、~ですたい、~でごわす)、中国地方の方言(~やけ、~けぇ、~じゃけん)と続いている。ちなみに、首都圏在住の若者が使用する傾向にある大阪弁として、「なんでやねん」の他、以下の言葉を挙げている。

~やん、~やろ、~じゃ、~やから、なんでやねん、そうやねん、なにしとんねん

SNSではとにかくバズるネタが優先される。真面目な内容を呟いても、面白くなければ多くの人々に拡散されない。つまり、多くの人々に拡散されるには、とにかく面白いことを呟かなければ意味がない。田中ゆかり氏の研究にもあるように、多くの日本人にとって大阪弁は「面白い」というイメージと結びついている。日常会話においてつい「なんでやねん」と突っ込んでしまうのも、笑いの模範たるものがこの大阪弁にあって、お笑い文化の頂点に君臨する大阪にあやかりたいという心の現れなのではないだろうか。

つまり、少なくとも大阪を模範にしたいという思いは、江戸時代から変わらず日本人の心の中に存在し続けている。

大阪弁はもはや日本の一方言ではない。日本人の心に深く根づいた共通語なのかもしれない。

斬新な考察!私たちの言葉のイメージが江戸時代に繋がっているのも面白かった〜!

(主要参考文献)
『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』金水敏 岩波書店 2003年
『「方言コスプレ」の時代 ニセ関西弁から龍馬語まで』田中ゆかり 岩波書店 2011年
『コミュニケーションの方言学』小林隆編 ひつじ書房 2018年
『近代大阪語変遷の研究』金沢裕之 和泉書院 1998年
「大阪方言におけるノダ相当表現:ノヤからネンへの変遷に注目して」野間純平 『阪大日本語研究25』大阪大学 2013年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

この記事に合いの手する人

編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。