わが国で、自由意志による結婚が普通のことになってから、まだ100年とは経っていません。かつて上流社会では当然のように政略結婚が行われ、庶民もまた親の都合で本人の意向に関わりなく結婚相手を決めるのが普通でした。
そんな時代に典型的な政略結婚をした和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は、目立たないところで歴史を左右するほどの働きをした人です。どれほど意義深い働きであったかは、その働きによって「なにが起きなかったか」を考えればわかります。
揺らいだ幕府の土台
江戸時代を通して、日本全土の諸藩を従わせる政権は幕府です。その幕府の頂点に立つ歴代の征夷大将軍は、天皇から将軍宣下を受けることで権威を確立させました。
ところが、将軍宣下の勅使を迎える際、将軍が上座に立つなど、幕府は朝廷に不遜な態度をとっていました。
そうした状況を一変させたのは、条約勅許問題でした。幕府から日米和親条約調印の事後承諾を求められた孝明天皇が、無断での調印に不満を露わにしたからです。
ついで幕府は日米修好通商条約も朝廷に無断で調印し、事後承諾を迫りました。しかし、孝明天皇は攘夷を強く望みました。朝廷は幕府に「NO」を突きつけたのです。
かつて徳川家康は朝廷の内部に起きた紛争の処理条件などを定めた禁中並公家諸法度を制定、この法令に公家たちを従わせました。名目上、将軍は天皇の臣下ですが、事実上は朝廷内部の問題にまで幕府がクチバシを挟んでいました。そのような主客転倒した関係性が、条約勅許問題によって大きく揺らいだのです。
委任された政権
安政5年(1858)6月28日、無断での条約調印を知らされた孝明天皇は、関白の九条尚忠に宸翰(天皇自筆の手紙)を送りました。
幕府ノ勅裁ヲ経ズシテ條約ニ調印セシヲ歎カセタマヒ、宸翰ヲ関白九条尚忠等ニ賜ウテ遜位ノ宸念ヲ告ゲタマフ
(『維新史料綱要』巻2 p601~602)
※「遜位」は「帝位を譲る」こと
幕府による条約調印を「神州の瑕瑾」であると考え、「天皇であることを辞めたい」という思いが記されていました。
神州の瑕瑾=日本という国にキズをつけた。そんな重たい表現をしながら譲位を望んだ孝明天皇の本音は、
――誰が天皇になろうと、どうせ朝廷の意向など幕府は無視するつもりだろう?
ということではなかったかと思われます。ただ、孝明天皇は幕府を全否定したわけではなく、むしろ幕府主導による攘夷こそ望ましいと考えていたのです。翌29日に朝議が開かれ、公家たちの説得で孝明天皇は譲位を思いとどまりました。この事態を受けて、朝廷は徳川御三家か大老、いずれかを上洛させたうえ、無断調印について釈明するよう求めました。
水戸藩への勅書
この時期、13代将軍家定の死期が迫っており、将軍継嗣をめぐる抗争が大詰めを迎えていました。7月5日には、将軍継嗣の候補だった一橋慶喜が、6日には水戸藩主の徳川慶篤が登城を差し止められ、若年寄や側衆、奥医師らが罷免されるなど安政の大獄が始まり、幕府は大きく動揺しはじめました。実は6日に将軍家定が病死していたのですが、その死を隠しながら政争を続けていたのでした。朝廷から釈明を求められても、幕府にとっては「それどころではない」状況だったのです。
孝明天皇は自分の意図が幕府に伝わらないため、尊皇色の濃い水戸藩に対して勅書を発し、朝廷を軽視し続ける幕府に改革を要求しました。(戊午の密勅)
幕府は「朝廷から政治を委任されている」ことを名目に政権を維持してきましたから、開国政策に「NO」を突きつけられ、あまつさえ、幕府を通さずに朝廷から水戸藩に御達しが届くという事態に至って、朝廷との関係を再確認することが必要でした。
政略結婚による「公武合体」へ
大老・井伊直弼は、孝明天皇の妹に当たる和宮親子内親王と、14代将軍徳川家茂との政略結婚によって、朝廷(公)と幕府(武)を合体させようとする「公武合体」を目指しました。この政略結婚は、幕府の権威を回復させる目的は無論のこと、朝廷から人質をとることでもあり、かつまた尊皇派の攻撃をかわす盾として和宮を利用しようとする、暗黙の狙いもあったでしょう。
申し入れられた縁談は、朝廷にとって無理難題でした。皇女が将軍と婚約した先例は、まあ、無いこともない。霊元天皇の皇女、八十宮吉子内親王が、生後1ヶ月にして7代将軍の家継と婚約していますが、家継の夭折で降嫁は実現しませんでした。とはいえ、朝廷と幕府の関係が険悪になった時期に、よりにもよって天皇の親族を人質に差し出すということは、朝廷にとって煮え湯を飲まされるような状況でした。
「鎖国に戻す」約束と引き換えに
自由恋愛での結婚などなかった時代のことですから、親が決めた相手と結婚するのは普通のことでした。和宮の場合は満5歳のとき、有栖川宮家の嫡男で満16歳の熾仁親王と婚約しています。現代に当てはめると高校生と幼稚園児の婚約です。
安政5(1858)年12月24日、幕府は老中の間部詮勝を京都へ派遣、公武合体の暁には「鎖国に戻す」ことを朝廷に説明しました。いまから思えば、とうてい実現不可能な空約束ですが、孝明天皇は大いに期待をかけました。
勅書ヲ関白九条尚忠ニ賜ヒ、老中間部詮勝ノ近畿開市ニ関スル奉答前後齟齬スルヲ質サシメ、幕府ノ外国措置ニ対スル御疑惑氷解セルヲ以テ公武合体速ニ鎖国ノ旧制ニ復ス策ヲ樹ツベキヲ諭サシメタマフ(『維新史料綱要』巻3 p119~120)
強く願っていた「鎖国に戻す」ことができるなら、公武合体=政略結婚は仕方ない……。そういう風に誘導された孝明天皇は、早く言えば幕府に騙されたのでした。
同月、家茂の将軍宣下のために勅使が江戸へ派遣された際、それまでの慣例を破って、勅使が上座に立ちました。幕府は朝廷に敬意を示したのでした。
安政7年3月3日に大老の井伊直弼が横死する桜田門外の変が起きましたが、公武合体策は継承されました。3月18日に改元して万延元年(1860)4月、いよいよ幕府は表だって和宮降嫁を奏請しますが、孝明天皇は難色を示しました。
政略結婚が普通のことだったとしても、自分の娘を嫁がせるのと、妹を嫁がせるのでは心理的負担が異なります。子は親の所有物のごとく扱えたとしても、孝明天皇にとって和宮は父である仁孝天皇からの預かり物で、事実上の人質に出すことには心理的抵抗があったのです。
幕府は5月にも重ねて降嫁を奏請したので、孝明天皇は侍従の岩倉具視に意見を徴しました。けして身分は高くないけれど、孝明天皇が厚く信頼していた具視は、「幕府が条約の破棄を確約するならば」という条件つきで降嫁に賛成し、孝明天皇は勅許を決めました。
公家社会から武家社会へ
三万人の行列に護られながら中仙道を進んだ和宮は、文久元(1861)年11月、江戸城内清水屋敷に入りました。清水徳川家は当主が不在で、空き屋敷になっていたのです。ついで12月には大奥に移ります。婚儀が行われたのは翌年2月でした。
公家社会から武家社会へ、上方から関東へ、京都から江戸へ、生活習慣も違えば環境も大きく異なるうえ、嫉妬や羨望が渦巻く大奥という狭い世間に入った和宮の心労は、どれほど大きかったことでしょう。それでも和宮と家茂とは円満な夫婦仲でした。
戦争に引き裂かれた二人
幕府は、朝廷に攘夷を約束したものの、実現は不可能でした。朝廷からは攘夷実行の督促を受け、攘夷派の志士たちから突き上げられながら、逃げ口上でお茶を濁してきましたが、長州藩が外国船を砲撃するに及んで、もはや逃げ道を塞がれました。欧米列強との摩擦を防ぐために長州藩を討伐するか、天皇が望んだとおり攘夷を断行するか、いずれも選択せずに放置することは出来ません。幕府は長州藩を討伐し、一度は降伏させましたが、長州藩は薩摩藩と秘密提携を結んで再起しました。
長州藩との二度目の戦争に臨んだ家茂は、慶応2年7月、大坂で病死しました。満20歳の若さでした。文久2年の婚儀から、わずか4年あまりのことでした。
幕府と長州藩との戦いは、各地で幕府側が押し返されたのちに休戦となり、事実上、幕府側の敗北でした。
未亡人となった和宮は、攘夷の実現を条件に徳川家へ嫁いできたことに拘り、幕府の開国政策を容認しはじめた朝廷に不満をあらわしつつ江戸に留まっていました。家茂が死去した翌年、攘夷を強く望んだ孝明天皇が崩御したことで、和宮は人質として江戸に留まる意味を失いました。開国貿易を容認した朝廷は、もはや攘夷を夢見ることがなかったからです。しかし、政情不安が続くなか、和宮は京都への帰還を果たせないまま戊辰戦争が勃発しました。和平を望んだ和宮は、裏面外交を展開して江戸開城を強力に後押しすることになりますが、それはまた別の機会に記事にします。
和宮降嫁で、なにが起きなかったか
もし和宮降嫁が実現しなかったら、幕府が攘夷決行の空手形を出すことはなかったでしょう。また、攘夷派の志士たちを憤慨させた、あからさまな政略結婚でしたから、それがなければ志士たちのテロ活動も、いくらかは低調になったのではないでしょうか。
和宮は江戸から京都への書簡などで、自身も攘夷を望んでいたことがわかっています。彼女も政治に関心を持っていたことが如実に示されているわけですが、目立たないながらも政局に関与していた事実が消えてしまうのは、無責任な言いようですが、ツマラナイと思います。
「大奥」についての基礎知識はこちら
和宮が江戸城で暮らした「大奥」ってどんなところ? 3分でわかる記事は以下よりどうぞ!