日本各地には樹齢数百年、あるいは千年以上と思われる巨樹がある。枝葉を濃く茂らせ、太く、大きく天に向かって伸びる姿はまさに、“森の巨人”! 並々ならぬ生命力は“神”の存在を思わせる。岐阜県奥飛騨温泉郷平湯の山中にある「平湯大(ひらゆおお)ネズコ」もそんな巨樹の一つだ。
ネズコは本州と四国にのみ自生するヒノキ科の常緑高木樹でクロベともいう。江戸時代に尾張藩から伐採を禁じられた木曽五木(ヒノキ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコ[クロベ]・サワラ)の一つに数えられる。
「平湯大ネズコ」は幹の周囲約7.6m、高さ23m、樹齢約千年と言われており、林野庁の「森の巨人たち百選」にも選ばれている。高さ23mといえば、7、8階建てのビルぐらいだろうか。その昔、飛騨を訪れた篠原無然(しのはら むぜん)という人物によって自然の大切さを教えられた地元の人々が大切に守ってきたという。大正時代に早くもそんなことを提唱した人がいたのか! ぜひとも無然をもっと知りたくなってその足跡を追ってみた。
潮騒をゆりかごに育った無然
故郷は“動く総合商社”北前船の風待ち港・諸寄
篠原無然の本名は篠原禄次(ろくじ)、故郷は兵庫県美方(みかた)郡西浜村諸寄(もろよせ)である。日本海に面した静かな港町で、現在、西浜村は新温泉町の一部となっている。かつては北前船(きたまえぶね)の風待ち港として栄えていた。北前船とは江戸中期から明治にかけて、主に日本海をルートとして大阪と北海道の間を航海し、商品を売り買いしていた商船で、“動く総合商社”とも呼ばれている。
感染症は昔も怖かった! 相次ぐ母と妹の死 自らも生死の境をさまよう
明治22(1889)年、無然は篠原六一とつるの長男として生まれた。篠原家はもともと廻船(かいせん)問屋で裕福な家柄だったが、父の六一は社会事業に熱心なあまり、損得抜きで村の発展のために奔走し、時には借金の肩代わりをするほどだったので、無然が生まれた頃にはかなり家運が傾いていた。母のつるはきれいで優しい働き者だったようだ。
同27(1894)年、幼い無然を不幸が襲った。全国的に猛威をふるっていた赤痢(せきり)が母のつると妹・かんの命を奪ったのである。妊娠中だったつるは赤痢にかかった隣人を見舞い、自分も同じ病気に倒れ、娘にも感染した。この年、赤痢の感染者数は全国で15万人を超えたという。まさに今私たちが直面している新型コロナウイルス感染症の流行を思わせる。
翌年には彼自身も瀕死の大病に見舞われるが、なんとか回復した。六一はどんなに喜んだことだろう。妻と娘を失い、このうえ息子まで亡くさなければならないのかと悲嘆にくれていたに違いない。
新しい母は16歳
この年、六一は再婚する。新しい母は無然より9歳年上で、親族の一人・きぬ。彼女は無然が赤ちゃんの時から篠原家に子守に来ており、無然とは姉弟のような関係だった。彼はどんなに驚いたことだろう。ついこの間まで「おねえちゃん」だったきぬが継母になってしまったのだから。やがて彼女は無然の弟・太郎の母となった。この変化を多感な無然はどのように受け止め、受け入れていったのだろうか。
諸寄から神戸へ 貧困の中、死の淵からよみがえった青春時代
見習い社員を辞め、県立神戸商業学校に入学
明治36(1903)年、高等小学校を卒業した無然は、神戸の「野口貿易商会」へ見習い社員として入社するが、向学心旺盛な彼は同商会を辞め、全国でも屈指の難関校であった「県立神戸商業学校」に合格する。しかし、篠原家の経済状態はひっ迫。幼い義弟たちもいたことから、父に学費を出してもらうことは望めなかった。
学費を払うために牛乳配達 過労がたたって心臓を患い、中退
無然は学費を稼ぐためにわずかな資金で日用品や化粧品などの行商を始めたものの、下宿代も払えない日々が続いた。そこで新たに牛乳配達を始める。朝も早く、重い牛乳瓶を運ぶのはとてもハードだ。ガタイのいい無然も過労と寝不足が続き、とうとう心臓を患い、ドクターストップがかかってしまう。こうなってはもう、どうしようもない。彼はせっかく入学した県立神戸商業学校を退学し、故郷に帰って闘病生活に入ることになった。
医師に頼らず、精神修養しながら闘病生活 教育者として村の立て直しに尽力
父の六一は事業に失敗して大阪に出稼ぎに行き、祖母のかよも亡くなった。医師を信頼していなかった無然は歩くと痛む心臓を抱えながら、それでも医療に頼らず、故郷の野山を歩き回ったり、雨の日には禅の書などを熟読しながら思索にふけっていたようだ。そんな生活がかえって良かったのか、病気は奇跡的に快方に向かった。完治してはいなかったが、知人に請われて彼は諸寄の南方にある香美郡小代村(かみぐんおじろむら 現・美方郡小代区)の小代小学校に勤務するようになる。
当時、村は前近代的な因習に支配され、風紀もよくなかった。しかし、無然は志を同じくする仲間の教師たちとともに、辛抱強く困難に立ち向かい、夜学を開いて近隣の集落で講演を行うなど、地域に根差した教育活動に尽力した。無然が小代村に勤めていた2年の間に、村はみちがえるようになった。この頃、無然は『地方青年団の組織と事業』という本を出版している。
なぜ、無然は飛騨へ行ったのか
後藤新平・森村市左衛門らに愛された無然は“シンデレラボーイ”だった?!
この時、すでに彼の中には社会教育者としての片鱗(へんりん)が芽生えていたようだ。
明治44(1911)年、体力に自信を取り戻しつつあった無然は上京し、後藤新平や森村市左衛門らの尽力により早稲田大学文学部哲学科に入学し、勉強に励むこととなった。
後藤新平は台湾民政局長や初代満鉄(南満州鉄道株式会社)総裁などの要職を歴任し、関東大震災後は東京の復興計画を主導している。神戸時代、無然は彼に面会する機会があり、面会した理由を次のように述べたという。
男爵(後藤新平のこと)に対して何等(なんら)の用事はありません、たゝ人格謄力の鍛錬上、一度如何(いか)にかして男爵の風貌に接したしと企てて幾回か失敗し、遂(つい)に今日思いを遂げたればこれにてお暇(いとま)いたします」 『飛騨と無然』より
風変わりな青年に興味をそそられた後藤は、さっそく人物調査を依頼。すると、彼が貧困にあえぎながら心臓を病み、病床にあることを知った。そこで夫人を遣わして彼を見舞い、療養費350円(当時の1円が現在の2万円ぐらいとすると、約7百万円か)を渡そうとしたが、無然は受け取ろうとしない。周囲に諭され、ようやく「自分が身を立てるまで謹んで借用いたします」と答えて受け取ったというエピソードが残っている。
森村市左衛門(ここでは6代目)は渋沢栄一と並び称される財界の大物であり、現在の「(株)ノリタケカンパニーリミテド」の生みの親である。巨万の富を持つ森村がいつ、どのように無然と知り合ったかは不明だが、山に入るという彼に弟・太郎の学資金を出すことを約束してくれたという。
財政界の大物に愛された無然はシンデレラボーイだったといえるのかも…
人々は無然を待っていた!
やがて無然は「日本力行会(にほんりきこうかい)」の幹事となり、青年たちの指導にあたることとなった。同会は1897(明治30)年にキリスト教の牧師であった島貫兵太夫(しまぬきひょうだゆう)が設立した、海外移住などを希望する貧しい若者たちを支援するボランティア団体である。
また夏休みを利用して、明治45(1912)年7月末から73日間にわたり、東京朝日新聞社の嘱託として、群馬・福島・新潟・長野県下90余町村の講演旅行を行っている。わずかな謝礼をもらい、次の村に行って講演するというハードスケジュールで、決して潤沢な予算があっての旅行ではなかったが、行く先々で無然は大歓迎を受けた。昼間は地方の様子を視察し、夜は青年団体の使命や農村の子女問題など、その土地に応じた話題を講演し、青年たちと濃密な時を過ごした。このほか、素行の良くない青少年を預かって更生のためのサポートなども行っていたようだ。
“もはや人界に師なし” 入山の決意を固め、奥飛騨へ
大正2(1913)年春、無然は「修養団」の幹事となり、編集部主任として機関雑誌『向上』を担当した。
「修養団」は明治39(1906)年に東京師範学校(現・東京学芸大学)の学生だった蓮沼門三(はすぬまもんぞう)が創設した教化団体で、蓮沼が学生時代に始めた美化運動が起源となっている。無然は同年7月の夏休みに尾瀬沼のほとりに庵を結び、20日間の思索生活を送った。
相変わらずお金には無縁だったが、社会教育者としてのキャリアは順調だった。しかし、彼が求めたのは実績や評価ではなく、自分の信じるところにしたがって誠実に生きる事だった。
ところが社会情勢や人の道徳意識は時代とともに変化する。また名士と呼ばれる人々の内幕を知るに及び、無然は“失望”し、もはや“人界に師なし”と考えるようになった。そして、
唯(ただ)大自然の中にのみ育てられて真全の教養を受けたいと望む念が熾烈(しれつ)に燃え出した 『飛騨と無然』より
大正3(1914)年4月、とうとう無然は大自然の中に身を置く決心をする。いったん山に入った以上、20年は戻るまい。そう決意して諸寄に戻った。案の定、親族の大反対にあったが、父の六一は無然に共感し、弟たちも無然の思いに理解を示してくれた。
入山場所にはかなり迷ったようだが、最終的に本土の山中で精神修養にふさわしい場所として選んだのが飛騨である。気候風土の厳しさも、無然の望むところだった。そして8月、上宝第一小学校の代用教員として赴任。実際に勤務を始めたのは11月の初旬。冬の早い奥飛騨は雪の舞う季節だった。
北アルプスの観光拠点として、平湯発展の基礎を築く
歌や講演を通して、山村の気風をブラッシュアップ
約1年半を上宝第一小学校で過ごした無然は、自ら望んで上宝村最奥の平湯分教場に転任する。大正5(1916)年4月、奥飛騨に遅い春の兆(きざ)しが見え始める頃だった。
小学校という教育の場で、無然は子どもたちの心を育てることに情熱を燃やした。子どもたちが礼儀正しくなり、明るく育つ様子を見て、地域の人々はたいそう驚き、喜んだ。青年たちを前に補習学校(小学校に併設されていた勤労青少年を対象とする定時制の学校)の教壇に立つこともあったが、博識で話題豊富な彼の話は魅力的で、青年たちを飽きさせなかった。青年団や処女会(女子青年団)、婦人会ではだれもが競って無然について勉強するようになった。時には老人夫婦までもが机を並べて勉強する光景も見られたという。特に講演会では社会問題や時事問題なども扱い、平湯の人々の目を社会に向けて大きく開かせることとなった。
無然はなかなかの美男子だったようだ。ひげは濃かったが、整った彫りの深い顔立ちと広い額。そして何より色が透き通るように白かった。若い娘たちの中には恋心を抱く者もいたかもしれない。また彼は美声で、歌がうまかった。オリジナル曲を作って人々と一緒に歌うなど、音楽を通して暗くなりがちな山村の気風をブラッシュアップしていったのである。
怖い伝説もなんのその 池に飛び込み、迷信を打破
無然は地域経済の向上・発展にも熱心だった。将来、平湯周辺は観光地として広く知られる所になり、多くの人が訪れるだろうと考え、名所旧跡を設定してそれに名前を付けた。また登山道を改修して各地に案内板や注意書きを建て、平湯の観光発展にも尽力した。平湯大ネズコのような天然資源の保存に務めたのもこの頃だろう。乗鞍の姫ケ原、土俵ケ原、桔梗ケ原、大丹生岳(おおにゅうだけ)、富士見岳などの地名は無然がつけたという。
また、乗鞍を訪れる人々のために注意書きを添えた標柱を建てている。当時この地を訪れた作家・滝井孝作はたまたまその標柱を見つけて次のように書いている。
私は、きのう平湯峠の頂上で、海抜五千五百五十七尺(1684M)と記した太い標柱が積雪の中に立っているのを見た、其の側面に「注意」として、
「牧場ノ牛、馬ハ人ナツカシクヨッテクルノデ、ワルサハシマセンカラ、木片デシッシットシカレバニゲマス」又「下リ坂ハマエカガミセズ、ソシテハラヘ力ヲ入レテ下レバラクデス、イソイデ、ケガヲシテ下サラヌヨウ。平湯青年」
この素朴な詞を私は面白いと思って手帳に控えて来た、この平湯青年の考えを善しとした。『飛騨と無然』より引用
なんて粋な文言だろう! 今ならSNSで拡散されて全国に広まるに違いない。ちなみに滝井を案内した平湯青年というのは、無然の教え子で、死後はその遺品の保存に尽力した村山鶴吉さんである。
また、乗鞍周辺には人々が恐れる伝説の池がいくつかあった。しかし、無然はそれらの池のほとんどに飛び込み、何もいないことを自ら証明してみせたという。迷信を恐れる必要はないと言いたかったのだろう。
身体を鍛え、独自の健康法を身に着けて、零下数十度の寒さも克服
日本海の海辺に育った無然にとって、標高千メートル以上の奥飛騨の寒さは相当こたえたに違いない。冬になると2m以上もの雪に閉ざされ、外との行き来もままならない。卵やインクも凍るほどだったという。しかし、彼は驚くべき強靭な精神力と自ら考案した正しい呼吸法、正しい姿勢法、正しい動作法を身に着け、寒さに耐えられる体をつくっていった。
十年前には十二品も衣類を着けて里人から笑われた寒がり者でしたが、二、三年前からは夏冬とおして単衣物(ひとえもの)で、シャツ、ズボン下も要りません、風を引いたことも無いと云ってよろしいでした(※編集部注:原文ママ) 『飛騨と無然』より
また、年数を重ねるにつれ、3千メートル級の山を上り下りしてもほとんど疲れを感じなくなっていたという。名誉や栄達の道を離れ、自然の中に身を置くことで、無然は健康な心と体を取り戻していった。
自然の中で断食修行 無事確認の合図はラッパとカンテラ
彼は平湯の輝山(てらしやま)をはじめとして上宝村の中に、断食修行のための山荘を3カ所ほど持っていた。どれも山荘というよりは山小屋で、入り口にはむしろを垂らし、いろりが切ってあったようだ。無然にとってはたいそう居心地が良かったが、山中には熊などの危険な野生動物もいる。平湯の人々は独りで何日間も山にこもる無然を心配した。
夕暮刻になると、青年の二、三人が輝山の山頂へ向けてラッパを吹く。すると山頂からカンテラ(手提げ用のランプ)か松明(たいまつ)の火がぽっかり見えて、まるくゆるくふられる。
「先生も、きょうも一日ごぶじでござった」
人々は安堵(あんど)の息をつくのがきまりであった。 『雪の碑』江夏美好著
5、6日に一度は登山に慣れた青年会の誰かが片道4時間ほどかけて、食糧と無然あての手紙や本を届けに山荘に上がった。時には火山の噴火など自然の脅威にさらされることもあったが、無然は薪割りをしたり、山菜を摘んだり、小鳥たちの訪問を受けながら暮らした。そして自分自身と対峙していったのである。
教師を辞め、精神修養と製糸工場で働く女性の待遇改善に取り組む
平湯は無然にとって第二の故郷
大正8(1919)年3月、無然は研究・修養に専念するため、学校を辞めた。平湯区民は無然のために2階建ての青年会館を建て、1階は区民用、2階を無然の居室と定めた。平湯はもはや、彼にとって第二の故郷に等しい存在になっていた。
無然、社会運動に情熱を燃やす
無然はこの建物に「靈泉熱荘」という額を掲げ、「やわらぎのその」と名付けて自分の活動の拠点とした。当時、彼は飛騨各地から長野県の岡谷、諏訪方面にある製糸工場に働きに出ていた少女たちの待遇改善と、生活環境の向上に情熱を燃やしていた。彼女たちの暮らしがどれほど悲惨なものであったかは、昭和43(1968)年に朝日新聞社から発刊された山本茂美の著書『あゝ野麦峠』に詳しい。同54(1979)年に山本薩夫(やまもと さつお)監督の下、大竹しのぶ主演で映画化されている。それよりも半世紀近く以前に、無然はこれをを社会問題としてとらえ、少女たちを“紅女(こうじょ)”と呼び、『可憐なる紅女のために』という題で新聞に連載を続けていた。また、紅女の出身地である各町村で紅女組合をつくらせ、一人でも飛騨の少女が働いている工場には慰問(いもん)に行き、講話を行い、『私は紅女』、『工女組合の歌』、『工女いとしや』などの歌をつくって合唱させた。
「関東大震災」で上京 被災者を見舞う
無然の社会運動を快く思わない人や、その業績を妬む人々もいたが、無然は自分を曲げることはしなかった。
大正12(1923)年9月1日、東京をはじめとする関東地方は大地震に見舞われた。「関東大震災」である。同震災では約190万人が被災し、10万5千人あまりが死亡または行方不明になったと推定されている。地震発生が昼食時間と重なったため、東京では特に火災被害が多かった。彼は東京にいる知人や友人の安否を心配し、いったん岐阜に寄ってから上京した。焦土で苦しむ人々をこのままにしておくことはできず、知人たちの無事を確認すると、焼け跡の人々にいたわりの言葉をかけ、激励して歩いたという。
大阪府の嘱託として「大阪府立難波病院」に勤務 娼妓たちに奉仕
3か月後の12月、無然は大阪府の懇願により、大阪府立難波(なには)病院の嘱託として勤務することになった。
この病院は公娼時代における、衛生保持のための公けの施設で、娼妓(しょうぎ)達は強制的に定期の検診を受け、罹病者(りびょうしゃ)は速刻(そっこく)加療しなければなりませんでした。 『飛騨と無然』
患者は遊郭(ゆうかく)の女性たちばかり。無然は暇なときには執筆に没頭し、昼間はできるだけ入院している女性たちと生活を共にして、彼女たちの話に耳を傾け、しつけや生活指導、心を育てる指導を行った。入院患者の間では“優しい先生”として通っていたようだ。
自ら好んで苦界に身を沈める女性はいない。無知と苛酷な労働は彼女たちを蝕(むしば)み、心は荒(すさ)んでいった。彼女たちもまた、社会の犠牲者だった。
この時期、無然は『人の生き甲斐(がい)』と名付けた文章を2冊に分けて8千部ほど印刷し、患者たちに配布して読ませたという。また研究記録はそれぞれ『虐(しいた)げられし娼婦から男性に』、『泥中に咲く十種の花』として雑誌に発表された。
無然の死 吹雪舞う安房峠
単身平湯に向かって雪中行軍 無然、平湯を目前にして力尽きる
大正13(1924)年11月、無然は「修養団」の蓮沼に勧められ、震災の記憶も生々しい東京で社会事業のために働くことを決意する。そして後始末をするため、平湯に向かった。平湯の人々も約1年ぶりに戻って来る無然に会えることを楽しみに、村中総出で歓迎の準備をして待っていた。
11月12日、無然は安房峠の手前(長野県側)の白骨(しらほね)温泉に到着し、迎えに来た平湯の青年たちと合流した。ところが先に送った原稿がまだ到着していなかったため、青年たちを帰し、原稿の到着を待つことにした。平湯の人々は峠の頂上付近まで出向いて無然を待っていたが、青年たちから事情を聞き、がっかりして引き返したという。
降り続く雪に安房峠越えはあきらめ、富山廻りで平湯に帰ろうとしていた無然だが、雪が小止みになったので平湯に向かった。ところが山の天候は変わりやすく、朝とは打って変わって猛吹雪に見舞われる。途中で出会った中の湯温泉の主人から「いったん中の湯まで行き、晴れ間を見てあらためて人を連れて平湯に向かわれるように」と忠告され、荷物を運んでくれた人々を帰した。
ところが無然は一刻も早く、平湯に戻りたかったのだろう。荷物を持ち、単身平湯に向かったのである。
吹雪はますます激しくなり、無然の視界をさえぎった。激しい疲労に襲われた彼を睡魔が襲った。
11月15日、無然の遺体は平湯まであと2kmという安房峠の中腹で、山仕事に出かけた村人によって発見された。
両手をポケットに差し入れたまま、静かに苦しみの影もなく、生前の滋顔(じがん)そのままの姿で腰をかけ半ば雪に埋もれていられました。 『飛騨と無然』
無然は最期に何を見たのだろうか。自分を信じて待っていてくれた平湯の人々の顔だろうか。それとも懐かしい諸寄の両親や弟たちだろうか。あるいは体を張って守ろうとした紅女たちの面影だろうか。
平湯始まって以来という盛大な区民葬が行われ、遺体は荼毘(だび)に付された。無然が奥飛騨に入山して10年め。まだ36歳の若さだった。
無然が飛騨に残したものとは
最期まで無然の顕彰に努めた村山鶴吉翁
現在「やわらぎのその」があった場所には「平湯民俗館」があり、かつての暮らしをほうふつとさせる古民家や平湯神社、薬師堂、棚田跡などが保存されている。その一角に鉄筋耐火構造の「篠原無然記念館」があり、お墓と共に遺品が大切に保管されている。
遺品は村山鶴吉さんたちによって守られてきた。村山さんは地元の人々には“鶴さ”と呼ばれていた。無然が平湯に来た時。すでに成人して子どももいたが、夫婦で夜学に来るとても熱心な青年だった。実家は旅館で夏は山に登って登山客を案内するのが仕事だったが、無然に出会っていろいろと考えるところがあったのだろう。長男だが分家して、後に土産物店を開業した。現在平湯の街中にある「つるや商店」がそれである。「つるや」となづけたのも無然だった。
村山さんは無然の死後、「平湯篠原会」を立ち上げ、代表者となった。会と言っても特に会員を募ったわけでもない。そして私財を投げ打って無然が遭難した安房峠に「篠原無然肖像記念石碑」を建立し、その生涯と遺稿をまとめた『飛騨と無然』を発刊するなど、生涯、無然の顕彰に努めた。
昭和60年、『哲学者 無然先生奥義書』の原稿を預けた日の夕方、ふろ上がりに倒れ、闘病の末に亡くなった。95歳だったという。
音楽を通して青年たちに飛騨の魅力を伝え、心を奮い立たせた無然
現在無然の遺品は、「平湯民俗館」の敷地内にある「篠原無然記念館」で大切に保存・管理されている。
鶴吉さんは無然同様、とてもストイックで身の回りの物にお金をかけなかった。そして、人から非難されることがあっても決して言い返すことはしなかったという。自分が行動を起こすことでまた誰かが傷つくかもしれない。それはあってはならないことだった。非難されるのは自分が未熟な証拠。さらに修行に励んで徳を積むことで、だれからも非難されない人間になればいい。無然もきっとそう思っていたに違いない。
記念館を見学して帰り際に、「平湯民俗館」を管理しておられる中本哲仁さんが無然の作った歌を歌ってくださった。
あゝ偉なるかな飛騨の山 あゝ美なるかな飛騨の渓 あゝ清きかな飛騨の水 『飛騨青年の叫び』
地元では『飛騨賛歌』といい、中本さんたちは中学の時に3番まで習ったという。じっくり聞くと、心に沁みとおる歌だ。今も所によっては歌い継がれているらしい。
彼の音楽は人を奮い立たせ、その言動は人に希望を与えた。そして、大正という短い時を全力で駆け抜けていった。「平湯民俗館」には「禄次」という名の居酒屋がある。無然にちなんで名づけられた名前だ。無然は酒をたしなまなかったが、地元の人々は時々「禄次」に集い、家族で団らんのひとときを過ごし、あるいは地域について、社会について思いを語ることもあるという。そんな時、こっそりと店のどこかに座ってニコニコしながら彼らを見守っている無然がいるのかもしれない。
【取材・撮影協力・写真提供】
「平湯篠原会」
「平湯町内会」中本哲仁さん
平湯民俗館
篠原無然記念館 岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯22 「平湯民俗館」敷地内 TEL:0578-89-3030(平湯温泉観光協会)
浜坂先人記念館 兵庫県美方郡新温泉町浜坂1208 TEL:0796-82-4490
【参考】
北前船遺産推進協議会
森の巨人たち百選 林野庁
『飛騨と無然』今田勝躬(いまだ かつみ)著 「平湯篠原会」発行
『雪の碑』江夏美好(えなつ みよし)著 「河出書房新社」発行
新温泉町ゆかりの先人