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Culture
2021.06.12

ステーキ三昧に、148人もの美女・イケメンの接待も!平安時代の豪華な「おもてなし」の相手、渤海使って?

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東京オリンピックが近づいている。2013年のIOC総会で、滝川クリステルさんが発表をされた「おもてなし」という言葉をふと思い出した。選手と観客含めた世界中の人々が東京を訪れた際に、人の多様性をどう受け入れ「おもてなし」をするのかという点が注目されていた。

おもてなし。それは、訪れる人を心から慈しみ、お迎えするという深い意味があります。先祖代々受け継がれてまいりました。以来、現代の日本の先端文化にもしっかりと根付いているのです。そのおもてなしの心があるからこそ、日本人がこれ程までに互いを思いやり、客人に心配りをするのです。(2013年IOC総会プレゼンテーションより引用)

おもてなしとは「心を込めてお客さんに対応すること」とも言われている。2021年6月現在、新型コロナウイルスの影響により、感染拡大を阻止するとともに「おもてなし」も行わねばならないという難題にも直面している。

オリンピックの時だけでなく、日本に来てよかった! と思ってもらえるようにしたいです!

それでは、過去の日本人がどのように「おもてなし」をしてきたのか。国風文化などの日本独特の文化が生まれた平安時代の人々は、海外から来た使節にどう対応したのかということに注目してみたい。その中でも、私が注目したいのは渤海(ぼっかい)国から来日してきた渤海使に対する接し方である。

知られざる渤海国との関わり

歴史を遡れば、平安時代に日本が最も頻繁に交易を行った国は渤海国(698年 – 926年)だった。渤海使の来日回数は30回以上に及ぶとも言われ、見方によっては唐よりも日本と友好的な国だったと言えるだろう。当時は命懸けの航海であり、12年に1度という制限も設けられたのでこの数字にはびっくりだ。しかし、渤海について日本の教科書には数行しか登場せず、その実態はあまり知られていない。それはなぜだろうか。

私も渤海、よく知らなかったです……。

まずは中国や朝鮮などの伝統的な国家に属さない曖昧な立ち位置であり、独立国家が成立しにくい場所に建国された。渤海国のあった土地にはその後1000年以上にわたって国家らしい国家が建設されておらず、唯一1900年代に日本が侵略して満州国を作ったくらいである。さらに渤海国は大きな歴史的事件が起こらず、開国から消滅までの約200年の歴史の中で比較的平和的な国家が保たれてきた。これらの背景ゆえに、実態が周知されてこなかったとも言われている。

筆者作成、渤海国の大まかな位置
渤海ってここにあったんですね! かなりのご近所さんだ。

渤海国と日本の交易

それでは、渤海使が来日することで、何がもたらされたのだろうか。最初の渤海使が持参したのは貂(てん)という動物の毛皮300張であり、その後も持参品の大半は毛皮だったと言われている。とりわけ貂、虎、羆(ひぐま)などは非常に価値が高かったようだ。現在でも貂の毛皮は1匹分が約8万円で取引されることもある。当時の日本貴族にとっても、高級品を買い求める感覚だっただろう。一方で、日本は繊維製品を渤海国に差し出したようだ。渤海国は麻や絹などの繊維が乏しかった一方で、狩猟民族である渤海にとって冬の寒さをしのぐために繊維製品は欠かせなかった。お互いが必要とするものを交換しあい、この交易が成り立っていたのだ。

需要と供給ベストマッチ!な相手だったのですね。

豪華で盛大なおもてなしは出費が大変

渤海は日本にとって重要な交易国であったため、渤海使が来日した際には豪華なおもてなしをした。ひとたび渤海使が来日すると、100人以上の使節団を数ヵ月にわたり宿泊や食事でもてなすこともあったようだ。また、渡航で傷んだ船の修理または新造をした上で、船員をつけて国に送り返したという。大事なお客さんを車で駅まで送っていく現代のおもてなし感覚だったかは定かでないものの、少なくとも渤海使と日本人が同じ船に乗船するという密接な関係がそこに存在した。朝廷や地方国が見返りなく支出をしたとも言われており、おもてなしが豪華すぎて出費が多くなってしまったので、12年に1度受け入れるというルールを作ったほどだった。

すごい! こんな豪華なおもてなしをする大事な相手だったのですね!

美女などの演舞によるおもてなし

渤海使が入京すると、日本貴族はまず舞を披露したという。『日本三代実録』元慶7(883)年5月3日の記録によれば、大安寺で練習をした雅楽寮(うたまいのつかさ)や林邑楽人(りんゆうがくじん)の演舞を実施。クライマックスでは鐘と太鼓を叩くと、芸能の教習所、すなわち内教坊(ないきょうぼう)で練習を重ねてきた選りすぐりの美女が148人が飛び出してきたそうだ。文面上ではあまり詳しい記録が残っていないようだが、おそらく酔いに任せたご乱行などもあっただろうとも言われている。また、天平宝字7(763)年の第6回の渤海使の時の記録を見ると、雅楽寮が演奏した音楽は唐や林邑の音楽、そして日本の東国や隼人などの民俗的な音楽を流していたようだ。フォーマルでない音楽も流していたというのは興味深い。

平安時代に盛んだった雅楽にまつわる記事も和樂web内にありますので、ぜひ!

美男子による接待はおもてなしでは無い!?

一方で、迎接や案内などの接待役は特に身長が高くて容姿端麗な美男子が選ばれた。女性の場合とは違って、ここには「おもてなし」の意識や渤海使を満足させる意図はなかったようだ。『日本文徳天皇実録』によれば、第9回渤海使の接待役が選ばれた経緯について、「身長は6尺2寸、眉目画のごとく秀麗で、動作や立ち居振る舞いが優雅だったので、年が若いにも関わらず、家柄と容姿によって接待役に選ばれた」という内容が書かれている。身長が6尺2寸といえば約187.88cmで、しかもハンサムというのは、なかなかにインパクトがある。平安時代は現代に比べて平均身長が約10cm前後低かったとも言われているので、さらに衝撃的だっただろう。

現代でも約188センチメートルの高身長はモデルさんみたいですね!

最後の渤海使・裴璆に対するおもてなし

ところで、34回にわたって渤海使が日本を訪れた中で、33~34回目と渤海滅亡後という合計3回も来日した人物がいる。それが「最後の渤海使」と言われる裴璆(はいきゅう)という人物だ。日本になぜ渤海使として、あるいは渤海使とは別の立場でもリピートすることになったのか。その経緯を掘り下げることで、日本の当時の「おもてなし」の一部を垣間見ることができるかもしれない。

海を渡るのが非常に困難だった時代に3回も! 気になる……。

初めての来日は延喜8(907)年正月で、伯耆国(現在の鳥取県の一部)に上陸した。渤海使20名のうちの1名として入国し、京都に向かった。左右馬寮(さゆうめりょう)が用意した馬に乗り、5月10日には京都の鴻臚館に無事到着したようだ。裴璆の父・裴頲(はいてい)は渤海使として来日した際に詩文が上手なことで話題になったため、その子が来るということを聞きつけた京都では、藤原博文や秦維興などその道で名の知れた人々が集められた。

漢詩を詠んで感動させた

当時は海外から使節が来ると、漢詩の応酬が始まるのが常であった。素晴らしい漢詩を詠むことで話題になり、国力をも左右するということだったのだろう。この時、日本側で集められた人々のうち最も裴璆を感動させたのが、一番年下の大江朝綱という文士だった。『古今著聞集』によれば、「夏の夜 鴻臚館に於いて 北客を餞す」という詩集に登場する「前途程遠し 思いを雁山の暮の雲に馳す 後会期遥かなり・・・」の句に感激して涙を流したという。これは、渤海使帰郷に際して、度々会うことのできない渤海使の帰郷を悲しむ歌である。12年に1度の派遣、しかも不安定な船という交通手段での航海。本当にまた会えるのだろうか?そのような不安な思いの中で感動が生まれたのだ。

表面的な付き合いだったら、ここまで感動することはきっとないはず。深い心の交流があったのでしょうね。

毎日ステーキ三昧だった

それでは、渤海使に提供された食事はどのようなものだったのだろうか。延喜19(919)年に、2度目に裴璆が日本に滞在した時も豪華な「おもてなし」が行われた。それはなんと滝口の武士が獲ってきた鹿2頭が毎日振舞われていたらしい。もともと渤海使は狩猟民族なので、肉を好んで食べるのだ。日本の狩猟関係者が必死に獲物を捕らえていたことが想像できる。鹿以外にも、宍(猪)、鳥などの肉や、それに添える蒜(ニンニクの一種?)が出されたようだ。日本食は当時から手が込んでいて、ステーキやぼたん鍋に、ニンニクを添えるという食べ方をしていたらしい。

鹿2頭を毎日獲ってくるのは、かなり大変そうです……。

鹿のステーキとニンニク

国が変わった後のおもてなしのあり方とは

裴璆は渤海が滅亡してしまった後にも、延長7(929)年に渤海を滅ぼして建国された東丹国の使者として日本を訪れた。当時命懸けの航海のはずだが、このとき3度目の入国を果たしている。しかしこの時、日本の朝廷は東丹国との国交を拒否したため、国に帰らねばならなくなってしまった。

本当のところはどうだったのか分かりませんが、大切にしていた相手を滅ぼした国、というような心情もあったのでしょうか……。裴璆の心境も複雑だったでしょうね。

裴璆は親交が深かった藤原雅量(まさかず)と会い、その時の辛い心情を語ったようだ。一方で、藤原雅量も朝廷の立場で非情な指令を伝えねばならず辛かったに違いない。裴璆の詩に応答する形で、詩を書くのが精一杯だったようだ。藤原雅量は裴璆に対して、同情はしても相手が満足するようなおもてなしまではなかなか難しかっただろう。国という衣をまとい、個人の枠を超えた「おもてなし」を考えるときに、我々は親しい個人に対してどのように振る舞うべきなのだろうか。そのことについて考える必要がありそうだ。

参考文献
上田雄『渤海国』講談社学術文庫 2004年
古畑徹『渤海国とは何か』吉川弘文館 2017年

書いた人

千葉県在住。国内外問わず旅に出て、その土地の伝統文化にまつわる記事などを書いている。得意分野は「獅子舞」と「古民家」。獅子舞の鼻を撮影しまくって記事を書いたり、写真集を作ったりしている。古民家鑑定士の資格を取得し全国の古民家を100軒取材、論文を書いた経験がある。長距離徒歩を好み、エネルギーを注入するために1食3合の玄米を食べていた事もあった。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。