歴史的な遺物でありながら、ユーモラスなフォルムで、キャラクター好きの小学生から古代史愛好家の中高年まで、幅広い年代の人に親しまれている存在「埴輪(ハニワ)」。
みなさん、博物館などにで目にされたこともあると思いますが、果たして埴輪が「どのような環境で」「どのような人々によって」「どうやって作られ」、また「どのように使用された」のかご存知でしょうか……?
今回は、そんな埴輪にまつわるさまざまな謎に迫りたいと思います!
埴輪はどうやって作られたのか?
取材に訪れたのは、大阪府高槻市にある、約1,500年前に実際に稼働していた日本最大級の埴輪工場(こうば)の遺跡「史跡 新池ハニワ工場公園」。埴輪について解説をしてくださるのは、高槻市立今城塚古代歴史館学芸員・今西康宏さんです!
米田:今日は宜しくお願いいたします!!
今西:宜しくお願いいたします!
米田:ここが古墳時代の埴輪作りの現場ですね。
今西:はい、こちらは、5世紀中頃から6世紀中頃までの約100年間断続的に操業していた、日本最大級の埴輪工場の跡です。太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳(大阪府茨木市)や、学術的には継体大王※墓と考えられている、今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)などに供給するための埴輪を生産していました。
米田:埴輪の窯はいくつぐらいあるんですか?
今西:全部で18基の窯がありまして、1~3と18号窯は発掘調査をしていて、それ以外は土の中に手つかずで保存している状態です。
米田:14基はまだ土の中に眠っているんですね……。
今西:そうですね。それでは、実際に、窯を見に行ってみましょう。
今西:こちらが1号窯が発掘された場所で、推測される当時の窯の様子が再現されています。苆(すさ)の入った粘土みたいなもので、天井はドーム型に土盛りがされています。斜面を利用して作られていて、こちらの一番低い所に薪を込めて燃やして、上昇気流で中を燃焼させていきます。中に入っている埴輪に火が直接当たらなくても均等に焼きあがり、失敗が少ない焼き方です。この窯が作られた5世紀は、全国的に大きな古墳が作られた時代で、その分たくさんの埴輪が必要となったので、埴輪を効率的に焼くためにこういう方法がとられたんです。
米田:いわゆる、登り窯ですよね。
今西:はい。登り窯は、4世紀末から5世紀の初めぐらいに朝鮮半島から日本に伝わったんですが、それが早々に埴輪作りにも取り入れられたということです。
米田:実際、こういう風に茅(かや)ぶきの屋根が付いていたんでしょうか……?
今西:それについては、ちょっと分からないですね……(笑)。ただ、ここで作られた埴輪の量を考えると、かなり休みなく操業しないといけなかったと思われるので、季節や天気の影響を受けにくくするために、おそらく何らかの屋根は掛けていたんだろうと思われます。
今西:こちらには、3号窯の発掘現場が復元されています。地面が溝状に掘られているんですけど、800度くらいの温度で埴輪を焼きますので、熱を受けて土が赤く変色していました。窯は操業を終えて、ペシャッと潰れた状態で見つかりました。
米田:こういった埴輪焼成用の窯は、他でも見つかっているんでしょうか?
今西:全国でポツポツと見つかっているんですけど、大王墓の埴輪を焼いた窯だとはっきり分かっているのはここくらいですね。仁徳天皇陵などは2万本ぐらいの埴輪が必要だったはずなんですけど、実は窯が見つかっていないんです。
米田:え~! そうなんですね。発見されていないけど、どこかにあるんですかね……。
今西:謎なんです。古墳全盛期の百舌鳥(もず)・古市古墳群※では、ほとんど見つかっていないと思います。
今西:こちらは、今城塚古墳で使われた埴輪を焼いた18号窯です。埴輪焼成用の窯は、使用するたびに少しづつ壁が崩れてくるんです。その崩れた土を敷き詰めて整えてから再び焼く、というのを10回程繰り返す、という使われ方がされていました。そのため、使用するにつれて段々と床が上がっていくんですね。右側が窯が作られた頃の初めの床で、左側の上の部分が最後の床面です。ここはトンネル状に地面をくり抜いて作った窯で、先ほどの1~3号窯で見られた天井は張られていなかったようです。「焚口」というプレートのあたりで燃料を込めていました。
米田:左側の真ん中より少し上のあたりに埴輪の欠片がありますね。
今西:はい、埴輪片は、窯の上の方と下の方で同じ埴輪の欠片が見つかっていることから、おそらく、焼成の際に埴輪が転がっていかないように、失敗品を再利用して支えとして使われていたものではないか、と考えられています。
米田:なるほど~! 欠片の見つかった場所でそんな推測ができるんですね……!
今西:この遺跡には、焼成用の窯だけでなく、埴輪の成形が行なわれた工房の遺跡もあります。工房の方に行ってみましょう。
今西:こちらが工房跡です。一番奥が1号窯で焼く埴輪を作った1号工房、その手前に2号工房、3号工房がありました。
米田:工房と窯はそれぞれ対応しているんですね。
今西:そうなんです。1つの工房は大体100㎡を少し超える大きさで、柱が2本立ちになっていることから、おそらく上屋根を支える柱と下屋根を支える柱が別だったのではないかと考えられます。こちらには、そういった推測を元に当時の工房が復元されています。
米田:中は涼しくて、気持ちがいいですね~!
今西:建物は大きな竪穴式住居みたいな構造なんですけど、とても風通しが良くなっていて、ここで埴輪を成形した後、少し乾かして乾燥させてから窯に運んでいたんじゃないかと思われます。
米田:埴輪の材料は、土と水でしょうか?
今西:そうですね、粘土と水ですね。水は近くに流れている谷川の水を使っていました。土を採取した場所ははっきりとは分からないですが、川を挟んだ南側で粘土を取ったと見られる(粘土層に達する)穴が見つかっているので、そういった所から採って使っていたんだと思います。後は、ただの粘土だと埴輪の生地として弱いので、一般的に川砂を混ぜたりするんですけれども、こちらでは川砂ではなくて、この辺りの崖から掘り出した礫(レキ)を混ぜ込んでいました。だから、ここの埴輪は他より大きい石の粒がたくさん入っているんです。また、埴輪を焼くのに大量の薪がいるので、薪に適した木も周りにたくさんあったんだと思います。
今西:こちらは復元なんですが、割れた埴輪の中に粘土が入った状態のものが工房内でいくつか見つかっています。
米田:粘土入れですか?
今西:粘土入れだと思われます。
米田:製作工程としては、この工房で生地を作って、埴輪を成形して、乾かして、窯に運んで焼成する、という流れでしょうか。焼成には大体どれくらいの日数が掛かっていたんですか?
今西:埴輪は800度位の温度で焼成するんですが、今、電気窯で700~800度で焼く時に、乾燥・徐熱などを含めると2~3日掛かるので、昔はもっと時間が掛かっていたと思います。窯詰めからしたら、1週間に1回くらいのペースだったと考えてよいでしょう。
米田:埴輪を作った職人さんというのは、どういった人だったんでしょう?
今西:難しい質問なんですが、ここの工場に関しては、高槻でこれだけ大規模な埴輪作りが行なわれたのが初めてだったことや、埴輪の形などから見ても、百舌鳥・古市古墳群の埴輪作りの最新技術を持った職人たちが先生役として来て、指導してくれていたと考えられます。後は、遺跡内で東海や関東地方の土器が見つかっていますので、色々な地域から職人が学びに来ていたり、地元の集落の人たちも集まって工房で働いていたのではないでしょうか。窯や工房の近くには、この埴輪工場集落で働いていた職人たちの住居もありました。
今西:埴輪作りは古墳作りの過程において一時期のもので、この工場の生産量が多かったことを鑑みても、1回あたりの操業は10年くらいかと思うんです。あくまでも、推測ですけど。普通の集落みたいに20年、30年住み続けたわけではなかったと思います。
米田:埴輪工場の集落は、一時的なものだったんですね。
今西:割と短いスパンの中で必要な時にわっと作って、一旦終わるという感じでしょうね。
米田:ここから、埴輪が使用された太田茶臼山古墳、今城塚古墳までは、1~2kmほどありますが、埴輪はどうやって運ばれたんでしょうか……?
今西:それは分からないんですよねぇ(笑)。敷設された道があったのかも分かっていません。ここの埴輪は結構大きいものがあるので、一人で運ぶのはちょっとしんどいと思いますね……。だから基本的には、木ぞりみたいなものに載せて運んだんじゃないでしょうか。
米田:大変でしたよね、きっと。
今西:普通に考えると古墳からもっと近い所で作った方が楽だと思うんですけど、工場を作れる条件が整う場所というのは限られていたんだと思います。そういうことの方が重視されていて、「運ぶ」ことというのはそれから考えると、余り考慮しなくても良かったということですかね。
米田:頑張れば、何とかなる! という感じだったんでしょうか……。
埴輪とは何か?
米田:そもそも、埴輪の定義って何なんでしょうか? 似たようなものに土偶もありますが、「土偶とは時代が違う」という認識で合っていますか?
今西:埴輪とは「古墳の表面に立て並べた素焼きの焼き物」というのが一番シンプルな説明です。元々は、弥生時代の終わり頃、お墓に供える壺と壺を載せる台が発展し、徐々に大型化してきました。お墓に置いていても水が溜まらないように壺に穴が開けられるようになり、やがて壺を載せる台のみで壺やお供えの意味を表すようになってきたんです。古墳時代に、それをたくさん並べてお墓を囲むようになったのが埴輪の始まりです。
今西:なので、意味合いとしては、「ここから内側はお墓で、お祀りしているところだよ」というのを示す役割があったんだろうと言われています。時代としては、3世紀半ばから近畿地方では大体6世紀代、関東の方では7世紀初め頃までです。
土偶は縄文時代のものなので作られた時代も違いますし、また、土偶はお墓に置くために作られたものではない(土偶が作られた目的は諸説あり)ので、作られた目的も違います。また、構造的には埴輪は大きいので中空になっていて、土偶は小さいものが多いので多くの場合、中が詰まっているという特徴もあります。
米田:埴輪はなぜ作られなくなったのですか?
今西:前方後円墳が6世紀後半~7世紀頭頃に造られなくなって、そこからは、方墳や八角形墳になっていくので、おそらく、お墓自体の意味合いがちょっとずつ変わっていったんだと思います。
米田:埴輪と前方後円墳はセットだったんですね。埴輪は日本全国で作られていたんですか?
今西:ほぼ前方後円墳のある場所と一致しているんですが、北は岩手県あたりから、南は鹿児島県まで粗密はありながらも、広い範囲で作られていました。
米田:地域によって特色はありますか?
今西:近畿地方では古い時代の埴輪が多く、道具の形をした埴輪とか家の形をした埴輪が多いです。一方、関東では遅れて出現した人物の埴輪が多いですね。
米田:人物の埴輪と言えば、よくイラストなどになっている片手を挙げた埴輪があると思うんですけど、あれって何で手を挙げてるんですか?
今西:あれは、東京国立博物館所蔵の埴輪がモデルなんですが、馬を引いている人だと言われています。
米田:そうなんですね! 挙げてる手は馬を引いているんですね!
今西:近畿地方でも馬子の埴輪はあるんですけど、あそこまで簡略化されたものはないので、面白い埴輪ですよね。
米田:デフォルメされているかどうかは、地域差でしょうか?
今西:地域差や時期差もありますが、モデルとなった人の身分の差もあるんです。身分の高い人は装飾など細かく表現されているんですけど、馬子というのはその人を描くというよりは馬とセットで職業を表したものなので、あのようにデフォルメされやすいのかな、と思います。
米田:埴輪の形にはどんな種類があるんでしょうか?
今西:大きく分けて、円筒埴輪と形象埴輪の2種類です。形象埴輪には、刀や甲冑など道具をモチーフにした器財埴輪や、家形埴輪、人物埴輪、動物埴輪があります。
今西:古墳時代は絵画などが残っていないので、家の形や衣装など、この時代の風俗を知る唯一の手掛かりが埴輪なんです。
米田:時々目にする、古墳時代の再現図などに描かれているものは、すべて埴輪に基づいているということですか?
今西:そうです。
米田:すごい貴重な資料ですね! 埴輪を鑑賞する時のポイントはありますか?
今西:「ヘラ描き」に注目してみると面白いかもしれませんね。例えば、こちらを見てください。
米田:船ですか? かわいい~!
今西:そうなんです。これは、今城塚古墳の特徴でして、埋葬施設がある後円部に立っていた円筒埴輪はほとんど船の絵があったんですよ。描き方が色々なので、複数の人で描いているんです。
米田:今城塚古墳のシンボルマークみたいなものだったんでしょうか。でも、何で船……?
今西:このお墓に埋葬された継体大王が琵琶湖・淀川の水系を基盤にして都を営んできた人物だったことが影響しているんじゃないかな、と考えています。
米田:なるほど~。こっちの家の屋根にも何か描かれていますね……。
今西:これは魚です。左の魚を見ると、逆さ向きの鳥がついばんでいるんですよ。おそらく鵜飼の鵜を表していると考えられています。鵜飼は、古墳時代に儀式の一部として行なわれていたと見られていますね。
米田:魚の左側は、動物ですか?
今西:そういう風にも見えますが、これは直弧(ちょっこ)文という文様が崩れたものだと思います。
米田:家の屋根にしても文様が一つ一つ違っていて、よく見ると面白いですね!
今西:今城塚古墳では25棟以上の家の埴輪が見つかっていて、これは今のところ日本で一番多いんですが、一つとして同じ形をしたものはないんです。
米田:へぇ~!! 一つ一つこだわって作られているんですね。
今西:そうですね。細かい部分をよく見て、当時の風俗を想像するのも面白いです。
今西:こちらの女性は、巫女なんですが、首元にはネックレスをしていて、足首に珠を巻いていますよね。この足の珠はすごく身分の高い女性を表しています。今城塚古墳の12体以上の女性の埴輪の中で、足に珠が付いているのはこの一体だけです。バスタオルのような大きな布を左肩のところで留めているんですが、上半身にも模様が入っていることから、その下にも服を着ていて、服がずれてこないようにたすき掛けをしていると分かります。真ん中にあるのは、帯です。
米田:スカートが台形に広がっていますけど、これはきっと割と固めの布でこういう台形のデザインだったんでしょうか。よく見ると、髪型も面白いですね!サイドは剃り上げて真ん中の部分だけ毛がある……?
今西:体に沿うようなロングスカートを穿いた巫女の埴輪も一体あるんですよ。だから、おっしゃるように、これは作り手の問題ではなくて、この埴輪は意図的にふわっとしたスカートを表現しているんだと思います。そういうところにも何か意味があったんでしょうね。
埴輪はどのように使われたのか?
今西:それでは、最後にこれらの埴輪が実際にどのように使われていたのか、今城塚古墳へ見に行ってみましょう。
米田:ワクワクします!
今西:現在の今城塚古墳の全体像を描いたマップです。墳丘の向かって左側の「埴輪祭祀場(さいしば)」と、内堤の内外の両側部に沿った円筒埴輪列の一部をレプリカで復元しています。
米田:「埴輪祭祀場」は古墳の左側にあるんですね! これは他の埴輪も同じなんですか?
今西:形象埴輪を用いた埴輪祀りの場は、前期の古墳では中心部の埋葬施設の周りを取り囲むように置かれていました。時代が下るにつれて、造出周辺や内堤など外側に置かれるようになり、今城塚古墳の時代は、一部の有力な古墳に「張出(はりだし)部」が作られています。張出部の位置は前方後円墳の左側に多いような印象がありますが、決まっているかどうかは……。堤がない小さい古墳では、前方後円墳の形に沿ったところに形象埴輪と円筒埴輪が一緒に並べられていることが多いです。
米田:あっ! 円筒埴輪が並んでますね!
今西:はい、円筒埴輪は古墳全体で約6千本あって、その内、1,250本を現在復元しています。こちらが、「埴輪祭祀場」です。
米田:わーすごーい!! たくさん埴輪が並んでますね~。巫女の列の一番前に、さっき見た足輪の巫女もいます! これはどういう風に並べられているんでしょうか?
今西:実際にそれぞれの埴輪が見つかった地点の上にレプリカの埴輪を設置しています。塀と門で区切られた4つの区画に分かれていて、宮殿のようなものの中の様子が再現されているのではないかと考えられます。並び方については、色々な人が色々な解釈を行なっているのですが、有力な説の一つとして、大王の葬送儀礼を表したものだという説があります。
今西:一番手前の4区には牛・馬・武人・力士など大王を守る護衛的な埴輪が並べられていて、塀を隔てて3区、2区があり、一番奥の1区が最も重要なエリアだったと思われます。この部分には屋根にギザギザの付いた片流れ造の家形埴輪があり、それが大王の遺体を安置した殯屋(もがりや)だったのではないかという説もあります。
米田:埴輪はこんな風に並べて使われていたんですね~! でも、古墳の真ん中ではなく、外側にあったというのは、大王の鎮魂と言いますか、「死者が寂しくないように」という意味合いというよりも、モニュメント的な意味合いだったのでしょうか?
今西:埴輪の置かれた場所からも、「見せる」ということを意識して作られたものだと推測できますし、そういった要素は大きかったと考えていいと思いますね。ただ、そこに鎮魂の意味も込められているという可能性はありますが。
米田:他の遺跡でも埴輪はこのように何かのシーンを再現しているのでしょうか?
今西:今城塚古墳のようにゾーニングまでしている大規模なものは珍しいですね。小さい古墳などでは一部だけが再現されていることが多く、並べ方もくっつけて一列に並んでいたりするんですが、力士、巫女など登場するモチーフは同じようなものが現れてきます。皆さんそれぞれを比較することで、「共通することは何か」「どういうお祀りをしているのか」という謎解きをしています。そういったものの中で、今一番整った形で埴輪の配置が分かるのが今城塚古墳です。
米田:埴輪について、分かりやすく教えていただきありがとうございました! 今まで単体で見ていた埴輪がどういった流れの中で作られ、使われていたものなのかということが分かりました。
今西:今城塚古墳では現在も埴輪の復元や発掘調査を進めています。例えば、最近では、4区の手前にもまだ埴輪が配置されていたのではないか、という説もでてきています。まだまだ、分からないことがたくさんありますし、今後もさまざまなことが解明されていくと思います!
取材先はココ!
史跡 新池ハニワ工場公園
日本最大級の埴輪工場があった新池遺跡を整備して作られた公園。埴輪作りが行なわれた工房や窯が復元され、古墳時代の遺跡を自由に見学できる。
住所:大阪府高槻市上土室1
開館時間:「ハニワ工場館(18号窯)」は、10:00-17:00
休館日:「ハニワ工場館(18号窯)」は、年末年始(12/28~1/3)
アクセス:JR富田駅から「西塚原」行きバス乗車、「上土室」下車徒歩4分
公式webサイト:https://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/shisetsu/1327317816926.html
いましろ大王の社(今城塚古墳公園・高槻市立今城塚古代歴史館)
6世紀前半の継体大王の陵墓と見られる今城塚古墳を中心とした、全国でも珍しい古墳公園。日本で唯一、大王墓(天皇の陵)でありながら古墳の中を自由に歩くことができる。古墳に隣接する歴史館では、発掘調査で明らかになった形象埴輪群や、ジオラマ模型、映像解説などによって、今城塚古墳について詳しく知ることができる。
住所:大阪府高槻市郡家新町48-8
開館時間:「今城塚古代歴史館」は、10:00-17:00(最終入館は16:30)
休館日:「今城塚古代歴史館」は、月曜日(祝日の翌平日休)、年末年始(12/28~1/3)
入館料:無料(特別展・企画展は別途観覧料が必要になる場合があります。)
アクセス:JR摂津富田駅から「奈佐原」行きバス乗車、「今城塚古墳前」下車すぐ
公式webサイト:https://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/