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2021.06.17

絶望の末、終身刑から脱獄!高野長英の6年にわたる逃亡生活と壮絶な最期

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理不尽な罪状で収監されるも脱獄を果たし、全土を縦断する決死の逃亡生活を送る……映画のモチーフになりそうな話ですが、日本史上の著名人がこれを敢行したと聞いたらびっくりしませんか?

そんな人がいたの?

その著名人とは、江戸時代末期の蘭学者・医者の高野長英(ちょうえい)。幕府の対外政策に批判的な蘭学者が一斉検挙された「蛮社の獄」に巻き込まれ、終身刑となった人物です。

その長英が、いかに脱獄を成し遂げ、6年にわたり逃亡し、最後はどうなったかをこれから紹介しましょう。

有能な医者・蘭学者として名を馳せた前半生

長英の生年は1804年。水沢伊達家の水沢藩(現在の岩手県奥州市の中心部)の家臣の三男として生まれました。8歳の時に父が死去し、母の兄である高野玄斎(げんさい)の養子になります。

養父の玄斎は、若い頃に江戸に留学して杉田玄白に学び、水沢に戻ってからは医者として活動しました。その影響を受け、若き長英も蘭医をこころざし、江戸と長崎で熱心にオランダ語と医学の修練に打ち込みました。

1830年に、町医者そして蘭学者として本格的に活動を開始。傑出した語学の能力が買われ、知識人のコミュニティ「尚歯会(しょうしかい)」でも目立つ存在になりました。

文人画家の椿椿山(つばきちんざん)が描いた高野長英の肖像(高野長英記念館蔵)

1837年、日本人漂流民を乗せた米国の商船モリソン号を、日本側が砲撃するという「モリソン号事件」が起きます。海外事情に通じる長英は、幕府の対応に批判的でした。事件を知ってすぐに小冊子『夢物語』を書き上げますが、そこではモリソン号の打ち払いは得策ではなく、漂流民を受け取り、薪や水を与えて穏便に帰らせるべきなどと持論が展開されていました。

幕府の対応を自著で批判したんだ!

直江津の福永家に所蔵されていた『夢物語』の写本(高野長英記念館蔵)

蛮社の獄に巻き込まれて終身刑

『夢物語』は出版されたわけではありませんが、周囲の人に読まれ写本が出回り、将軍の徳川家慶の手にまで渡ったのです。これが仇となりました。

1839年4月、尚歯会への取り締まりが開始。家宅捜索で幕政批判の草稿が見つかった、江戸詰めの田原藩家臣・渡辺崋山(かざん)が入牢となります。長英は、田原藩医の鈴木春山(しゅんさん)にかくまわれていましたが、奉行所に出頭することを決断します。この「蛮社の獄」といわれる一連の騒動では8名が逮捕、入牢を恐れた1名が自殺という、蘭学界を揺るがす大事件となりました。

蛮社の獄! 聞いたことがあるぞ。

「尚歯会」の仲間内で囲碁をうつ様子。左側に崋山と長英が描かれていると伝わる(高野長英記念館蔵)

長英が自首したのは、楽観的な観測があったからのようです。重くても関東追放だろうと。しかし、宣告された刑は永牢(ながろう)。つまり終身刑でした。

こうして長英は、悪名高い小伝馬町の牢屋敷に放り込まれます。

劣悪極まる牢屋に放り込まれて

さて、牢屋敷は、囚人の身分によって区分けされています。例えば、崋山が入ったのは、比較的高位の者向けの揚り屋(あがりや)でした。ならず者が入る無宿牢より格段に待遇は良いはずですが、他の囚人による非道な仕置きや不潔な環境の耐えがたさを、崋山は獄中書簡に記しています。

長英が入ったのは、一般町民向けの大牢でした。それは崋山が音をあげた揚り屋より劣悪な環境でした。長英は手記のなかで、こう書いています。

日光もささず、風も通らない陰鬱な場所に、数十人もの囚人がうろこのようにびっしりと詰まっている。夏はその暑さが耐え難く、病人の臭気、不浄の諸気に交じり、一種異様な臭気となっている。(現代語訳)

蛮社の獄で収監された8人のうち4人が、半年のうちに命を落としたという生き地獄の中で、長英は「心の底を鬼となし」生き延びる覚悟を決めます。

強い覚悟!

牢屋敷の俯瞰図(『新獄屋圖』の一部:国立国会図書館デジタルコレクションより)

一筋の光明は、長英が蘭医であったことです。病に伏せる囚人が長英の手によって快方に向かうことがたびたびあると、周囲の囚人の見る目が変わってきました。また、塀の外では有志の減刑活動が功を奏し、牢内の処遇も良くなっていきました。

やがて、長英は牢役の添役に抜擢されます。牢獄の中は、公認のある種の自治制度が敷かれており、なんらかの役目を持った者たちを牢役と呼びました。牢役のトップは牢名主で、その下に上座、中座、下座と階級が分かれ、階級ごとに数名の者が役に就きました。長英がなった添役は上座に属し、主に病人の手当てをする役割。牢名主に次ぐ、ナンバーツーの座です。

牢の中のコミュニティで、ナンバーツーに!

絶望の末に脱獄を決意

1841年、将軍・徳川家斉が逝去したのに伴い大赦の令が出され、長英の牢の牢名主が釈放されました。後任として長英が牢名主となります。牢名主の特権として、酒・煙草が買える、外部と文通ができるようになるなど、待遇はさらに良くなりました。

しかし、獄外の親族・仲間の赦免活動もむなしく、長英が牢から出る望みは限りなく薄いものでした。

牢に入れられてから5年近く経ったある日、長英の心の底にある計画が芽生えます。

それは脱獄でした。

ここまで我慢して、ついに……!

江戸時代において脱獄を試みた囚人は何人かいますが、ほとんどが未遂や失敗に終わり、極刑に処せられています。頭脳明晰な長英ですから、ほかの囚徒の目があるなかで格子を破り、今でいう刑務官の手を振り切って、数メートルの塀を乗り越えて闇に消える……などというシナリオは、はなから想定しなかったはずです。

では、何を想定したかといえば、火災でした。

牢屋敷への放火をそそのかして…

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が今も残るほど、江戸時代は大きな火災がよく起こりました。もしも、火勢が小伝馬町の牢屋敷に迫ってくると、「切放(きりはなし)」といって、囚人を解放する策がとられました。市中に解放された囚人たちは、3日以内に指定の場所に来れば減刑されます。来なければ死罪です。

火事で解放された後、そのまま逃げたら死罪……。

長英は、切放後の3日間というタイムリミットを最大限利用し、司直の手の及ばない所へ逃亡しようと腹をくくります。

1657年の明暦の大火以降、10回に及ぶ切放がありましたが、いつ起こるかわからない大火をぐずぐず待っているわけにはいきません。

そこで、長英が考えた手段が放火でした。

そのために目をつけたのが、栄蔵という名の雑役。長英は、いつもこの男に牢外での買い物を頼んでおり、お駄賃を渡していました。栄蔵は、気前がよくて、囚人にしては高貴な雰囲気を持っている長英を尊敬していたのでしょう。格子ごしに十両という多額の報酬をもって、ここに放火するよう頼まれると、栄蔵は嫌とは言えませんでした。

自らの手で放火したんじゃないんだ!

これは大きな賭けでした。栄蔵は弱腰になって、奉行に打ち明けるかもしれないからです。

しかし、1844年6月29日の深夜、牢屋敷に不審火が発生。火はみるみる燃え上がります。牢屋敷管理の長、石手帯刀(いしでたてわき)は63名の囚人に切放を命じます。

明暦の大火の際に行われた切放の様子(『むさしあぶみ』:国立国会図書館デジタルコレクションより)

自由に行動できる3日の間に……

小伝馬町のほど近くに住む大槻俊斎(しゅんさい)は、長英と故郷も年齢も同じ。さらに、蘭学者で医者でもあり、一時は長英と親交もありました。

牢屋敷で火事があったと聞いて翌日の未明、俊斎は訪問客があることを門弟から聞き、招き入れます。

はたして、その者は長英でした。

ドキッ!

「これから、どうなさるおつもりか」と聞くと、友人たちを訪ねるため、身なりを整えたい。ついては着物を貸してほしいとの答え。

何か予感めいたものがした俊斎は「3日経たないうちに獄に戻らないと……」と忠告しました。

長英は「心配には及ばない」と返事をし、家にある刀も貸してほしいと畳み込んできました。そして、逡巡する俊斎を尻目に、刀を持ち去っていきます。

俊斎は、町の同心に相談したところ、刀のことが問題とされ、奉行所に呼び出されます。奉行所からは、「長英を探し出せ」との命が下されます。猶予は3年。

捜索のプロではない俊斎には、それは無謀なこと。結局3年経っても見つけられず、閉門(外出や人の出入りの禁止)の沙汰が下りました。

ちなみに、閉門といっても形式的なもので、設立した種痘所が幕府所管の西洋医学所(東大医学部の前身機関)となり、初代頭取に任命されます。

大槻俊斎の肖像(『医家先哲肖像集』:国立国会図書館デジタルコレクションより)

話は戻りますが、長英は自由に行動できる3日のうちに友人や妻子に会い、そしてぷっつりと行方をくらますのです。

当然ながら奉行所は、放火教唆と脱獄をした長英を放ってはおきません。放火犯と判明した栄蔵を極刑に処したのち、長英の人相書きを津々浦々に配ります。

にもかかわらず、杳として消息が知れず、捜査はすぐに手詰まりになりました。

お尋ね者の身で母と妻子に再会

そんな折、尾間木村(現在のさいたま市緑区大間木)に住む蘭医・高野隆仙のところへ、長英がひょっこり姿を現します。隆仙は、長英のかつての門人でした。ここへ案内したのは、隆仙の弟の水村玄銅。彼も長英の門人で、在獄中に赦免活動をしていた人物です。

高野隆仙の肖像(高野長英記念館蔵)

隆仙は、長英を書斎に1週間近く泊まらせました。

リスクを承知で、長英をかくまったんですね。

長英が立ち去った翌日、隆仙のもとへ迎え駕籠がやってきます。「これに乗って患者を往診してほしい」との頼みでしたが、連れていかれたのは同心詰所。

隆仙は、尋問がわりに、石責めの拷問を受けましたが口を割らず、3カ月以上経って釈放されました。

一方、長英は、つてを頼りながら上州(現在の群馬県)へ、それから直江津へと入り、ぐるっと回って、故郷の実母に再会します。1845年10月のことでした。

脱獄から1年以上!

脱獄後の長英の大きな目的は、母に一目会うことでした。それが果たされた今、次の目的は江戸に住む妻子と共に住むことでした。江戸に戻ることは相当なリスクを伴うことでしたが、周囲のひそかな助力もあり、念願は叶いました。

住まいは麻布薮下の裏店。入獄時に乳児であった娘は既に7歳。ほどなく長男が生まれます。長英は翻訳で糊口をしのぎながら、幕府の対外政策が変化することで、自分は赦免されるのではないかと、淡い期待を抱いていたかもしれません。

やっとの思いで家族と暮らせたんですね……。

宇和島藩に密かに召し抱えられるも……

その頃、捕方とはまったく異なる理由で、長英を捜索している者がいました。

宇和島藩の藩主・伊達宗城(むねなり)です。

宗城は、開明的な性格の持ち主で蘭学への理解が深く、蛮社の獄の前年に長英に会っていました。沖合を航行する外国船が目に付く昨今、宗城は入手したオランダの兵書を翻訳できる者を求めていました。そして、最たる適任者は長英をおいてほかにいないと考えていたのです。

これはまさに、救いの手!

宗城は、江戸藩邸に勤務する松音図書(ずしょ)に長英捜索を命じ、図書は長英をかくまっていた内田弥太郎を通じて長英に接触しました。

宇和島に来れば、江戸市中をうろつく捕吏を気にすることなく、日中の光を浴びることもできる。何より、西洋事情をうかがえる書物を好きなだけ読め、翻訳すれば生活費も稼げる……長英は、宇和島藩の提案に飛びつきました。

1848年2月、長英は江戸を出発。帰国する藩医・富沢礼中に同行する蘭学者という名目で、通行手形は宇和島藩が用意しました。途中の大坂藩邸で、江戸に向かう宗城と10年ぶりに対面。翌日、船で宇和島に向かい、4月2日の夜に宇和島の船着き場に到着します。

宇和島藩が長英に用意した家は、家老が以前住んでいた別荘。そばを川が流れ、小舟が係留されていましたが、これは万が一幕府の手が及んできたときの脱走用でした。
長英は、伊藤瑞渓(いとうずいけい)の偽名を使い、この家で蘭書の翻訳に没頭することになります。

めでたしめでたし……

しかし、平穏な日々は1年足らずで破られます。幕府の隠密が、伊東端渓の素性をつかみ、捕吏を宇和島へ送るとの情報がもたらされたのです。

長英は、すぐに旅支度をして出立。当初は、薩摩藩の藩主・島津斉彬(なりあきら)を頼るつもりが、お家騒動が深刻とのことで断念。最終的に、江戸に舞い戻り、宇和島藩邸の近くの土蔵に籠ることにします。

ここでも宇和島藩から依頼された書物の訳業を続け、翻訳物を藩邸に届けて得た報酬を生活の糧としました。しかし、これも幕府による洋書翻訳制限令によってままならなくなり、宇和島藩との交流は途絶してしまいます。経済的に追い詰められた長英は、途方に暮れます。

江戸に戻っての潜伏生活が露見して……

思案の末にとった解決策は、町医者となることでした。診療に来る町人を相手にすることは多大な危険性をはらむことでしたが、妻子を養う身では背に腹は代えられません。

沢三伯という偽名を使い、薬品で顔の一部を焼き、庭には落ち葉を敷き詰め、誰かが来た場合、足音でわかるようにするなど、捕まらないための用心を徹底しました。

しかし、南町奉行所の同心が、沢三伯と名乗るこの医者を怪しみ、聞き込みと張り込み捜査のうえ、彼を長英と断定します。

またも勘づかれてしまったのか……。

1850年10月30日の夜、長英のもとに大けがをした患者が運び込まれました。

患者は全身血まみれで、数人の男の手で戸板に乗せられてきました。喧嘩をしてけがを負ったと、付き添いの男が叫びます。

長英は、けが人のそばに来て傷の具合を見ようとした刹那、激痛にうめいていたはずの男が起き上がり、「御用!」と言うなり、長英につかみかかりました。他の男たちも唱和するかのように「御用!」と叫び、懐から十手を取り出します。

彼らは全員、捕り手でした。鮮血と見えたのはニセモノの血で、医者である長英を油断させるための罠だったのです。

長英は、裾をつかむ手を振りほどくと、家の中に駆け込み、抜け穴をくぐって青山の野原から逃走しようとしました。しかし、そこにも何人かの捕り手がおり、十手でしたたかにぶたれました。

長英が半死半生の状態になったところで、駕籠に乗せ南町奉行所へ護送する最中、長英は絶命しました。享年46歳。

悲しい最期……。

その4年後、幕府は日米和親条約を締結し、欧米諸国への開国の道が開かれます。歴史に「if」は禁物ですが、この頃まで長英が生き長らえていたら、恩赦の御沙汰が下ったかもしれません。

現在、歴史の奔流に呑み込まれた一人の男を悼む石碑が、表参道駅そばの複合文化施設・青山スパイラルの柱に埋め込まれています。石碑の前にたたずむと、そんな考えにふけってしまうのです。

◆主要参考文献
『物語 大江戸牢屋敷』(中嶋繁雄/文藝春秋)
『長英逃亡潜伏記―高野長英と伊達宗城異聞』(青山淳平/光人社)
『高野長英』(鶴見俊輔/朝日新聞社)
『高野長英』(佐藤昌介/岩波書店)

書いた人

フリーライター。北国に生まれるも、日本の古くからの文化への関心が抑えきれず、2019年に京都へ移転。趣味は絶景名所探訪と美術館・博物館めぐり。仕事の合間に、おうちにいながら神社仏閣の散策ができるYouTube動画を制作・配信中→Mystical Places in Japan

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我の名は、ミステリアス鳩仮面である。1988年4月生まれ、埼玉出身。叔父は鳩界で一世を風靡したピジョン・ザ・グレート。憧れの存在はイトーヨーカドーの鳩。