「三つ子の魂百まで」ということわざがある。
幼い頃に表れた性質は、教育を受け、様々な経験を積んでも根強く残る。ぶっちゃけ、人はいくつになっても変わらないというコトだ。
じつに、世界でも同じようなことわざがあるという。英語の「The child is father of the man.」もそう。「子どもは大人の父である」との意味なのだとか。
さて、日本の歴史に目を向ければ。
天下人になるほど出世した戦国武将には、大抵、神懸った幼少期の出来事が語り継がれることが多い。事実かどうかはさておき、「偶然」と「スピリチュアル」は紙一重。神格性を肯定したいとの思惑は、現在でも十分に理解できる。
もちろん、天下人でなくとも。ほどほど名の知れた戦国武将であれば、アッと驚く出来事の1つや2つ。なにも珍しいコトではない。なかには、幼少期を通り越して、生前から予兆めいた現象が……なんて行き過ぎる場合も。
そういう意味では。
今回、ご紹介する戦国武将は、他の戦国武将とは一線を画するのかも。
まずもって、スピリチュアル系の話ではない。確かに、幼少期の逸話は幾つかあるが、どれもこれも「人格」にまつわるモノばかり。
その戦国武将とは。
筑後(福岡県)柳河(柳川)藩主「立花宗茂(たちばなむねしげ)」。
天下人である豊臣秀吉が「東の本多・西の宗茂」と称賛した戦国武将である。
決して世渡り上手ではないにしろ、初志を貫き、忠義に篤いその姿勢は、諸大名らも認めるところ。それ故、胸打つ逸話も数多く残されている。
今回は、その中から。
「只者じゃない」臭プンプンの、幼少期の逸話を厳選した。
少々デキすぎ感は否めないが、その後の活躍を考えれば納得の言動である。
それでは、立花宗茂の「原点」を、早速、ご紹介していこう。
猛将の父たちから受け継ぐもの
「立花宗茂」の幼少期を語る前に。
まずは、その特異なバックグラウンドを説明しなければならないだろう。
じつは、宗茂には「強烈な2人の父」がいた。
彼らは、共に九州の戦国大名「大友氏」の宿老家の出身だ。
1人は、実父である「高橋鎮種(しげたね)」。享年39。
法名である「高橋紹運(じょううん)」の方が有名かもしれない。じつは、「高橋」という氏は、生まれ持ったものではない。大友氏に謀反を起こし追放された「高橋鑑種(あきたね)」の氏を承継している。
その後、筑前(福岡県)の宝満城と岩屋城の城主になるのだが。当時の九州は、まさに群雄割拠の時代。九州南部より「島津氏」が勢力を拡大しているなかで、高橋鎮種もその犠牲に。特筆すべきは、敗れると分かっていながら、少しでも多くの島津勢を道連れにしようと、壮絶な最期を遂げたというコト。
そんな高橋鎮種の嫡男として生まれたのが、今回の主人公である立花宗茂。勝敗に関係なく、誇り高く戦うあたりが、どうやら、ドンピシャで実父似といえるのかも。
一方、もう1人の父はというと。
養父(義父でもある)の「戸次艦連(べっきあきつら、へつぎ)」。享年73。
コチラも、「立花道雪(どうせつ)」の名前の方が有名だろうか。
大樹の下で涼んでいるところで落雷に遭い、足の自由が利かなくなったという。なんなら、その稲妻を一刀両断したとの逸話も残っているとか。そんな経緯とこれまでの不敗の戦績も合わさって、「雷神」や「軍神」などと呼ばれることに。
「氏」が異なるのは、高橋鎮種と同じ経緯を持つ。主君である「大友宗麟(そうりん)」の命により「立花鑑載(あきとし)」を攻め落とし、結果的に「立花家」を継いだ形に。こうして、立花城主となるのである。
そんな立花城に招かれたのは、宗茂が幼年の頃。
道雪には男の子がおらず、彼自身かなりの高齢になりつつある事情が背景にあった。そんな折、ある出来事をきっかけに、道雪は宗茂を養子にしたいと考える。その様子が『名将言行録』に収められている。
「艦連(道雪のこと)は家臣に命じて、罪人を自分の前で討たせた。不意のことであったから、宗茂はどのように感じたかと思い、試しに宗茂の胸に手を入れてみると、少しもはげしい動悸がしていない」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
この子には、豪傑の資質がある。道雪は、そう思ったという。
それにしても、相手は、高橋鎮種の大切な嫡男。もちろん、養子にと願っても、実現が難しいのはいうまでもない。ただ、二度と見出すことができぬ逸材なのも確か。だからこそ、道雪は断られても諦めきれず、宗茂にこだわった。断る高橋鎮種に、重ねて是非とも養子にと頼んだという。
自分の一家のためではない。主家の大友氏、そして国のためなのだ。
この道雪の言葉で、実父の高橋鎮種は決意。最愛の嫡男である宗茂を養子へと出すのであった。
養父となる道雪の力説も大したものだが。これに呼応する実父の高橋鎮種も、物事の道理が分かる人物だといえよう。こうして、立花宗茂は2人の強烈な父を持つに至るのである。
肝が据わっているどころじゃない⁈
家臣と民に愛され、諸大名からも一目置かれた戦国武将「立花宗茂」。
そんな彼の幼少期はというと。
生まれつき強健で、4、5歳のときは7、8歳の子どもに見えたとか。もちろん、武芸のみならず、聡明で弁舌にも優れていたというから、「スーパーデキすぎくん」は、もう既にこの頃には健在していたようである。
加えて、先ほどご紹介した逸話の通り。
宗茂は、どのような場面でもなかなか動じない人物だったといえる。
『名将言行録』には、さらに幼い頃の逸話が残されている。
当時、宗茂は8歳。見せ物があったため見物していると、何やら一部が騒がしい。偶然にも、見せ物の最中に、群衆の中で争いごとが起こったというのである。しまいには、口論から殺害にまで発展する有様。
いやはや、物騒極まりない世とはいえ。居合わせた者も大いに騒ぎ立て、現場は大混乱。見物人らも四方へと逃げ去っていく。もちろん、大事な宗茂に何かあってはと、付き添いの者も宗茂を連れて、その場から立ち去ろうとするのだが。
そんな家中の者とは正反対に、まるで宗茂は慌てない。
なんなら、まるでコナン君のように(私の勝手な想像です)。いかにも子どもらしい、とぼけた質問をしたのである。
「今日の見せ物はこれで終わったの?」
……。
やだな。
あの甘ったるい声で、無邪気に質問したあと。心の声で「犯人は誰だ⁈ どこにいる!」とか。鋭く突っ込んでいたりして(私の勝手な想像です)。
話を戻そう。
何度もいうが。困るのは、宗茂に付き添っていた者たちだ。
大事な後継ぎに、何かあってからでは遅い。というか、生きては帰れない。なんといっても彼らはオトナ。常識的な対応をしようと試みる。
それなのに、である。
「付き添いの者は『ただいま恐ろしい騒動が起こりましたので、このようなところには長居なさらぬものです』というと、宗茂は笑って『お前たちがあわてるとはおかしなことだ。われわれはあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくるようなことがあろうか』」
(同上より一部抜粋)
ちなみに、念押しするが。宗茂は当時8歳。
数え年だから、現在ならば小学校低学年あたりの子どもだろうか。動じないというよりも、もう上司ばりの風格。一体、この威厳はどこからくるのかと、不思議で仕方ない。
それにしても、宗茂の論理は合っているのだが。残念ながら、世の中は理不尽極まりない世界である。そんな道理が通用する正しい社会ではないのだ。私ならこの場で、8歳の宗茂とディベートする覚悟が……と思ったところで、目をこする。
なんだよ。先ほどの宗茂の言葉には、その続きがあるじゃん。
それが、コチラ。
「『たといどんなに恐ろしいことが起きたとしても、どうして見せ物がまだすっかり終わってしまわないのに、ここを立ち去る必要があるのか』と全然動顚(どうてん)した風がない。そうこうしている間に騒ぎも静まったので、人びともまた戻ってきて、見物しはじめた」
(同上より一部抜粋)
なんだ?
見せ物重視なのか?
また、あの甘ったるい声が……。
「ねえねえ、オジサン。どうして見せ物がおわってないのに、帰らなくちゃいけないの?」って。案外、幻聴ではないのかも。
さてと、話を広げ過ぎてしまったが。
とにかく幼少期の宗茂は、既に「大物」感を漂わせていたようだ。ここでは全てを紹介することはできないが、フツーとは違う、そんな逸話も数多く残されている。
その後、周囲の期待を背負って成長した宗茂だが。
大友氏に全力で尽くし、九州平定では豊臣秀吉に賞賛されるほど。その武功で柳河(柳川)に13万石余りを与えられる。このまま順風満帆な人生を歩むと思ったのもつかの間。秀吉は死去。
ただ、秀吉の死後も、その「義」に応えようとするのが、立花宗茂。
慶長5(1600)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」での場面のことである。
娶った道雪の娘「誾千代(ぎんちよ)」や家臣らは、もちろん、徳川家康率いる「東軍」推し。時代の潮流を読めば、確かにそうかもしれない。しかし、生前の秀吉の恩義を忘れられない宗茂は、反対を押し切って「西軍」に。
この結果、敗者側についた立花宗茂は、案の定、所領を没収されることに。
ただ、何度もいうが。
彼は、誰もが認める人格者。時代が、そう簡単に見捨てるはずがない。
ということで、のちに陸奥棚倉(福島県)に1万石を与えられ、「大坂の陣」後には、旧領の柳河(柳川)へと返り咲く。
「東軍」へと味方した豊臣恩顧の戦国大名が、改易などの憂き目にあう一方で。逆に、立花宗茂は、時間がかかったが、少しずつ徳川家から信頼を得ることに。
こうして、宗茂は。
戦国時代に比類なき「名将」として、その名を残すのであった。
最後に。
1つ疑問がある。
「三つ子の魂百まで」。
人は、大人になっても、そうそう変わらないのであれば。
既に人格者たる立花宗茂には、別段、教育など不要であったというのだろうか。
予想外にも。
宗茂は、自身の幼少期について、こんな話を残している。
「わしが九歳のとき、道雪と一緒に飯を食ったおり、鮎をむしって食ったところが、道雪はそれをみて『武士のやり方を知らない。女のようなやり方では役に立たぬ』と、ひどく叱られたことがある」
(同上より一部抜粋)
この話が事実だとすれば。
幼少期から「大器」の片鱗を見せていた宗茂に対し、道雪のお叱り炸裂。いうなれば、どのような人間に対しても、決して教え導く必要がないワケではない。生かすも殺すも、全ては環境次第。ただ立派だと放置していては、何の意味もないのである。
光り輝く「原石」を、どう育てていくかも重要だというコト。
さらにさらに。
「十三歳のとき、道雪と同道して栗の毛毯(いが)が多くあるところを通ったとき、毛毯が足にささった。そこで、『これを抜いてくれ』というと……」
(同上より一部抜粋)
この続きには、一体、どのようなオチがあるのか。
勘のいい方は、もうお分かりだろうか。
またしても、道雪のお叱り炸裂かと思いきや。
なんと、今度は全くの別の人物。
道雪の家臣である「由布(ゆふ)源兵衛」が走ってきたという。
そして、栗の毛毯を抜くどころか、逆にもっと押し込んできたというのである。痛みはさらに激しさを増したのだが、「痛い」と泣き言も言えず。13歳の宗茂は、大層困ったという。
2人の父だけではない。
立花宗茂に関わる全ての人。
そんな彼らの厳しい愛情が、彼を、さらなる人格者へと高みに引き上げたのだろう。
名将「立花宗茂」の原点。
それは、生まれながらの資質と、深い愛情にあったのだ。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月
『戦国武将を育てた禅僧たち』 小和田哲男著 株式会社新潮社 2007年12月