初の軍楽隊伝習
日本で最初に吹奏楽の演奏が鳴り響いたのは、有名なペリー来航(1853年)、このとき艦隊に同行していた軍楽隊の演奏でした。
とされていますが、実は、それ以前に外国(オランダ)との唯一の窓口であった長崎において、オランダ商館長が新しく着任して、長崎奉行に対する着任挨拶の際にオランダ海軍軍楽隊が先導したという記録があるので、厳密にいうと、日本人が最初に見聞した洋式楽器の軍楽隊は、オランダ海軍軍楽隊ということになります。(楽水会『海軍軍楽隊ー日本洋楽史の原典ー』)
ペリー来航から16年を経た1869(明治2)年9月、本格的に日本での伝習が始まりました。最初に習った日本人は、薩摩藩で選抜された伝習員30名で、横浜にある妙香寺に派遣され、当時横浜に駐屯していたイギリス陸軍第10連隊第1大隊附軍楽隊の楽長フェントン (John William Fenton)から軍楽(吹奏楽)を習い始めました。
当初の楽器の大半は、楽器職人が作ったものではなく、ロクロ細工師や銅職人が与えられた手本を真似て作ったものでしたが、伝習生達は熱心にフェントンの教えを受けました。翌1870(明治3)年7月、吹奏楽器一式が輸入され、本格な吹奏楽伝習となりました。彼らは「サツマバンド」として外国人向けの英字新聞に紹介されました。そして、わずか40日後に横浜の山手公園で、イギリス軍楽隊と共に最初の公開演奏を行ったとされています。
その後、薩摩藩の伝習生たちは、版籍奉還に伴い、一旦帰藩を命ぜられますが、翌1871(明治4)年2月に再度上京します。
海軍軍楽隊の発足
明治新政府において陸海軍の軍隊を所轄していたのは兵部省で、その海軍掛では、独自に明治4年3月楽器一式を輸入し、4月19日付けで軍楽隊を創設するための徴募を開始しました。そして、7月に兵部省は陸軍部と海軍部に二分され、海軍部は9月に薩摩藩軍楽隊の小頭であった長倉彦二を楽隊長に任命し、伝習生出身者9名と新規募集隊員27名により楽隊を編成し軍楽隊を発足させました。
翌年には兵制改革により兵部省が廃止され陸軍省、海軍省が発足しますが、この兵部省海軍部のもとでの軍楽隊発足が、海軍軍楽隊(以後「軍楽隊」と称する)の起点とされています。
指導者はイギリス人からドイツ人へ
軍楽隊発足時の指導者は、フェントンでしたので、当初はイギリス陸軍の軍楽隊の流れにありました。フェントンは「君が代」を作曲したことでも知られていますが、残念ながら日本人の感性に合わなかったらしく、その後、曲は作り直されました。
フェントンは1877(明治10)年に雇用契約満期に伴い解雇となり、2年後の1879(明治12)年に海軍は、ドイツからエッケルト(Franz Eckert)を招聘しました。このエッケルトの指導によって、軍楽隊の音楽的水準は格段に向上しました。エッケルトは、一時解雇となるも最終的には1899(明治32)年まで軍楽隊の指導にあたったのです。
軍楽隊の演奏機会
軍楽隊が初めて艦船に乗組んだのは明治5年の明治天皇の西日本巡幸でした。これは5月から7月にかけて、軍艦7隻を従えて明治天皇が鹿児島へと巡幸したもので、お召艦となった軍艦「龍驤」に乗組んでの演奏でした。その後、1876(明治9)年3月、横須賀造船所で建造中の初の国産軍艦「清輝」進水式にあっては、明治天皇が初めて横須賀まで行幸し、軍楽隊による演奏が行われました。これ以後、軍艦の進水式には軍楽隊の演奏が通例となりました。
また、国賓に対する午餐会、晩餐会を始め宮中行事などでの奏楽も担当しました。明治十年代になると外部からの演奏依頼が増加し、それは各省庁や府県などが大半で、民間の開業式での演奏などの依頼もあり、さらに鹿鳴館時代の舞踏会の伴奏も頻繁に依頼されました。こうして軍楽隊は少しずつ、その地位を確立していったのです。
陸軍の晩餐会での演奏
明治10年西南戦争の最中に戦地ではなく、東京において、陸軍の依頼により演奏した記録があります。4月5日、陸軍は、フランスから招聘した教師(陸軍士官)らが契約満了につき帰国するので、芝離宮にて送別の晩さん会を開催することになりました。
そのころ九州では、熊本鎮台の政府軍が熊本城に籠城し、それを包囲する薩摩軍と博多から進軍する政府軍との間に激戦が繰り広げられ(田原坂・吉次峠の戦~3月31日)、続いて、薩摩軍の背後となる八代に部隊を上陸させ熊本城を目指す作戦の最中でした。しかし、帰国するフランス人教師らは、戦時中であっても礼を尽くして見送る必要があるほどに、陸軍の発展に寄与していたのでしょう。
主催する陸軍省は、晩さん会において、軍楽隊の演奏を考えたものの、人的な余裕がなかったらしく、海軍の軍楽隊に演奏を依頼しました。海軍も軍楽隊1隊を戦地に派遣していますが余力があったようです。陸軍からの依頼文書を紹介します。
当省雇教師仏国陸軍士官今般解約帰国候付芝離宮ニ於テ明後五日会餐致候条当日御省軍楽隊借用致度此段及御依頼候也 明治十年四月三日 陸軍中佐渡辺央 海軍秘史官 御中
往入855 楽隊借用の件陸軍省依頼
陸軍の軍楽隊
さて陸軍の軍楽隊はどうだったのでしょうか。兵部省海軍部による軍楽隊の創設の際、海軍に入らなかった者は陸軍に所属していました。そして陸軍が兵式をフランス式とすることを決定したことから、将来的にフランス人による軍楽の伝習を希望しつつ復習だけをするという日々を過ごしていました。そしてフランスから喇叭(ラッパ)教官として来日したダグロン(Gustave Charles Dagron)というフランス人が軍楽の心得もあったことから、このダグロンを教師として軍楽が伝習され、1873(明治6)年ごろに陸軍軍楽隊は完成したとされています。
その後の吹奏楽の発展
1883(明治16)年以降、兵役を終え、軍楽隊から退役となる者が次第に出るようになり、明治二十年代にはかなりの退役者が発生するようになります。その退役者らが自立生計をたてるために、楽隊の職業化が模索され、民間吹奏楽団が設立されていきました。最初に設立されたのは、1888(明治21)年ころ「東京市中音楽隊」と名付けられた楽団で、加川力という海軍軍楽隊を退役になった人が、渋沢栄一らの出資を受け、後輩となる退役軍楽隊員を集めて、質屋にあった質流れの楽器を買い集めて練習を始めました。これが職業音楽としての発祥とされています。なんと渋沢栄一は吹奏楽の発展にも寄与していたのですね。
規模からすると民間吹奏楽団は、人員、資金、教育等およそ軍楽隊にかなうものではありませんでした。このため吹奏楽の世界では、軍楽隊が本流、民間の職業音楽を支流派と呼んでいたようです。
おわりに
今では、小学生から社会人まで馴染みの深い吹奏楽ですが、その始まりは軍楽隊にあったことを紹介しました。軍楽隊は戦地でも演奏し、海外にも派遣された記録があります。それらの史実も今後紹介していきたいと思います。
さて徳川幕府が倒れ、明治政府の下で設立され発展していった海軍には80年近い歴史があります。軍隊といえば戦争がイメージされますが、実際に戦争をしていた期間は10年程度です。それ以外の期間、いわゆる平時の海軍は、なにをしていたのでしょうか。もちろん訓練は重要ですが、それだけではなく、国家の一機関としての役割を担っていました。そんな平時の海軍の役割や活動の歴史についても紹介していくことができたらと思っています。
参考文献:
澤鑑之丞『海軍七十年史談』(文政同志社、1942年)
堀内敬三『音楽五十年史(上)』(講談社、1977年)
楽水会『海軍軍楽隊―日本洋楽史の原典―』(国書刊行会、1984年)
大森盛太郎『日本の洋楽〔1〕』(新門出版社、1986年)
遠藤宏『明治音楽史考』(大空社、1991年)
海軍歴史保存会『日本海軍史 第六巻 部門少史(下)』(第一法規出版、1995年)
大井昌靖「1902(明治35)年の遣英艦隊の意義 -初の海軍軍楽隊による交流を中心に-」『軍事史学』第 55巻第2号(2019年9月)
※アイキャッチは国立国会図書館デジタルコレクションより