7月7日は七夕ですが、実は「そうめんの日」でもあるのです!
そうめんは、お中元の定番品でもありますが、七夕の日にそうめんを食べると「願い事がかなう」とも言われています。夏になり、暑くて食欲のわかない時のメニューと言えばそうめん、という方も多いかもしれません。
でも、なぜ七夕の日にそうめんを食べると良いのでしょうか? そもそも、七夕とそうめんの関係は? 気になったので、調べてみました。
おさらい。「七夕伝説」とは?
日本での本来の七夕は、機(はた)を織る行事「棚機(たなばた)」でした。7月7日の夜にこの行事をしていたことから、「棚機」の字に「七」と「夕」の字を当てたと言われています。
織姫と彦星が年に一度、7月7日の夜にだけ天の川を渡って逢うことができるという中国の「牽牛(けんぎゅう)・織女(しゅくじょ)」の伝説と、裁縫や書道の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」の行事が奈良時代に日本へ伝わり、日本の風習と結びついて、今日の七夕の行事になりました。
七夕伝説の織女と牽牛は、日本では織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)として知られています。
七夕が年中行事として定着したのは江戸時代
江戸時代には五節句の一つとして庶民にも広まり、七夕の行事が盛んに行われるようになりました。
もともと七夕の願い事は、機織りが上手な織姫にあやかって、短冊に歌や文字を書いて裁縫の上達を願うものでした。
江戸時代に寺子屋が増えてくると、習字や習い事の上達を願うものとして広がります。七夕の前日には、子どもたちが学問の上達を願って、手習いの道具を洗い清めて感謝する「硯(すずり)洗い」という行事が行われました。願い事を書いた短冊を笹竹につけるという風習が行われるようになったのもこの頃からです。
ちなみに、七夕の短冊は、青、赤、黄、白、黒の5色。これは「世の中のすべては木・火・土・金・水からできている」とする陰陽五行説からきているもので、魔除けの意味を持っていると言われています。
七夕名物? 竹の高さを競い合う江戸の豪商たち
旧暦の7月7日は、現在の暦では8月中旬から下旬頃となり、七夕は秋の始めの行事でした。(2021年の旧暦7月7日は、8月14日です。)
絵の手前にある白壁と瓦屋根の四つの建物は「四方蔵(しほうくら)」と呼ばれる大店の倉庫として使われた土蔵で、江戸の京橋・南伝馬町のランドマークとして有名でした。
商人町の空が、七夕飾りで賑わっていますが、豪商たちは「隣に負けてなるものか。もっと大きくて立派なものを!」と、七夕の笹竹の高さを競い合ったのだとか。軒の高さは、平屋で約2~3m、2階建てでは約6mありましたが、七夕の笹竹は、大きなもので15mもあったそうです。
絵をよく見ると、七夕の笹竹には、願い事が書かれた短冊や吹き流しのほか、そろばんや大福帳(だいふくちょう/商家で売買金額を書き入れる帳簿)といった商家ならではものや、瓢箪(ひょうたん)の酒徳利、鯛、スイカなど、様々なものが飾られていることがわかります。
七夕の季節になると、笹竹売りが竹を担いで売りに来ただけではなく、願い事を書く短冊を売る行商人も町にやってきたと言われています。
七夕とそうめんの関係は?
平安時代中期、醍醐天皇の命により編纂された『延喜式(えんぎしき)』。宮中の年中行事や儀式などが記されていますが、この中に、七夕の儀式の供え物の一つとして「索餅(さくべい)」が供えられたという記述があります。
そうめんの原型・索餅とは?
古代中国で、熱病が流行したことがありました。7月7日に皇帝の子どもが水死し、その霊魂が熱病流行の原因とされたことから、人々は索餅をお供えし、祟りを鎮めました。この故事にちなみ、病除け、魔除けとして、7月7日に索餅を食べる習慣が広まったとされています。
索餅は、米の粉と小麦粉とを練り、縄のように細長くねじった食べ物で、お菓子という説がある一方、そうめんの原形とも言われており、日本へは、奈良時代に中国から伝えられました。
江戸時代の医者・人見必大(ひとみ ひつだい)による『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』にも、「7月7日には必ずそうめんを食べる」とあります。
語源も、索餅が索麺(さくめん)、素麺(そうめん)と変化したとするのが定説となっています。
なお、中国語の「索」には「縄」「綱」の意味があり、日本語の「素」は白さを表す漢字なので、日本人には「素麺」の表記がしっくりくるかもしれませんね。
そうめんと冷や麦の違いは?
そうめんと似た麺類に「冷や麦」がありますが、そうめんと冷や麦の違いは何か、ご存じでしょうか?
そうめんと冷や麦の違いは、ずばり、麺の太さ。そうめんの方が麺が細いのです!
「日本農林規格(JAS)」では、直径1ミリ以下のものをそうめんとしています。そして、作り方も少し違います。小麦粉に水と塩を加えてよく捏(こ)ね、薄く延ばして麺状に切ったものが、幅の広い順にきしめん(ひらめん)、うどん、冷や麦となります。
そうめんは小麦粉に水と塩を加えてよく捏ねてから、油を塗りながら手で細く長く延ばす、手延べ式の麺なのです。そうめんは細い物ほど高級品とされていますが、これは見た目がきれいであることはもちろんですが、「極細品」は腕の良いそうめん職人でなければ作れない等のためです。
手延べそうめんは、冬の寒冷期に製造してから木箱に詰めて貯蔵し、梅雨期を寝かせてから出荷します。これは、そうめんが湿気を吸収し、酵素が働いてうま味がでるためですが、管理が悪いとカビがはえたり腐敗したりすることも。このため、そうめん職人たちは梅雨期は「厄」と呼ぶのだとか。
「厄」を2回越した二年物のそうめんは「ひね」と呼ばれ、最もおいしいとされています。ちなみに1年越しは「新」、三年越しを「古ひね」と呼びます。
江戸時代のそうめんは長かった!? 北斎の絵で検証してみると……
斎藤月岑(さいとう げつしん)による、近世後期の江戸および近郊の年中行事を月順に解説した『東都歳時記』には、
七夕御祝儀、諸侯帷子にて御礼今夜貴賤供物をつらねて二星に供し、詩歌をささぐ。家々冷素麺を饗す
とあります。茹でて冷水に放ったそうめんを皿に盛り、つけ汁で食べるのが「冷やしそうめん」。江戸城でも、京都の公家たちも、七夕の日は冷たいそうめんを食していたようです。そして、庶民がそうめんを食べるようになったのは、江戸時代の中期頃からと言われています。
現在、そうめんと言えば、食べやすい長さに切り揃えられたものを思い浮かべる方が多いと思いますが、江戸時代のそうめんは長いままのものが主流で、食べるのに苦労していたようです。
そうめんは皿から脾胃(ひい)へひきつづき
この川柳では、そうめんが長すぎて、皿から胃までひと続きになっていることを詠んでいます。
左ページの上に、そうめんを食べる男性二人が描かれています。二人が食べるそうめんが、長すぎるように思うのですが……。
皿に盛る冷そうめんは観世水(かんぜみず)
観世水は渦巻の形のこと。つまり、皿に冷やしそうめんが渦巻いて盛られている様子を詠んだ川柳です。
右のページには、そうめんを干す場面が描かれています。左のページは、そうめんの大食い大会の様子が描かれていますが、長いそうめんに悪戦苦闘している姿がユーモラスですね。
7月7日は「そうめんの日」!
7月7日の七夕の日の行事食として、願いを込めて食べるそうめん。全国乾麺協同組合連合会では、昭和57(1982)年、そうめんを広く知ってもらうため、7月7日の七夕の日を「そうめんの日」と定めました。
七夕の願いは、人それぞれ。そうめんを白い糸に見立て、「機織りが上達する」ように願いを込めてそうめんを食べる、「織姫と彦星」の伝説にちなんで、そうめんを赤い糸に見立て、「出会いがありますように」と願いをこめてそうめん食べるという説もあるようです。
七夕の日、短冊に願いを書いて吊るすだけではなく、おいしいそうめんを食べてみるのはいかがでしょうか?
主な参考文献
- ・『浮世絵の解剖図鑑』 牧野健太郎著 エクスナレッジ 2020年9月
- ・『食で楽しむ年中行事12か月』 髙橋司著 あいり出版 2018年2月
- ・『絵でみる江戸の食ごよみ:江戸っ子の食と暮らし』 永山久夫文・絵 廣済堂出版 2014年3月
- ・『民俗小事典 食』 新谷尚紀編 吉川弘文館 2013年8月 「素麺」の項
- ・7月7日七夕はそうめんの日と聞いたが、その由来は? この日、江戸でそうめんを食べる慣習はあったか?(東京都江戸東京博物館図書室)(国立国会図書館レファレンス協同データベース)
- ・全国乾麺協同組合連合会