同じ行いでも、その結果は天と地ほどの差。
これが「運命」というものなのか。
いきなり、何の話かというと。
戦国時代における「大名襲撃」の顛末についてである。
時は戦乱の世。敵方からすれば、戦国大名はその標的の筆頭格だ。当然、日夜関係なく命を狙われることも。しかし、成功する例はほぼ見当たらず。結果のほとんどは、その襲撃者が捕縛されるというオチなのである。
ただ、捕縛された者たち全員が同じ運命を辿るかというと、そうでもない。
例えば、最悪の結果となった代表例といえば。あの「織田信長」を狙撃したことで有名な「杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)」であろう。
鉄砲の名手だった割には、信長の体に玉が少しかすっただけで、あえなく暗殺は失敗。その3年後の元亀4(1573)年、逆に織田軍に生け捕りにされ、信長より「鋸挽(のこぎりびき、鋸引)」に処されている。ちなみに「鋸挽」とは、穴を掘り、首だけを地上に出して埋め、その首を鋸で挽き切るという残忍な処刑スタイルである。
一方で、襲撃したにもかかわらず、助命される場合もある。
統計を取ったワケではないが。襲撃理由が「仇討ち」であれば、なおさら。こちらの方が多いと感じる。コレって、まさかの「懐の深さ」を際立たせる策略なのかと、疑いの目を向けてしまうのだが。
さて、ここで。話は、冒頭の書き出しへ。
「戦国大名を狙う」という同じ行為であっても、狙った相手やタイミングによって全く異なる結末に繋がる。これを「運命」と呼ばずして、何と呼ぶべきなのか。
ただ、これだけでは終わらない。
さらに上をいく強者が。なんと、助命するだけでは飽き足らず、好待遇を与えたというのである。
今回の記事は、そんな寛大な心の持ち主が主役。
豊臣秀吉の子飼衆(こがいしゅう)の1人。熊本城主の「加藤清正(きよまさ)」である。
一体、彼は、どのような処遇を決断したのか。
襲撃に失敗した「国右衛門(くにえもん)」の予測不能な運命とは?
それでは、早速、ご紹介していこう。
豊臣家への忠義は誰にも負けない⁈
「加藤清正襲撃未遂事件」の話をする前に。
まずは、簡単に清正本人のご紹介から。どのような人物だったのか、説明しておこう。
『名将言行録』には、このような逸話が記されている。
──加藤清正は、熊本に大きな屋敷を構えた……
──それは千人もの人を収容できるような広さであったという
清正が臨終する慶長16(1611)年6月24日。
彼は、子の「忠広(ただひろ)」に1つの遺命を残したといわれている。その内容とは、この広大な屋敷に「秀頼(ひでより)」様を迎え入れるようにというもの。
「秀頼」は、かつての主君である豊臣秀吉の大切な遺児。残念ながら、この約4年後。慶長20(1615)年5月8日に、秀頼は大坂城内にて自刃(諸説あり)という幕切れ。ただ、じつは、清正の広大な屋敷に連れ帰ったのではないかとの噂も、囁かれたという。
この逸話が示す通り。
加藤清正といえば、「豊臣家に忠義が厚い」というイメージがある。もちろん、生涯を通しての彼の言動からにじみ出る結果なのだろうが。少なからず、彼の出自も関係しているようだ。
永禄5(1562)年6月。
清正は、尾張国(愛知県)にて加藤清忠(きよただ)の子として生まれる。幼名は「虎之助(とらのすけ)」。なお、清正の母は秀吉の母(大政所)と姉妹、もしくは従姉妹ともいわれているが、定かではない。とにかく、母親同士が縁者であったようだ。
この縁で、清正は秀吉に仕え、近江国(滋賀県)長浜辺りで170石を与えられたという。初陣は、天正9(1581)年の秀吉の鳥取城攻めだとか。史上最悪といわれた「飢え殺し(かつえごろし)」の戦法を目の当たりにし、強烈なインパクトを受けたに違いない。翌年の冠山城攻めでは、一番槍の手柄を立てたとか。
そんな清正の名が広く世間に知れ渡ったのが、天正11(1583)年の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」だ。織田信長亡き後、次期ポストをかけて、秀吉が織田家家老の柴田勝家と激突した戦いである。
この戦いにより、清正は「賤ケ岳の七本槍」の1人に名を連ね、3,000石を与えられる。その後も、秀吉が天下統一を果たす傍らで、数々の戦いに参戦。確実に武功を重ね、さらなる信頼を築き上げていくのである。
そんな彼の人生に転機が訪れたのは、天正15(1587)年の秀吉の九州征伐のとき。その国分けで、清正は肥後国(熊本県)の半国19万5,000石を与えられる大出世。のちの朝鮮出兵(文禄の役)では、1万人の兵を率いて、先陣を任されることに。
もちろん、朝鮮という異国の地でも、清正は大活躍。
そのあまりの無双ぶりに、一時期、朝鮮の水軍らが清正を呪詛して「肥後守(清正のこと)調伏」を行っていたとも。それほどまでに恐れられた清正だったが、彼にも弱点はある。それが、主君である「秀吉」であった。
先の朝鮮出兵では、秀吉の意向を尊重する余り、講和条件を巡って現実的な「石田三成」らと対立。讒言(ざんげん、事実を曲げて人を悪くいうこと)された清正は、秀吉の怒りを買い、途中で強制帰国、さらには蟄居(ちっきょ、居城や一定の場所での謹慎)の命を受けている。
のちに秀吉から許されるも、2度目の朝鮮出兵(慶長の役)では大苦戦。九死に一生の経験を経て帰国したところ、当の秀吉は既に死去。
秀吉の死後、天下分け目の戦いとなる「関ヶ原の戦い」では、遺恨のあった「石田三成」のいる「西軍」には属さず。清正は、徳川家康率いる「東軍」として参戦。九州での奮闘ぶりは、のちに戦功として評価されている。
この戦いを制した「東軍」の徳川家康は、江戸幕府の礎を築く。こうして、戦乱の世も終わり、時代は「徳川一強」の江戸時代に突入。なお、戦功が認められた清正も、肥後一国(54万石)が与えられ、大大名の1人となるのであった。
清正は、精力的に領国運営にあたったようだ。領内にある4つの河川の普請を行い、新田開発にも着手。熊本城を築城し、城下町を形成。こうして、現在の熊本市の基盤を作り上げたのである。
今なお、地元で加藤清正が評価されるのも頷ける。
残念ながら長生きはできなかったが、その名はしっかりと九州の地で刻まれたようだ。
▼加藤清正に関して3分で解説した記事はこちら!
あの武勇伝は二次創作!? “猛将”加藤清正のサラリーマン的素顔を3分で解説
清正を狙ったら意外な結果に……
真っ直ぐで、妥協を許さない。不器用ながらも、義に厚い。そんな加藤清正を狙うだなんて。さて、ここからは、ようやくの「清正襲撃未遂」の話である。
まず、気になるのは、襲撃者は何者なのかというコト。
失敗して捕縛されたのち、男はこんなふうに答えている。
「拙者は住所も定まっておらず、名字もなく、親も子もなく、国右衛門という者であります」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
明確な事実や背景は何一つ分からない。
ただ、彼が自ら名乗っている以上、そのまま「国右衛門(くにえもん)」として、進めていく。
国右衛門が襲撃したのは、加藤清正が肥後国(熊本県)へ入ったのちの話。つまり、天正16(1588)年以降だと推測する。
それは、清正が鷹狩りに出かけた道中でのこと。
いきなり木陰から大男が飛び出してきたというのである。どうやら、これが、国右衛門らしい。ちなみに、狙われた清正はというと、駕籠(かご)に乗り、後ろにもたれて居眠りをしていたという。前日の酒疲れで、周囲の変化に気付けなかったのだろう。
突然のコトで、清正の家臣らは何が何だか分からないまま。そんななか、国右衛門は刀を抜いて、突如、駕籠にぶすりと突き通したのである。刀は、駕籠の真ん中に命中。本来であれば、襲撃成功となるはずだった。
しかし、清正の酒疲れが、まさかのピンチを救うことに。
駕籠の中央に座していなかったお陰で、命拾いとなったのである。
あっさりと捕縛された国右衛門は、襲撃の理由を、こう語る。
「親兄弟はわかりません。ただわが一門が加藤清正のために滅ぼされたとだけいい伝えております。そこで一度清正を討って仇をはらそうと、前々より狙ってまわっておりましたが、ご威勢に圧されてむなしく月日を送ってまいりました。これを機会に一太刀なりともと思ってふみ込みましたが、ご運の強さに負けて本意をとげることができませんでした。無念千万、言語道断の思いがいたします。早く首を刎ねて下されい」
(同上より一部抜粋)
堂々とした立ち居振る舞いの国右衛門。
あまりにも肝が据わった男の様子に、清正も感心。
国右衛門を「あっぱれな奴」「肝に毛が生えている傑物」と称賛。
そして、助命のみならず、清正は、ここでまさかの提案をするのである。
──清正の家来になれ
これには、国右衛門も予想外の展開。
正直なところ、非常に困惑気味。というのも、てっきり、処刑されると思っていたからである。それが、まさかの家来へのスカウト。あまりにも有難い処遇であることは確か。しかし、これまでの一徹の思いを一瞬で変えろと言われたところで。理解はできても心は違う。「一族の敵」と思っていた男を、今後もずっと「主君」と崇められるのだろうか。
こう考えた国右衛門は、丁重に、なおかつ正直に気持ちを打ち明ける。たとえ奉公したとしても、長年積み重なったこの思いを消すことはできないだろうと。きっと、清正に対して……。
──いつの日か逆心を持つことは必至
こうして、国右衛門は重ねて死を命じてくれと、再度、清正に懇願するのである。
さて、ここまで開けっぴろげに、将来の「逆心」まで打ち上けた国右衛門をどうするか。それこそ、ここが加藤清正の正念場。戦国大名の「懐」の深さを見せられるかである。
もともと激アツな性格の清正。そんな彼のハートは、この言葉でまさに大沸騰。沸点を超えた清正は……。なんと、大声をあげ、両目を吊り上げて、襲撃者の国右衛門を叱りつけたのである。
「『お前をいまのいままで大剛の者と思っていたが、まことは卑怯千万の臆病者だ』と叱りつけた。…(中略)…『お前はつい先ほど命を捨てたのではなかったか。本当に命を捨てたのであれば、いままでの考えは残してはならぬ。その一念をすっぱりと捨てきれぬところを臆病といったのだ。わからぬか』」
(同上より一部抜粋)
この説教に、国右衛門も目からウロコ状態。
涙をこぼしつつ。我が身についてここまで考えてくれた清正を、とうとう「主君」と認めたのである。
この一件以来、国右衛門は清正のそばを離れず、一生懸命に奉公したという。次第に禄(給料のこと)も与えられ、清正に重宝されたとか。
なお、国右衛門は、最後まで異国の地で戦った。
朝鮮出兵の清正に付き従い、「蔚山 (ウルサン) の籠城戦」にて戦死したといわれている。
最後に。
加藤清正の最期もご紹介しておこう。
意外にも、清正の死は突然訪れた。徳川家康と豊臣秀頼の「二条城の会見」。この実現に尽力した清正だったが、肥後国(熊本県)への帰国途中、船の中で発病。あまりの豹変ぶりに毒殺などの噂もあったが、病死だったとか(諸説あり)。享年50。
かつての主君、豊臣秀吉もそうだったが、清正も同じ。
あくまで一度人を信じれば、それを貫き通した。
国右衛門が、清正の説得に応じたところでの話。
涙を流して「一念が晴れました」と国右衛門が改心した折、清正は喜んで駕籠から降りたという。
そして、つい先まで自分の命を狙っていた国右衛門に、清正はこう言った。
──国右衛門、刀を持て
なんと、自ら腰に差している刀を渡したというのである。
そして、二人して徒歩で、鷹狩りを行ったとか。
いくら、信じているという言葉を重ねても。
行動が伴わなければ、相手の心は動かせない。
言葉だけではない。
清正の真心が、国右衛門の思いを動かしたのであった。
参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『豊臣家臣団の系図』 菊池浩之著 株式会社KADOKAWA 2019年11月