Culture
2021.09.17

日露戦争は「大攘夷」の完結。しかし、それでも実現できなかった理想。

この記事を書いた人
サムネイル画像は日本海海戦後に凱旋した第一艦隊幕僚たち。秋山真之会編『秋山真之』(昭和8年。国立国会図書館デジタルコレクション)より

はじめに

 日露戦争の発端は何処にあるのでしょうか? 日本がロシアを仮想敵国として強く意識しはじめたのはシベリア鉄道の着工がきっかけです。そのことは【日英同盟の回】で詳しく書きました。鉄道が開通する前、すでにロシアの版図は沿海州にまで及び、さらに領域を拡大しようとする形勢にあって、欧州と極東が鉄道で結ばれれば、さらに進出してくるだろうと予測されていました。

 日本が恐れていたのは、かつてモンゴルが九州を襲ったときのように朝鮮半島が列強の基地になることでした。理想からすれば、日本は清国、朝鮮国と提携して列強の東アジア進出を食いとめることが望ましいのですが、現実には【日清戦争】に至ってしまいました。そして、戦争には勝利したものの、三国干渉によって領土は獲得できませんでした。それどころか、ロシアが遼東半島の租借権を獲得してしまい、日本は喉元に匕首(あいくち)をつきつけられてしまいました。

 その頃、イギリスが世界帝国と呼ばれていて、欧州から太平洋への航路は、圧倒的な海軍力を有したイギリスに押さえられていました。ただロシアだけが陸路で東アジアへ進出できました。イギリスにとって極めて重要なインドへも、ロシアは陸路から進出する可能性を持っていました。

 こうした世界情勢から、日本がイギリスと同盟を結べばロシアとの対立は避けられないが、それ以外の欧州列強からは安全になります。そこからイギリスと組んでロシアを共通の敵とするという「日英同盟論」が生じました。

 明治35年、日英同盟が締結されましたが、ロシアは簡単に勝てる相手ではないという認識もあり、戦争を準備しつつ妥協も模索しました。ロシアの満州での権益を認め、その対価として日本の韓国での優先権を認めさせる「満韓交換」という妥協案です。ロシアは東アジアでの軍事的緊張を免れることでイギリスを牽制できます。それが実現した場合、すでに日英同盟を結んだ日本は微妙な立場に置かれますが、日露協商と同時に成立させることも不可能なことではありませんでした。しかし、満韓交換の提案をロシアは蹴りました。そして韓国での林業開発に着手、陸軍部隊を韓国北部に送り込みました。問答無用ということです

 三国干渉以後、日本は和戦両様の準備を整えてきました。海軍においては、戦艦、巡洋艦各6隻からなる六六艦隊が建造され、陸軍は7個師団しかなかったのを13個師団に拡張しました。その軍事費は大きく国民生活を圧迫しましたが「臥薪嘗胆」のスローガンを掲げて国民は重税の負担を堪え、その苦しみはロシアへの敵愾心(てきがいしん)に向かいました。それとは裏腹に、軍上層部は開戦に消極的で、慎重に開戦時期を見計らっていたのです。

ロジスティクスの戦い

 陸軍において懸案となったのは、輸送の問題でした。日清戦争では輸送力の不備で弾薬、糧食の補給に支障を来しています。その反省から日露戦争では鉄道、船舶の輸送力の算出が入念になされました。また、体格に劣る日本兵がロシア兵と戦うには、格闘ではなく銃砲撃を重視すべきだとして、大量の物資を必要とする砲兵の充実と、その弾薬輸送に意を注ぎました。これらは地味な作業ながら対露作戦計画の指導者を二人まで過労死に追いやった激務でした。まず陸軍随一の知能と評された川上操六が倒れました。陸軍にとっては衝撃的なことです。そして、あとを受け継いだ田村怡与造(いよぞう)は今信玄の異名を持つ秀才でしたが、この人も激務の果てに急死しました。そのあとを継いだのは閣僚経験のある児玉源太郎で、前任者よりも大物でしたが「異例の降格人事」というわけでもないというのが近年の定説です。ともあれ、その時点で計画が具体化していたのは、朝鮮半島を占領確保し、物資を集積することまででした。

 源太郎は早期講和をテーマに研究途上の作戦計画を具体化し、遼陽を決戦の場と定めました。鴨緑江(おうりょくこう)から山脈を越える第一軍、金州から鉄道に沿った平地を進む第二軍が二方向から分かれて進み、遼陽で合同してロシア軍と決戦に臨む「分進合撃」という素案を纏め上げ、この決戦でロシア軍に決定的な打撃を加えて講和に持ち込むという計画です。また、状況が許せば韓国北部から沿海州を攻めるウスリー作戦も実施することにしました。そして旅順については海軍がロシア艦隊に対処し、陸軍は旅順要塞を包囲監視するにとどめることとしていました。旅順攻略作戦は研究の段階にとどまり、具体化されなかったのです。

 かくして作戦計画が完成を見た頃、日本はタイムリミットを迎えました。ロシアはシベリア鉄道に接続する東清鉄道をウラジオストックまで開通させ、南満州支線を延伸させて欧州から奉天、遼陽を経て旅順までが鉄道で繋がったのです。

 船舶が使える日本軍は1ヶ月ごとに約4個師団を満州に輸送することが可能だったのに対し、大陸を単線の鉄道で横断するロシア軍は1ヶ月あたり2〜3個師団の輸送能力しかありません。とはいえ、日本に正規編制の師団は13個しかなく、ロシア軍の在満兵力が少ないうちに、決戦を挑むしかありません。それでも勝算は5割に満たないと予測されましたが、待てば待つほど兵力比は不利になります。国内では一部に非戦論が唱えられましたが、強硬論が圧倒的多数を占め、日本は開戦を決断します。

速戦即決ならず

 明治天皇が発した開戦の詔勅には「若シ満洲ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎 韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス」という日本が抱いていた危機感が率直に語られています。

 明治37年2月9日未明、ロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦隊の奇襲攻撃によって戦端は開かれました。同日、日本陸軍の第一軍先遣部隊が仁川に上陸を開始しています。第一軍主力が韓国に上陸するのは旅順をめぐる海戦の推移を見ながら、海上輸送路の安全を確保した3月のことでした。そして万全の準備を整えて鴨緑江を渡河するのは4月30日のことでした。ここではじめて日露両軍の本格的な陸戦が生起したのです。

 第一軍司令官の黒木為楨(ためもと)は、戊辰戦争以来歴戦の猛将です。渡河作戦は成功し、遼東半島の背骨にあたる山脈に向けて敗走するロシア軍を急追していきました。

 続いて奥保鞏(おくやすかた)を司令官とする第二軍が塩大墺に上陸し、旅順への入口にあたる南山を攻略し、大連を占領します。その際に生じた弾薬消費量と犠牲者の多さに大本営は驚愕しました。すでに野戦電話や無線電信など情報の即時伝達が可能になってはいました、それでも日本から戦地の実情を知ることは困難なため、各軍を統括する満州軍総司令部を設け、首脳陣を現地に派遣することにしました。

 この日露戦争では、両軍とも機関銃を使用し、また、小銃の性能が向上したため塹壕と鉄条網で構築した簡単な陣地の突破も困難になっていました。そのため敵軍の側面や背後を襲って有利に戦うには、突破より陣地線の末端に回り込むことが望ましかったのです。ゆえに両軍は陣地線を左右に延ばす延翼競争を日常的に繰り広げています。これは10年後の第一次世界大戦に見られる固定戦の特徴で、日露戦争は運動戦から固定戦への過渡期にあたる戦いでした。もっともそれを認識するのは戦後のことで、当時は陣地攻撃の困難さに驚くばかりでした。

 6月に至り、旅順包囲を担当する第三軍が大連に上陸し、第二軍は鉄道に沿って北上を開始、得利寺で旅順の救援に南下してきたロシア軍と遭遇し、これを撃破しました。一見順調とも思える推移ながら、大きな誤算が生じています。旅順艦隊を出撃不能にさせるための旅順口閉塞作戦が失敗に終わり、海軍は陸軍に旅順の攻略を依頼したのです。そのため2個師団で包囲する予定だった第三軍の兵力を増強させねばならず、その分だけ遼陽での決戦兵力は減少しました。日本軍は当初の見積もりの半数程度の戦力で決戦に臨むことになったのです。

 黒木第一軍は山岳地帯を予定どおりに進撃し、奥第二軍も順調に遼陽前面に達しましたが、兵力比は日本軍約13万に対し、ロシア軍は約16万におよびます。第一軍、第二軍の中間に野津道貫(のづみちつら)の第四軍を配置した日本軍は、遼陽を半ば包囲する形勢で戦いを進め、巧みな運動によってロシア軍の左翼から背面に回り込みました。ロシア軍は戦力を温存する方針だったため、あっさりと遼陽を放棄して撤退してしまいます。

 兵力に劣る日本軍が勝利を得たのは見事といえましょうが、事前に計画された速戦即決の意図は打ち砕かれ、戦争の長期化を余儀なくされたのでした。

203高地の死闘

 戦争準備期間において旅順攻略は研究されてはいましたが、具体的な作戦計画として検討されるまでに至っていません。約4万の兵を擁する旅順要塞の包囲は必要だが、攻略は必要なし、という方針があったためです。ところが海軍の旅順口閉塞作戦が思わしい結果を得ず、ロシア旅順艦隊は港内に健在でした。輸送を船舶に頼る陸軍としても大問題です。もともと旅順は2個師団程度で対処する方針でしたが、予備役中将で留守師団長であった乃木希典(のぎまれすけ)を司令官とする第三軍を発足させました。

 日清戦争では一日で陥落させた旅順要塞は、その後ロシア軍によるセメント20万樽を使用した近代化工事によって周囲の山岳が形を変えたほどで、まったく別物に変わっていました。そしてロシア軍は満を持して日本軍を待ちかまえており、第一回総攻撃は死傷16,000の損害を被りながら失敗しました。

 第二回総攻撃は塹壕を掘り進めて接近する正攻法を用い、また、火力の増強が必要として、海岸守備に用いた28サンチ砲を旅順に送っています。しかし、第二回総攻撃も無惨な失敗に終わり、旅順艦隊が港内に残ったまま、いよいよバルチック艦隊が太平洋に向けて出航しました。艦艇を修理したい海軍は、陸軍に旅順早期攻略の必要を強く訴えました。

 海軍の要望は旅順艦隊の無力化であり、要塞攻略はその手段です。そこで港内を見下ろせる位置にあり要塞化工事がなされていない203高地を攻略し、観測所を設けて艦隊を砲撃することにしました。

 2度にわたる攻撃失敗は、戦費調達を外債に頼っていた日本にとって悪印象となり、旅順攻略は国家的な大問題になっていました。第三回総攻撃に失敗は許されません。そして攻撃重点を203高地に絞り、山頂を占領すると直ちに観測所を設け、港内に潜んでいた旅順艦隊を砲撃によって潰滅させました。

 実は、このとき旅順艦隊は水兵を降ろし、備砲も陸揚げして要塞守備に回していました。すでに旅順艦隊は無力化していたとわけですが、その後は要塞守備兵の士気は目に見えて衰え、降伏に至りました。

厳冬期の戦い

 日本軍の補給は旅順攻略を担当した乃木第三軍に重点が置かれ、弾薬が乏しかった満州軍は停滞を余儀なくされていました。大本営では参謀総長の山県有朋が遼陽で進軍を停止すべきではないかと慎重論を唱えましたが、旅順陥落で日本軍の士気は大いに上がり、いま一度ロシア軍に決戦を挑もうという意見が大勢を占めました。この時期、開戦から約一年が過ぎ、日本の戦費調達は困難になってきています。戦争が長期化すれば財政破綻は自明です。また、ロシア軍の増援がシベリア鉄道によって輸送されることも長期化を許さない事情でした。シベリア鉄道は超長距離の単線鉄道ゆえに、さほど輸送力は大きくありません。裏返せば、日本軍はほぼ全力を展開し終えているのに対し、ロシア軍は時間の経過によって次第に兵力を増大させ、待てば待つほど兵力比は不利になるばかりです。この局面を打開するには、早期に決戦を挑むほかありません。そこへ黒溝台(こっこうだい)会戦が生起し、日本軍は対応をしくじって大苦戦に陥りました。辛くも危機は脱したものの作戦面で不覚を取ったことは衝撃でした。明治38年2月の段階で、日本軍は約25万、ロシア軍は約37万を満州に展開させていました。兵力で劣る日本軍にとって、指揮統帥でロシア軍の上を行かねば劣勢を覆せません。ただ、有利な材料もありました。旅順攻略を果たした第三軍が転用可能になったことでした。

 大本営は第三軍を解散させる方針を示しました。その兵力を他方面に転用可能な政略予備とし、ロシア軍を牽制する意図からです。これに対し満州軍は猛反発しました。第二戦線を構築することは早期決着の大方針にそぐわないためです。結局は第11師団が引き抜かれたのみで、残余は満州軍の新たな手駒となりました。こうした混乱は、ロシア軍から見れば日本軍の決戦方針が不明瞭なものとなり、結果的には日本に利をもたらしています。

 ロシア軍は、乃木第三軍の兵力を10万と見積もっていました。難攻不落の旅順を攻略したからには、大兵力を有しているに違いないと考えたからでしょう。実際には要塞攻撃で出血を強いられたうえ1個師団を韓国駐剳軍に引き抜かれており、4万にも満たなかったのです。クロパトキンは乃木第三軍が何処に投入されるかの情報を得られず、あるいは沿海州から再上陸して長躯ハルピンを攻撃するのではないかといった悲観的な予測も立てていました。

 日本海軍はバルチック艦隊との決戦に備えて準備中で、上陸作戦の支援など眼中にありません。沿岸部には多数の機雷があり、ロシアの海軍力が空白となっていても海軍の支援無しに上陸作戦を実施することは不可能です。ゆえにクロパトキンの予測は杞憂でした。

 確固たる決戦方針を定めた日本軍に対し、ロシア軍の方針は揺らいでいました。この年、満州平野は春の訪れが早まる傾向を見せており、ロシア軍としても河川が凍結している時期に攻勢を仕掛けたい場面でした。解氷期以前なら渡河作戦に架橋資材は不要で、進退の自由が得られるからです。ロシア軍首脳部は慎重居士のクロパトキンを説得し、攻勢を承認させました。

 両軍ともに攻勢を企図した奉天会戦は、まず日本軍右翼から攻撃が開始され、ロシア軍の機先を制しました。この攻撃は、第三軍から引き抜かれた第11師団を含む鴨緑江軍によるものでした。鴨緑江軍は満州軍ではなく韓国駐剳軍の所属でしたが、作戦地域が隣り合う満州軍と「協議」するという名目で担当地域から北進し、実際には満州軍の指揮を受けて作戦に参加していたのです。これは重大な越権行為ながら、大本営は黙認しました。

 この攻撃にクロパトキンは驚愕しました。第11師団が旅順攻略に参加していたという情報から、鴨緑江軍を「乃木軍10万」と誤認したためです。そして、この方面に予備兵力を投入していきます。そこへ左翼から本物の乃木第三軍が行動を開始し、ロシア軍の退路を遮断しようとしました。揺さぶりをかけられたロシア軍は攻勢を断念し、クロパトキンは背後に迫る乃木軍に対して猛烈な反撃を開始、そのため奉天の包囲は不成功に終わり、ロシア軍は撤退しています。両軍はともに大きな損害を被ったため、決定的な戦果をあげて講和の契機とするという日本軍の作戦目的は遂げられませんでした。奉天は日本軍の有に帰したけれども、けして大勝利とは評価できません。

 この後、満州軍は前進を控えましたが、大本営では第二戦線を構築して新たな局面を開こうとしました。結局のところ、海軍が日本海海戦によって講和の契機となる決定的戦果を獲得し、和平へ向かいます。その後も大本営はウスリー方面への関心を示していますが、海軍は猛反対し、樺太占領と韓国北部の掃討作戦が実施されるにとどまっています。

旅順口をめぐる海戦

 日露戦争における日本海軍の役割は、制海権の確保にあります。ロシア軍の増援が単線の鉄道に依拠したものであるのに対し、日本軍は船舶を用います。ロシア軍としては対馬海峡で日本軍の輸送、補給を遮断できるとは考えていませんでした。そのかわり旅順艦隊が健在であれば日本艦隊を牽制し、日本軍の上陸地点を朝鮮半島南部に限定させることが出来ると考えていました。増援が投入される地点が限定されれば、その対処は容易です。日本軍としては、旅順艦隊を無力化することで制海権を確保し、上陸地点を自由に選択できるようにしようと考えていました。

 開戦時の両軍艦隊戦力は、数のうえで拮抗していました。日本海軍の主力は新造された戦艦、巡洋艦各6隻であり、兵員の練度は高く、また下瀬火薬の高性能もあって、質の面では優位にありました。こうした情勢から、日本は旅順艦隊との決戦を挑み潰滅させるか、もしくは旅順口を閉塞して出撃不能にしようとしたのです。

 ロシア軍は旅順に戦艦6隻を置いたほか、ウラジオストックに巡洋艦を配置し、日本艦隊の動きを牽制していました。このほかバルト海に強大な艦隊を有しており、必要が生じれば極東に回航する方針でした。日本と異なって、牽制のための艦隊戦力であるため、決戦に応じるよりは戦力の温存が重要な問題です。よしんば旅順港内に追い詰められたとしても、バルチック艦隊の回航によって圧倒的な大艦隊を結集させ、そのうえで決戦に応じようと考えていたのです。

 明治37年2月、日露戦争は日本海軍の奇襲から始まりました。主力艦隊は旅順に向かい、一部を仁川およびウラジオストックに派遣しています。仁川では陸軍の先遣部隊を上陸させたのち、港内に停泊中の巡洋艦、砲艦各1隻を港外で待ち受けて砲撃、これを自沈に追い込んだのが緒戦でした。ウラジオに向かった艦隊は日本海で輸送船を攻撃中のウラジオ艦隊を捕捉しましたが、逃走を許してしまいました。旅順では駆逐艦隊による奇襲で戦端を開き、続いて主力艦同士の決戦を目指しましたが、旅順艦隊は30分の砲戦だけで港内へ遁走、めぼしい戦果はありませんでした。

 もとよりロシアには艦隊決戦に応じる必然性がなく、むしろ避戦の方針は戦略にかなうものでした。そのため日本軍は旅順の港口を閉塞し、旅順艦隊を出撃不能にすることを考えました。これは港口で船を自沈させ障害物とすることで通行を阻むという作戦です。この作戦は陸上からの砲撃により予定地点に達しないまま閉塞船を撃沈され、二度までが失敗に終わりました。名高い広瀬武雄の軍国美談が生じたのは第二回閉塞作戦です。

 この間、旅順艦隊では司令官が交替し、新任のマカロフは世界的に知られた戦略家で、攻撃的な性格の持ち主でした。4月12日、マカロフは日本艦隊の挑発に応じて港外に出撃、沖合に主力艦隊が待機していることを知って港内に戻ろうとしました。その途中、戦艦ペトロパウロフスクが機雷に触れて沈没し、乗っていたマカロフも運命をともにしました。それ以来、旅順艦隊は極めて消極的になり、日本軍は三回目の閉塞作戦を試みましたが充分な成果は得られませんでした。

 結局のところ閉塞作戦は失敗に終わり、やむなく日本軍は艦隊を港口に貼り付けて旅順艦隊を封じ込めていましたが、2隻の戦艦が機雷に触れて失われました。もし封鎖を解けば、旅順艦隊が行動の自由を得たうえ、孤立して補給が途絶えた旅順要塞に生鮮食品などが補給される可能性もありました。多少の危険を冒しても、儲かるとなれば商売に行く海賊たちがいたからです。しかし、艦隊には修理と休養が必要であり、封鎖を維持するのも困難でした。

 陸上では乃木第三軍が旅順要塞の前哨を撃破し、包囲線を完成させました。旅順が孤立したことを知ったロシア皇帝ニコライ二世は、旅順艦隊司令官ウィトゲフトに艦隊をウラジオストックへ回航するよう勅令を下しました。8月10日、出航した旅順艦隊は待ち受ける日本艦隊と砲戦を開始しました。この戦いは日本軍が終始優勢を保ちました。ロシア側はウラジオへの逃走を図りましたが、砲撃を受けて隊列は支離滅裂となり、各艦は旅順に逃げ込みました。旅順艦隊は大損害を被りながら5隻の戦艦が再び港内に潜伏することとなり、日本海軍にとって事態は好転しませんでした。

 一方で、ウラジオ艦隊に対処する上村艦隊は、相手を捕捉する機会を得られずにいました。旅順艦隊とは異なり、ウラジオ艦隊は広範囲に出没していたためでした。輸送船を撃沈されるなどウラジオ艦隊の跳梁を許してしまった上村艦隊は大いに不評を買いましたが、8月14日、ついにウラジオ艦隊を捕捉しました。上村艦隊はウラジオ艦隊が旅順艦隊のウラジオ回航を支援するため南下すると予測、それが的中したのです。上村艦隊はウラジオ艦隊3隻のうち1隻を撃沈し、残る2隻にも廃艦同然になるほどの損害を与え、ウラジオ艦隊無力化という目的を果たしています。

日本海海戦

 明治37年10月15日、ロシア海軍はバルチック艦隊を極東に向けて出航させました。ほぼ地球を半周する航海は、かなりの困難を伴いました。アフリカからインド洋、太平洋と進むには、何度かの寄港と石炭の補給が必要でしたが、これらの海上交易路を押さえていたイギリスは日本と同盟を結んだ間柄で、便宜を求めることが出来ません。そのため長い航海は苦難の旅路となったのです。

 道なかばにして状況は大きく変わりました。38年12月に旅順艦隊は陸上からの砲撃を受けて潰滅、翌年1月には旅順要塞が日本軍に降伏しました。バルチック艦隊は旅順艦隊と合流して日本艦隊と決戦する方針だったため、潰滅した旅順艦隊に代わる増援が派遣され、その戦力は新型5隻を含む戦艦8八隻をはじめ、50隻に及ぶ大艦隊であり、このうち38隻が戦闘艦艇でした。(のこりは補給艦など)

 ロシアの首都ペテルブルグでは血の日曜日事件が発生し、停戦を求める民衆が銃弾に倒れました。こうした国内の不穏な空気を一掃するためにも、バルチック艦隊には輝かしい勝利を獲得することが期待されていました。

 日本もまた完璧な勝利を期していました。戦争継続は困難であり、講和の契機を生むために決定的戦果が求められたのです。バルチック艦隊がリバウ港を出た10月には、まだ旅順艦隊は港内に潜んでおり、要塞攻略も成功の目処がたっていませんでした。ようやく12月に旅順艦隊が潰滅し、行動の自由を得た日本艦隊は、バルチック艦隊との決戦に備えて修理、休養、訓練など準備を整えていきました。

 明治38年5月、バルチック艦隊はカムラン湾に達し、14日に38隻が日本海を目指して出航しました。すでに旅順は日本軍の占領するところとなり、ウラジオストック以外に目的地はあり得ません。日本軍にとって問題となったのは、何処で待ち受けるかでした。

 ロシア軍の目的地はウラジオストック。そこで戦備を整えてから決戦に及ぼうというのでした。対する日本軍は、バルチック艦隊がウラジオストックに向かう途中を待ち受けて決戦する方針でした。しかし、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のいずれを通過するかという予想が困難であり、そのいずれにも対処できるよう、中間位置の朝鮮海峡の鎮海湾に待機するという妥協策を採りました。バルチック艦隊は19日にバシー海峡を通過したのち25日まで消息不明となりました。聯合艦隊はバルチック艦隊が太平洋に回ったものと考え、北海道への移動を検討しましたが、大本営は慎重を期して待機を指示しています。25日、バルチック艦隊から分離した輸送船団が上海に入港したため、航続距離の関係からバルチック艦隊が日本海に直航することが判明しました。そして27日、通報艦の信濃丸は「敵艦見ユ」との第一報を発信し、聯合艦隊は直ちに出撃、対馬海峡でバルチック艦隊を迎えました。この日、空には霞みがかかり視界は悪く、波は荒れていました。

 対馬海峡の哨戒にあたっていた片岡七郎の第三艦隊は、主力に先んじてバルチック艦隊に接近し、併走しながら状況を詳細に伝えました。

 両艦隊の戦力を比較すると、主力艦の数でロシア軍は圧倒的でしたが、補助艦艇は極端に少なくバランスが悪いです。日本軍は戦艦を4隻しか持たなかったけれど、バランスよく補助艦艇を揃えており、運用次第で互角に戦うことが出来る内容でした。

 聯合艦隊作戦参謀の秋山真之は、七段構えと称する戦法を立案していました。小艦艇による奇襲と主力艦隊による砲戦を繰り返すもので、バルチック艦隊を一隻も漏らさず捕捉撃滅することを目指していました。

 あいにく海象条件が悪く、一段目の水雷艇による奇襲は中止され、二段目の主力決戦がまず行なわれました。南下してきた聯合艦隊と、北上するバルチック艦隊は、互いにすれ違う方向で進んでいたが、聯合艦隊は接近した後に大きく舵を切ってバルチック艦隊を斜めに圧迫しながら並走しました。これは、すれ違って戦う反航戦では短時間しか攻撃できないため、同方向に進みながら長時間に及んで攻撃できる同航戦を選択したことによります。この運動中にバルチック艦隊は砲撃を開始、聯合艦隊は回頭を終えるまで一方的に攻撃を受けていました。同航戦の陣形が完成すると聯合艦隊も砲門を開き、精度の高い射撃を見舞いました。

 この緒戦においてバルチック艦隊の損害は大きく、聯合艦隊の勝利はほぼ決まったと評されますが、日本が期待したのは一隻も残さず撃滅するという完全勝利でした。その後の戦闘により、聯合艦隊はバルチック艦隊を完膚無きまでに叩き、世界戦史に記録されるべき歴史的勝利を獲得しました。バルチック艦隊のうちウラジオストックに入港したのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻であり、日本軍の海上輸送にとって、さほど脅威とはなりません。この大戦果は、ポーツマス講和会議への道を開きました。

ポーツマス

 明治38年6月、アメリカ大統領のルーズベルトは日本に講和を勧告しました。この勧告は、かねてアメリカで戦時国債の募集にあたっていた金子堅太郎の工作によるもので、アメリカの世論は日本に同情的でした。

 当時、アメリカはまだ大国とみなされておらず、外交の基本は孤立主義で、欧州列強と関わることを避けていました。キューバの権益を巡ってスペインと戦っていますが、英、独、仏などの大国との間にしがらみはなく、また、南北戦争に際しロシアが北部を支持した経緯があり、それ以来ロシアとの関係も良好で、講和会談の仲介役としては適任といえました。

 ロシアには大国としての面目があり、小国日本に和を請うことを嫌いましたが、ロシアは戦費を重税で賄ったため、国内情勢は不穏の度を増していました。また、明石元二郎による秘密工作の影響もあって革命勢力が活発化し、戦争継続は困難でした。やむなくロシアは交渉の席に臨みます。

 日本は全権代表として外相の小村寿太郎を送り、ロシアは前蔵相のウィッテを送りました。小村は新興国日本と世界帝国イギリスとの対等な同盟関係を結ばせた功績を有する優秀な外交官でした。ウィッテはロシア宮廷が日本との戦争によって国民の不満をそらそうとしたことに反対して左遷された経緯を持ち、現実的な政治家でした。

 日本側の要求項目は、樺太割譲と賠償金15億円など12ヶ条でした。ロシア側には敗戦国としての認識が無く、日露戦争はロシア領外での紛争であり、国土を蹂躙されたわけではないと主張しました。樺太はロシア領で、終戦間際に日本が占領していたが、樺太千島交換条約によりロシア領となってから30年でしかなく、自国の領土を占領されたという意識はなかったのです。ゆえに日露戦争の結末を敗北とは認めなかったのです。

 日本には、賠償金を是非とも獲得したい事情がありました。日露戦争のために組まれた臨時軍事費は約16億円にのぼり、国家予算の3年分に相当しました。そのほとんどが国債発行によって賄われており、戦後の財政難は必至となっていたためです。小村は賠償金獲得が困難なことも承知しており、出国前から講和成立後の国民世論が不満で爆発することも予見していました。国民は10年に及んだ軍備拡張のために「臥薪嘗胆」を唱えながら重税に耐えました。そのうえ戦争に勝利しながら、なお税負担を増さねばならないとなれば、失望を怒りにかえて反政府活動に立ち上がるのは当然の帰結でした。ゆえに、領土よりも賠償金に交渉の重点が置かれたのでした。とれないにしても「言うだけは言った」ことを国民に示す必要があったのです。

 ロシアは議会を持たない皇帝専制の国家でした。ニコライ2世は領土割譲にも賠償金支払いにも応じないとし、韓国における日本の優先権、満州における鉄道権益の一部譲渡、旅順など租借権の移譲など、ロシアの体面を保つ範囲での妥協を命じていました。

 この交渉の行方を左右するのはアメリカの世論でした。議会制民主主義のアメリカでは大統領も世論によって立場をかえます。その大統領が交渉の仲介者であるため、アメリカ国民の反応は重大な影響を持ったのです。

 小村は講和会議の非公開を求め、ウィッテも了承しましたが、交渉の内容は新聞に掲載されました。それはウィッテが新聞記者の求めに応じて曝露していたからです。賠償金と領土の要求という日本側の条件が不当であるという印象操作を狙ってのことでした。日本側は開戦からずっとアメリカで活動していた金子が条件の妥当性を訴え、結果として日本の主張が米国の世論に支持されることとなりました。

 小村は樺太の南半分と賠償金とを要求しました。ウィッテは賠償金にかえて樺太全島の割譲を受け入れるとして日本側に揺さぶりをかけました。これに対し小村は賠償金の獲得に拘り、ウィッテは「金を得るために戦争をしたのか」と非難しました。このことでアメリカの世論はロシア寄りに傾いてしまいます。

 交渉は暗礁に乗り上げ、日本側は領土割譲も賠償金も求めず、講和を優先させることを決めました。その頃、ロシアの宮廷ではアメリカ大使マイヤーがニコライ2世を説得し、樺太南部の割譲を認めさせました。しかし、その情報は何故か日本側には伝えられませんでした。

 賠償金も領土割譲もなく講和する覚悟を決めた小村に、イギリス外交筋からの情報として、ロシア側に樺太南部割譲の意思ありと伝えられました。これは平成15年にイギリス公文書館で発見された極秘電報により明らかになったことです。あるいはルーズベルトには樺太か満州に対する野心があったのかと勘ぐりたくなることです。そして情報をリークさせたのは講和を望んだウィッテかもしれず、想像は尽きません。

 かくして交渉は賠償金なし、樺太南部割譲という条件でまとまりました。その後、日本では小村が予見したように国民の不満が爆発し、日比谷焼き討ち事件が発生しました。ロシアではウィッテが帝政初の首相となって第一次革命の収拾に奔走しています。

大攘夷を実現して、なにが起きなかったか

 嘉永6年、浦賀に来航した四隻の黒船は、日本にとって怪物そのものでした。その怪物の正体は植民地主義です。以来およそ半世紀、日本は怪物と戦うだけの力を蓄え、ついに怪物を撃退しました。日露戦争は、幕末に産まれた攘夷運動の総仕上げです。並み居る列強から自主独立を守るため、文化風習の連続性を断ち切ってまで近代化に努め、経済を発展させ、軍備を拡張しました。そして辿り着いたのがポーツマスでした。

 しかし、国民は納得しません。日清戦争から日露戦争までの10年、軍備拡張のために臥薪嘗胆を唱えながら重い税負担に耐えたのに、戦死者遺族や戦傷者に対する恩給等の措置は不充分だったりして、戦争に勝利して得た代償=安全保障の重みを実感できなかったのです。

 大阪朝日新聞は9月1日に「天皇陛下に和議の破棄を命じ賜らんことを請ひ奉る」という激越な論調で国民感情を煽ったほか、他紙でも同様の記事多数が掲載されました。

 9月5日、日比谷公園に集まった民衆が暴徒と化して交番を襲い、なお猛威をふるおうとしました。6日には東京に戒厳令が布かれ、2000人以上が検挙されており、戦勝気分が一度に吹き飛ぶ事件でした。それまでの愛国ブームは急激に冷め、復員兵士に対する視線も冷淡になりました。そして軍国美談を喜んだ国民が、一気に熱を下げたことは、その後の大正デモクラシー隆盛の一因となったとも考えられます。

 目を海外に転じれば、日露戦争が一応は日本の勝利に終わったことが、意外な出来事と捉えられています。有色人種の国家が植民地主義を掲げる白人の国家を撃退したのは直近の例として1889年から1896年まで続いたエチオピア戦争以来のことでしたが、イタリアよりは何倍も強いロシアを小国日本が撃退したことは植民地支配を受ける諸民族を勇気づけました。

 講和を斡旋したアメリカは、フィリピンを獲得して以来、東アジアに興味を抱き始めており、日本が満州における権益を独占することを警戒していました。そして、日本が軍事大国になることも予想していたのです。

 ロシアでは、第一次革命が発生し、その収拾にあたったのは帝政下で初の首相となったウィッテでした。かつてポーツマスでロシア全権として交渉の席についた有能な政治家でしたが、困難な政局を乗り切れず辞任に追い込まれています。ロシアの革命運動を裏面から支えたのは日本の秘密工作員、明石元二郎でした。やがてロシアは共産主義の国家を築いたので、「日本は新たな怪物を産んだ」と評されることもありますが、もう一つ新たな怪物が産まれていることも無視できません。

 明治43年に至り、日本は大韓帝国を併合しました。表向きには、植民地としたのではなく日本本土と同等の”併合”でしたが、その統治は植民地支配とみなすのが一般的です。つまり日本は植民地主義という怪物と戦った結果、みずからも怪物になってしまったのです。

 明治44年、日米新通商航海条約によって、日本の関税自主権は完全に回復しました。幕末に、いずれ国力を蓄えて「大攘夷」を実現させると誓った人々が、半世紀を隔てたのちに元老と呼ばれるようになってから、ついに条約改正を完遂させました。その翌年、明治時代は終わりました。

 明治天皇は零歳児のときにペリー来航を迎え、不平等条約の完全解消を果たした翌年、崩御あそばされたのです。まさしく人の一生分の時間をかけて、ようやく大攘夷が実を結んだのでした。

 しかし、大正という新時代を迎えた日本人が幸福を実感したでしょうか? 日露戦争で獲得した領土のインフラ整備に投資したり、新領土を護るために軍備を拡張しなければならず、戦勝国になっても重税は続きました。国民が幸福を実感することは、ついに「起きなかった」のです。

 
 
 
 
 この記事では旧来の通説を踏襲せずに書いた箇所もあります。
 近年、長南政義氏の一連の著作によって、日露戦争に関わる定説は塗り替えられつつあります。
 より深く日露戦争を知りたい方には、以下の書籍をお読みになるよう、お薦めします。

推薦図書:
『児玉源太郎』 作品社 (2019/6/20)
『日露戦争第三軍関係史料集 大庭二郎日記・井上幾太郎日記で見る旅順・奉天戦』国書刊行会 (2014/6/26)

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。