時は幕末、文久2年(1862)。横浜の花街・港崎(みよざき)遊郭の片隅で、一人の女郎が自害した。
名は亀遊。横浜一の遊女屋・岩亀楼の花魁だったが、米国人男性に見初められて身請け話が決まったのを嫌い、命を絶ったのだ。「露をだにいとふ倭の女郎花 ふるあめりかに袖はぬらさじ」なる辞世の句を残して……。
歌の大意は「誇り高き日本女性として、アメリカ人などにこの身を任したりしません」というところ。文久の頃は攘夷論、つまり外国人を排斥せよとの主張を持つ人々がもっとも血気盛んだった時代で、欧米人との摩擦はピークを迎えていた。
いつの時代も「操を守る遊女」は大衆受けするテーマだが、その上相手が憎き西洋人だというので、亀遊はあっぱれ心意気の“攘夷女郎”と持ち上げられ、世間は烈女として大いに讃えた……。
というような話を書き残したのは、江戸末期から明治時代に活躍した戯作者・染崎延房だ。
延房は著書『近世紀聞』で、亀遊(著書内では喜遊と表記)の死を臨場感あふれるお涙頂戴の記事に仕立てた。
だが、問題は発刊時期である。『近世紀聞』が上梓されたのは明治7年(1874)、つまり事件発生から12年も経った後なのだ。しかも、「記事のソースは噂話」の頼りなさ。
ところが、この本が元となり、明治政府が推し進める急激な欧化主義に反感を持つ人々に“江戸時代の攘夷女郎”はジャンヌ・ダルク的存在として広く知られるようになった。
烈女「攘夷女郎」が演劇のヒロインになるまで
そして、亀遊の死からおよそ百年後、今度はとある昭和の大作家が再び彼女にスポットライトを当てた。
有吉佐和子、その人である。
有吉といえば、『複合汚染』や『恍惚の人』など昭和に顕在化した社会問題に挑む一方、「華岡青洲の妻」のように歴史上の美談を現代的な視点で再構築する優れた作品を残している。よって、彼女が亀遊伝説に注目したのは当然の成り行きだったのかもしれない。
まず上梓されたのは小説「亀遊の死」、次いでそれを戯曲化した「ふるあめりかに袖はぬらさじ」が発表された。
とはいえ、主人公は亀遊ではない。お園なる芸者だ。
有吉は、亀遊伝説はお園がふんだんに脚色を施した「創作実話」だったとする大胆なストーリを組み上げたのである。もちろん、亀遊だって攘夷女郎とは描かれていない。むしろ、恋の不成就を悲観して自害した哀れな女、と設定されている。
劇場での初演は1972年。大女優・杉村春子がお園を演じ、当たり役となった。
そして、1988年には坂東玉三郎が歌舞伎として上演し、これまた当たり役に。近年になっても有名女優が同作を演じるなど、発表後50年近く経つ今も断続的に上演されている。
それにしても、なぜ本作はここまで愛される戯曲になったのだろうか。
理由のひとつとして、一人の女性の悲劇が時流によって象徴的な死に祭り上げられてしまうという、いつの時代にも起こりうる普遍的なドラマが人々の心に響くからだと思われる。
だが、亀遊の真実はどこにあるのだろう。
そもそも、この悲劇は本当にあったことなのか。なにせ、ほぼ唯一の典拠である『近世紀聞』にさえ確かな証拠は示されていない。結局、真偽は不明のままなのだ。
そこで、真相を探るべく、横浜開港当時の事情に詳しい方を訪ねることにした。
実在? 不在? 本当のところはわからないけれど……
今回、お話を聞かせてくれたのは横浜開港資料館の調査研究員・吉崎雅規さんだ。専門は日本近世史で、特に幕末の外交史について研究されている。「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の時代にドンピシャで重なるわけだが……。
吉崎「残念ながら、亀遊の事件が本当にあったかどうか、それを知る史料は私は見たことがありません。お園はもとより架空でしょうが、亀遊についてもはっきりしたことは言えません。横浜の遊郭の資料はあまり残っていないのです」
あら残念。ただし、亀遊が在籍したという岩亀楼は間違いなく実在したそうだ。
吉崎「今の横浜公園の敷地辺りにあったようです。横浜スタジアムから大さん橋通りを挟んで少し出た地域までが、横浜開港当時に整備された遊里でした」
横浜開港は1859年。つまり、亀遊が死んだとされる年のわずか3年前だ。
吉崎「開港に合わせて、今当資料館がある海岸周辺の一帯が開発され、日本人町と外国人居留地の2つができました。そこで生まれた需要を鑑みて、港崎遊郭が作られたのです。岩亀楼はその中でもトップクラスの贅を尽くした店として名が轟いていました」
では、そうした店に外国人が通うようなことも現実にあったのだろうか。
吉崎「あったと思います。今でこそ海岸周辺も横浜公園あたりも街として一体化していますが、当時は中心街から少しでも離れると田んぼばかりが広がる田舎でした。江戸の吉原がそうであったように、一般の街からは完全に隔離されていました」
ならば、攘夷派の浪士たちが外国人や外国人相手の商人相手に暴れるようなこともありえた?
吉崎「それはどうでしょうか。横浜の中心地は人の出入りが厳しく管理されていました。複数の関所が設けられ、通行するには名前などを申請しなければなりません。横浜に今も残る『関内』という地名はその時代の名残です。幕府はとにかく外国勢と揉め事にならないよう相当気を使っていたので、良からぬことを企むような浪士が出入りするのはかなり難しかったと思いますよ」
劇中では岩亀楼の主人は攘夷派浪士による襲撃を盛んに恐れている。実行できたかはともかく、それが時代の空気だったらしい。吉崎さんの目から見ると、他にも史実を巧みに織り込みあの時代ならではのリアリティを醸し出している箇所があるという。
吉崎「物語の発端は文久2年になっていますが、この翌々年あたりまでが攘夷運動のピークなんです。元治元年(1864)に下関戦争が起こると、攘夷はどんどん下火になっていきます」
こんな事情も巧みに利用され、クライマックスのドタバタ劇につながっていくのだが、それがどのような場面なのかはぜひ自分の目で確かめてほしい。
ちょうど今月、2021年10月22日(金)から28日(木)まで、坂東玉三郎主演のシネマ歌舞伎「ふるあめりかに袖はぬらさじ」が全国の映画館で公開されるのだ。
2007年に上演された舞台を映画化したもので、玉三郎の役どころはお園。それゆえ、婀娜で粋でコミカルな、ちょっと珍しいタイプの玉三郎を観ることができる。
そして、映画をより深く楽しむには、横浜開港資料館を見学して幕末の横浜事情を頭に入れておくと吉。資料館の常設展では、開国期の日本と外国の関わりが様々な資料をもとに説明されている。
吉崎「一般的な地域博物館はその土地の歴史の説明がメインですが、当館は必ずしも横浜だけにこだわらず、開国期の日本と外国との関わりを全体的に知ることができます。“異国情緒の横浜”になる前の小さな漁村だった段階から、激動の時代を経て、外国貿易の中心地になるまでのダイナミックな動きを見てもらえると思いますよ」
タイムリーなことに、ちょうどシネマ歌舞伎の上演期間と重なる11月7日(日)まで、特別展「七つの海を越えて」が開催されている。
テーマは「開国前後の日本とイギリス」。鎖国時代の関わりに始まり、明治維新に至るまでのおよそ270年間の交流の歴史をたどるものだ。
展示物の中で特に注目したいのが、当時の日本人通訳が使ったという英和辞典。
実は、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』には藤吉という日本人通訳が登場する。事件の発端を作るキーマンなのだが、もしかしたら藤吉もこんな辞書を使っていたのかもしれないと想像すると、作品がより身近に感じられるだろう。今回の出展されている辞書は三種類のみだが、幕府公式辞典あり、かわいいイラスト入りありと見ていて飽きない。
吉崎「横浜の魅力は、時代と土地の魅力が重なり合って生まれたと私は思っています。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、横浜だからこそ生まれた戯曲といえるでしょう」
ぜひシネマ歌舞伎と展示を併せ見て、「開港期の横浜」のおもしろさを堪能してほしい。
シネマ歌舞伎「ふるあめりかに袖はぬらさじ」
【あらすじ】
開港まもない横浜にできた遊女屋「岩亀楼」で、恋に破れた遊女・亀遊が自ら命を絶った。だが、おりから吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中、亀遊は瓦版によって「攘夷女郎」に仕立て上げられてしまう。
たまたま亀遊の死に立ち会った芸者のお園は、行きがかりで亀遊の伝説化に一役買うことになってしまった。やがて時は経ち、亀遊語りもすっかり一芸になった頃、すっかり下火になった攘夷派の武士たちが亀遊伝説を直に聞こうとお園を訪ねて来たが……。
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横浜開港資料館
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始ほか。
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*開館時間や休館日は変動する可能性があります。来館の際には必ず公式サイトをチェックしてください。