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2021.12.03

老中に詰め寄る水戸の御老公様。そして広まる「湯気の力で動く」という船の噂——幕末維新クロニクル1847年8月

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。いよいよ「あの人」の名前が歴史に登場します——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。

サムネイル画像は明治30年ごろの江ノ島(国立国会図書館デジタルコレクション「日本之名勝」より)

弘化4年

湯気の力で船を動かすなんて、荒唐無稽としか思えない風説が流れはじめました。たかが湯気の吹き出す勢いで、でっかい船を動かせるわけがない!

7月(大の月)

朔日(1847年8月11日)

飫肥藩主伊東祐相「修理大夫」参府ニ依リ、膳所藩主本多康融「隠岐守」・高遠藩主内藤頼寧「駿河守」就封ニ依リ、各登営ス。

3日

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」相模国三浦郡上宮田村ニ屯営ヲ建造センコトヲ幕府ニ請フ。

 上宮田は現在も地名として残っています。京急線の三浦海岸駅あたりです。幕府の命令とはいえ、自分の領地から遠く離れた場所で警備をさせられているわけで、なにせ他人の領分ですから勝手に建物を建てるわけにもいきません。

彦根藩主井伊直亮、江戸邸「赤坂千駄谷」ニ於テ練兵ヲ行フノ許可ヲ請フ。尋デ、今治藩主久松定保「駿河守」亦請フ所アリ。幕府、制規ニ依リ、各指揮ス。

 市街地での発砲は固く禁じられていたので、調練といっても軍事演習みたいなことはできません。まだ西洋式の兵学が普及する前で、和式の調練でしょうけれど、たとえば山鹿流兵学では陣法節制といって、堂々たる陣構えをして敵軍を威圧することを主眼とし、仮想敵を配置した対抗演習は「陣形が乱れるので、やってはならない」という方針の調練テキストをつくっておりました。いや、冗談じゃ無くてホントです。幕府による調練の「指揮」 というのも、たぶん、そういう流儀でしょう。

7日

川越藩主松平斉典「大和守」先期参府ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 少しでも長く江戸にいたいのでしょう。江戸湾警備に駆り出されていると、川越より江戸の方が若干でも現場に近いですからね。

10日

幕府、佐土原藩主島津忠寛「淡路守」・伊予吉田藩主伊達宗孝「若狭守」ニ、勅使ノ接伴役ヲ命ズ。

 勅使接伴役とは、元禄赤穂事件で浅野内匠頭が担わされたのと同じ役目です。それにしても、勅使が来る機会はけっこう多いですね。ちょくちょくと。(スミマセン)

岡山藩支藩「後鴨方」主池田政善「信濃守」卒ス「四月二十七日」是日、養子政詮「満次郎・後信濃守・人吉藩主相良長福弟」封ヲ襲グ。

 鴨方藩は訳ありで、藩主の政善は病弱だったため、密かに異母弟とすり替えられていて、その身代わりが藩主の座についたまま没したのであります。そもそも身代わりを養子扱いにして正式に家督を譲れば良かったのですが、代替わりの行事にカネがかかるため、そんな誤魔化し方をしたとのことです。殿様のすり替えは内密に行われましたが、『池田氏系譜』 には真相が記されています。このたびの代替わりで藩主すり替えという特殊事情は解消されました。

12日

幕府、名古屋藩主徳川慶臧「参議」・水戸藩主徳川慶篤「参議」・和歌山藩主徳川斉彊「権大納言」ニ対シ、文武ヲ励ミ、海防ヲ厳ニシ、諸侯ノ範タルベキコトヲ諭ス。

 名古屋藩=尾張藩の殿様である慶臧(よしつぐ)は、御三卿の田安徳川家から迎えた養子です。同じく田安家に生まれて福井藩主となった松平慶永(春嶽)は実兄です。慶臧は、天保7年6月15日(1836年7月28日)生まれで、このとき満11歳でした。水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)は天保3年5月3日(1832年6月1日)生まれで満15歳ですから、成人しているのは和歌山藩=紀州藩の徳川斉彊(なりかつ)だけですが、文政3年4月28日(1820年6月8日)生まれだから満27歳でしたから、まだまだ若い殿様です。将軍家慶からすると、「御三家として、諸大名の模範として振る舞いなさい」というのは、まさしく親戚のこどもたちを諭す気分だったことでしょう。

会津藩主松平容敬「肥後守」前藩主容衆「肥後守」ノ献ゼシ平根山「相模国三浦郡」砲台ノ備砲二門ノ返付ヲ幕府ニ請フ。

 会津の殿様は、平根山砲台に備え付けた大砲は、先代の会津藩主が幕府に献上したものなので「返してください」と願い出ました。本領には海岸線を持たない会津藩ですから、沿岸防備の大砲なんか持って帰ったってしょうがないから、置き土産にするしかなかったのでしょうけれど、あらためて江戸湾防備に駆り出されて「やっぱり返してください」と、いいたくもなりますよね。なお、平根山砲台は明治時代に千代ケ崎砲台(国指定史跡)として拡張されました。

川越藩主松平斉典、相模戍衛ノ藩士ヲ奨励ス。

 川越藩の殿様である松平斉典(なりつね)は藩財政を立て直したうえ、好学の名君と呼ばれた教養人でした。頼山陽の『日本外史』を校訂した川越版を大量に頒布したことでも知られています。旨味の多い出羽庄内への国替えを画策したけれど実現しなかった、いわゆる三方領地替えを画策した、黒い一面もありました。

17日

内侍ヲ増員ス。幕府、其給俸ニ対シ、異議アリ。朝旨ニ従ハズ。

 内侍(ないし)は、朝廷に仕える女官です。天皇の毎日の着替えや、白粉、描き眉、お歯黒などの身支度も内侍の役目でした。朝廷から幕府に内侍の増員に伴う予算を要求したけれども、幕府は拒否したとのことです。幕府には「そういうところですよ」と、一言申し上げたいですね。人は恩も恨みも忘れませんから。

幕府、山田奉行太田資経「志摩守」ヲ西丸留守居ト為シ、目付小出英美「織部・後豊前守」ヲ山田奉行ト為ス。

 山田(ようだ)奉行は、伊勢神宮の警備、修繕のほか、20年ごとに実施される式年遷宮の管理や、門前町の支配を担当していました。けっこう重要な役職です。

21日

鹿児島藩、琉球警備ノ為小姓番頭島津権五郎「後登・久包」等ニ渡海ヲ命ズ。

 島津権五郎は、島津姓が示すとおり、鹿児島藩=薩摩藩主の同族である重要人物です。そんな大物に琉球への出張を命じたのですね。

22日

幕府、目付稲葉正申「清次郎・後出羽守」ニ海岸防禦用掛ヲ命ジ、同戸川安鎮「中務大輔」ニ朝鮮信使聘礼用掛ヲ命ズ。

 稲葉正申(まさのぶ)は、弘化2年から目付に就任しており、このたび海岸防禦用掛を兼ねることになりました。戸川安鎮は安積艮斎の門人として才覚を見いだされ、部屋住のまま出仕した有能な人でした。惜しむらくは、持病(脚気)があって激務には耐えられないのでした。

25日

幕府、諸侯ニ令シ、使者ヲ京ニ遣シテ大礼ヲ賀セシム。

 幕府から諸大名へ、即位の礼に使者を出して祝うことを命じました。

26日

一橋家主徳川昌丸、逝ク

 昌丸(まさまる)は、尾張徳川家の徳川斉荘の次男でした。一橋家を養子として継いだけれど、そのすぐあとに病死してしまいました。 弘化3年1月8日(1846年2月3日)生まれとのことで、満1歳、つまりは赤ん坊のうちに亡くなりました。

27日

幕府、明春麾下子弟ノ学問試業ヲ行フベキヲ達ス。

 麾下とは旗本のことです。その子弟に学力テストを実施するとのことですが、結局のところ、旗本だと老中にはなれませんからねぇ。

28日

小倉藩主小笠原忠徴「左京大夫」 参府ニ依リ、飯田藩主堀親義「兵庫頭」 就封ニ依リ、各登営ス。

幕府、浦賀奉行ノ班ヲ進メテ諸大夫場長崎奉行ノ次席ト為ス。

 ここでいう「班」は、席次や地位または序列という意味です。浦賀奉行の席次を、長崎奉行の次にあらためるのだそうです。奉行のポストを格上げすると、部下たちの士気も上がるでしょう。

晦日

幕府、相模・安房・上総警備ノ四藩「川越・忍・彦根・会津」ニ令シ、外国船ノ乗留及応接ニ陣羽織著用ヲ廃止ス。

 これは意味がわかりません。陣羽織を着ていると、どんな不都合があるのでしょう。江戸湾で外国船と応対するのは、命のやりとりになりかねないことです。華やかに飾られた陣羽織は、武士たるものの死に装束だというのになぁ。なお、陣羽織着用の廃止は浦賀奉行が提案したことで、正式に発令される前から実行されていたとのことです。直参とはいえ浦賀奉行所の与力くらいだと陣羽織を着るほどの地位でもないでしょうから、陪臣である四藩の藩士らが陣羽織を着るのが面白くなかったのでしょうかねぇ?

是月

常御殿・清涼殿修復後、未ダ幾ナラズ雨漏破損アル。幕府有司、状ヲ具シテ弁疏ニ力ム。

 天皇さまが日常を過ごす常御殿や儀式の場である清涼殿が、修築されて間もないのに雨漏りがするなど不具合が生じたとのことです。関係した幕府の担当者らは、弁明に努めています。

奈良奉行川路聖謨「左衛門尉」 任ニ在リテ専ラ訟獄ノ事ニ力ム。是ニ至リテ、囚徒大ニ減ズ。

 訟獄は、いまでいう訴訟のことです。訴え事を充分に吟味することで、投獄される人を減らしたということなのでしょう。吟味役人がアヤシイと思えば無理に自白させるなど、当然のようにあった時代のことですからね。きちんと調べたら冤罪だったということも多かったでしょう。

水戸藩士高橋多一郎「愛諸」等、目付遠山則訓「半左衛門・後隼人正」ノ内意ニ依リ、弘化申辰以来ノ藩状ヲ具陳ス。

 目付の遠山則訓の「内意」というと正式ではない申し入れにより、水戸藩士の高橋多一郎が弘化申辰=弘化元年(1844)、つまりは水戸の御老公が隠居謹慎を命ぜられて以来の水戸藩の状況を伝えたとのことです。

琉球滞在ノ英医ベッテルハイム、痘瘡患者ヲ治療セントス。島民、之ヲ忌避ス。

 琉球に居座っているベッテルハイム先生は、天然痘に罹患した島民を治療しようとしたところ忌避されたとのことです。英国籍の医師ベッテルハイム先生については、本シリーズ第2回(弘化3年4月5日)の項で詳しく説明しています。

八月(小の月)

朔日(1847年9月10日)

征夷大将軍徳川家慶、八朔祝儀ノ為、大目付土岐頼旨「丹波守」ヲ以テ太刀及馬ヲ献ズ。

 八朔(はっさく)は八月朔日、つまり旧暦8月1日のことです。季節でいうと秋に属し、早生種の稲が実り始めることから「田の実節句」とも呼ばれ、日頃から「頼み」にしている人に謝礼として贈り物をする習慣がありました。将軍家慶もまた、日頃から頼みにしている朝廷ヘ、大目付を遣わして太刀や馬を献上したとのことです。

幕府、水戸藩付家老「後松岡藩」中山信守「備後守」ヲ召シ、藩主徳川慶篤「参議」ノ弟松平昭致「後慶喜・七郎麿・後征夷大将軍」ヲシテ一橋家ヲ相続セシムルノ内意ヲ達ス。

 さる7月26日に一橋家の当主の徳川昌丸が病死しています。御三卿は特別扱いなので、死亡した当主に世継ぎがいなくても取り潰しにはらず、当主不在のまま存続します。末期養子みたいに、あわてて取り繕う必要はありません。幕府は水戸家に対し、藩主慶篤の弟である松平昭致(あきむね)を、「空席となった一橋家の当主に迎えたい」という「内意」を伝えました。急ぐことではないので、まだ本決まりではありません。この昭致という人は、水戸の御老公の7男で、幼名を七郎麿といい、のちに慶喜と改名します。なお、付家老は御附家老(おつけがろう)ともいって、幕府から俸禄を受けながら御三家に仕える家老で、現代の企業に見られる出向役員みたいな立場です。

2日

幕府、勘定組頭竹内保徳「清太郎・後下野守」等ヲ相模・安房・上総ニ派遣シ、四藩「川越・忍・彦根・会津藩」警備地引渡ノ事ヲ当ラシム。

 江戸湾警備4藩に対し、相模・安房・上総に所在する幕府領の管轄権の一部を引き渡すため、勘定組頭が現地に派遣されました。自藩の領分じゃない場所へ、武装して出入りするのですから手続きは必要です。

熊本藩主細川斉護「越中守」、江戸藩邸ニ鉄砲ヲ輸送センコトヲ幕府ニ請フ。

 鉄砲を江戸に持ち込むには、いちいちお伺いをたてなければなりません。

磐城平藩主安藤信由「対馬守」 卒ス「六月五日」 是日、嫡子信睦「後信行・信正・長門守・後対馬守」 後ヲ承ク。

 磐城平藩の殿様が亡くなって、嫡男の安藤信睦(のぶゆき)が藩を継ぎました。のちに信正と改名して、老中になった人です。

4日

三品幟仁親王「上総太守・有栖川宮」ヲ二品ニ叙シ、中務卿ニ任ズ。

 有栖川宮家と水戸徳川家とは姻戚関係があり、さる8月1日に一橋家の当主に迎えたいとの内意を示された松平昭致(のち一橋慶喜)と幟仁親王とは、従兄弟の間柄です。

10日

丁祭、出御

 丁祭(ていさい)は、旧暦8月の上の丁(ひのと)の日に京都御所でおこなわれた、孔子の祭りです。江戸の湯島でおこなう同様の行事のことは釈奠(せきてん)といいます。

幕府、西丸目付大沢定宅「仁十郎・後乗哲・後豊後守」ヲ目付ニ転ジ、徒頭井戸弘道「鉄太郎・後石見守」ヲ西丸目付ニ補ス。

 旗本の井戸弘道は、弘化3年に西丸小姓番士から徒頭に昇進したばかりで、また昇進して西丸目付になりました。なかなか才覚のある人とお見受けします。生年が不明で年齢がわかりませんけれど「老練な実務派」と評されたとのことで、遅咲きの人生だったのかと思われます。

11日

常御殿修理ノ為、学問所ニ遷御ス。

 さる2月18日に修築を終えた常御殿ですが、7月に至って雨漏りなどの不具合が発生、修繕をやりなおすため、天皇さまには学問所へ御移りいただきました。学問所は建物が出来たけれども、このときは開講準備中でした。

12日

幕府、初鮭ヲ進献ス。

 幕府から朝廷ヘ、今シーズンの初物として鮭が献上されました。

13日

幕府、大宮御所御料千石ヲ増献ス。

 大宮御所は、皇太后・太皇太后の住まう御所のことです。このたび幕府は御料1000石を増献しました。

14日

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」 相模警備地ニ於テ砲術調練ヲ行フノ許可ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 江戸湾警備に駆り出された彦根藩は、相模の警備区域で砲術調練をおこなう許可を得ました。

15日

石清水放生会

 恒例の年中行事です。旧暦8月15日に開催されていましたが、たまに変則的な日程になることがあり、弘化3年は9月に開催されました。

征夷大将軍徳川家慶、即位奉賀使松平斉貴「出羽守・松江藩主」等ニ上京ノ暇ヲ賜フ。

 即位の礼の奉賀使となる松江藩主松平斉貴は、さる4月8日に上京を命じられていましたが、いよいよ将軍家慶から上京の具体的な日程が示された模様です。

川越藩主松平斉典「大和守」・対馬府中藩主宗義和「対馬守」・長島藩主増山正修「河内守」・田原藩主三宅康直「土佐守」・佐野藩主堀田正衡「摂津守」・小田原藩主大久保忠愨「加賀守」・安中藩主板倉勝明「伊予守」・館林藩主秋元志朝「但馬守」・烏山藩主大久保忠保「佐渡守」・佐貫藩主阿部正身「駿河守」・荻野山中藩主大久保教義「長門守」・安房勝山藩主酒井忠嗣「安芸守」・足利藩主戸田忠禄「長門守」・吹上藩主有馬氏郁「備後守」、参府ニ依リ、古河藩主土井利位「大炊頭」・高崎藩主大河内輝聴「右京亮」・久留里藩主黒田直静「豊前守」・壬生藩主鳥居忠挙「丹波守」・大多喜藩主大河内正和「備中守」 就封ニ依リ、各登営ス。

幕府、朝鮮信使聘礼ノ地ヲ大坂ニ易ヘ、其延期「辰年安政三年ニ当ル」ヲ布告ス。

 幕府は朝鮮信使を迎えるのを、つぎの辰年まで延期するとともに、大坂で儀式を行うことを布告しました。弘化4年は未年ですから、サル、トリ、イヌ、イ、ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ……9年後とすることを意味します。前回は文化8年(1811)でしたから、9年後の辰年となると(1856)ですからずいぶん間が空いてしまいますね。

16日

日出藩主木下俊敦「左衛門佐」 病ニ依リテ退隠しシ、嫡子俊方「大作・後主計頭」 後ヲ承ク。

 弘化3年10月にも登場した豊後国の日出(ひじ)藩ですが、その際に「外警ヲ憂ヒ、武備ヲ修ス」ということをしたのが幕府の機嫌を損ねたか、 殿様は病と称して隠居してしまいました。常に空気を読んでおかないと、外様は潰されちゃいますからね。

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」 朝鮮信使聘礼ノ地ヲ易ヘシ事情ヲ老中阿部正弘「伊予守・福山藩主」ニ問ヒ、易地及延期ノ不可ナルヲ切論ス。

 水戸の御老公はお怒りです。老中の阿部正弘に対し、朝鮮信使聘礼について江戸から大坂への開催地変更と大幅な延期は不可であると、熱弁をふるったとのことです。

17日

即位由奉幣等日時定ノ儀ヲ行ヒ、即位式ヲ九月二十三日ト定ム。

 天皇さまの即位の式典は、きたる9月23日に実施すると定められました。

幕府、対馬府中藩主宗義和ノ朝鮮信使聘礼ニ関スル労ヲ慰シ、金壱万五千両ヲ与フ。

 朝鮮信使聘礼に関し、朝鮮側と交渉にあたった対馬府中藩の殿様である宗義和に、幕府から1万5000両が与えられました。

25日

即位由奉幣使藤波教忠「神祇大副」等ヲ神宮ニ遣ス。

 天皇の即位など、臨時におこなわれる奉幣を由奉幣(よしのほうべい)といいます。

幕府、江戸市中ニ令シテ、煙火ニ関スル制規ヲ厳守セシム。

 物騒な世の中になってきたからでしょう、江戸では花火に対する規制を厳守するよう、御達しがありました。

26日

幕府、小浜藩医杉田成卿「信」ニ翻訳方勤務中俸五口ヲ給ス。

 杉田成卿(せいけい)は、杉田玄白の孫にあたる蘭学者です。若狭国小浜藩の扶持を受けていましたが江戸に住んでいて、幕府の依頼を受けて洋書の翻訳をしていました。その報酬として幕府からも俸禄を受けることになったとのことです。

28日

権中納言久世通理ヲ権大納言ニ任ズ。

 久世通理(みちあや)は、羽林家(うりんけ)に属する公家です。大名にも下総国関宿藩の久世さんがいるので、ちょっとややこしいですね。

29日

本願寺門主光沢「広如・大僧正」 前例ニ依リ、即位式ニ参列ヲ請フ。

 浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、幕府より朝廷と親しい立場でした。門主の光沢大僧正は、即位式への参列を願い出ました。

会津藩主松平容敬「肥後守」 安房・上総警備地ニ於テ砲術演習及軍装練兵ヲ行フノ許可ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 江戸湾警備に駆り出された会津藩の殿様は、房総半島側の安房や上総の警備区域で、軍事調練を実施することを幕府に願い出て許可されました。

是月

名古屋藩主徳川慶臧「参議」 節約ノ為、恒例ノ献品ヲ六箇年間省略センコトヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 名古屋藩=尾張藩は、いわずもがなの徳川御三家ですけれども、財政事情は苦しかったようですね。毎年恒例の幕府への献上品を、6年間省略したいと申し出て、許可されました。

浦賀ニ於テ、英国蒸気船来航ノ風説行ハル。

 浦賀で、こんな風説が流れています。なんでも船の中で火を焚いてグラグラ湯を沸かし、吹き出す湯気の勢いで船を走らせる仕組みがあって、風の力を借りないでも自在に海の上を行き来できるというのです。そんな船が浦賀にやって来るだろうというのですが、まったく荒唐無稽な話ではありませんか?

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。