旅の楽しみの一つは、普段とは違う時間軸に身をゆだねられること。ゆっくりと川をくだる和舟に乗れば、川面から眺める町並みも異なった趣となり、雅な気分が味わえます。ここ八幡堀は、どこを切り取っても美しい景観が続き、時代劇の撮影を始め、多くの映画やドラマのロケ地としても使われている名所です。最近ではNHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』や『おちょやん』、映画『るろうに剣心』などの撮影も行われました。
秋には紅葉、冬には雪景色、春には満開の桜、初夏には新緑と季節の移り変わりも感じられて。秋の終わりに訪れた私も思わず一句!
紅葉散る川面に揺れる人生かな(字余り)
人生も移ろいゆく自然のように、不確かなものだな~と。こうして、旅は誰をも俳人に変えていくのです(え、私の場合は、川面に落ちるじゃないかって? 俳句の世界でぐらい落ち着かせてください~)。
今回の滋賀取材を担当した「でこぼこトリオ」も舟の上では静かに、しばしの舟旅を満喫しました!
乗ってみた動画はこちら▼
@warakuweb 滋賀には映画「るろうに剣心」のロケ地がいくつもあります。#八幡堀 #ためになるtiktok #tiktok教室 #日本史 #歴史 #るろうに剣心 #佐藤健 #ロケ地 ♬ Renegades – ONE OK ROCK
美しい景観は、国の重要文化的景観の第一号にも!
ここ琵琶湖周辺には、日本の原風景ともいえるヨシ(葦)が生息し、かつてこのあたりはヨシを茅葺屋根や簾に利用していました。古来、日本人の生活に関わってきたヨシ。古典にも数多く登場し、万葉集には55種もの歌が詠まれています。また、自然のろ過装置ともいわれ、水の汚れを分解する働きもあり、この美しい景観を保つのに一役買っています。そのおかげもあって、 平成18年1月には、西の湖・長命寺川・八幡堀と周辺のヨシ地を含む「近江八幡の水郷」が重要文化的景観の全国第一号として選ばれました。このように八幡堀は歴史的にも文化的にも、貴重なものとなっているのです。現在では、このヨシを使った食品がうどんやせんべい、アイスクリームやクッキーといったスイーツにまでなるほど、特産品にもなっています。
船頭さんの語りに川面を眺めながら、歴史に思いを馳せる
乗船場からゆっくり動き出した舟に揺られながら、八幡堀沿いにある観光スポットを眺めることができます。
「近江八幡の町並みを支える瓦屋根の歴史を紹介するかわらミュージアム、現在は観光案内所となっている明治時代に建てられたレトロな外観の白雲館、標高286mの八幡山へはロープウェイで上がることもできます」と櫂(かい)を巧みに操りながら船頭さんが見所を案内してくれます。そして近江八幡の歴史を語ってくれるのも楽しみの一つ。
本日の船頭さんの語りを紙面でもご紹介しましょう。
※この時代、羽柴秀吉・秀次ですが、ここでは豊臣秀吉・秀次で統一します。
今から436年前、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が18歳の時に、八幡山山頂にお城を築きました。同時に出来たのが八幡堀。人が造った運河で、琵琶湖から西の湖まで約5km、その当時の輸送はすべて舟でした。往来するものはすべて八幡堀を通ることとし、人・物が集う商業の町としてにぎわい、お堀は、防御のためだけではなく、商業を発展させるためのものとして造られたのです。水際から見る景色の美しさをどうぞ、ゆっくりと楽しんでください。
講談師のように流れるような語りで、歴史の一コマを切り取り、私たちをあっという間に、戦国時代へとタイムスリップさせてくれる話芸はさすがです。八幡堀と深い縁を持つ豊臣秀次は、近江八幡の人々にとって、神のような存在でもあったそうです。
悲劇の死を遂げた豊臣秀次の思いと近江の人々
1582(天正10)年に起きた本能寺の変により、織田信長が自害し、豊臣秀吉が天下統一を果たします。この大きな時代の転換期に運命を翻弄されたのが豊臣秀次です。信長亡き後に、勢いに乗った豊臣秀吉の恩恵を受け、18歳にして43万石の八幡山城主となります。一時は燃え尽きた安土城と共に廃れ行く運命の八幡でしたが、秀次の若き情熱で八幡山城築城と城下町が形成されます。信長に仕え、機敏な采配を行う秀吉を幼い頃から見てきたからでしょうか。秀次も安土城下にいた商人や職人を八幡山城下町に住まわせ、楽市楽座の特権を与え、町は再び活気づいていきました。
さらに琵琶湖の湖上交通に目を付けた秀次が、八幡堀の端を琵琶湖につなぎ、運河を造り、湖上を行き交う船にここを通るよう定めたといいます。また、八幡堀に背割といわれる下水溝をつくり、生活排水を堀に流すようにしたり、町外に共同井戸を造り、飲料水に困った住民のために整備するなど、画期的な取り組みを実施。武力ではなく、今でいう公共事業にいち早く取り組み、町全体を潤すことに成功したのです。
1591(天正19)年には、豊臣秀吉の養子となり、左大臣・関白となった秀次。名実ともに栄華を誇ったのでした。しかし、秀吉と側室淀殿の間に秀頼が生まれたことで人生が大きく狂い始めます。後継者を巡っての争いに負けた秀次は、陰謀により、自害させられてしまったと伝えられています。あまりにも悲しい最期。しかし、秀次の遺した城下町とそこに暮らす人々は、秀次に感謝し、町を廃れさせることなく、近江商人として、町を発展させたのです。
「秀次が自害させられ、家族一党、全部首を切られ、ここ一帯は、血の海になったといわれていますが、これだけの町を造って、繁栄させた功績は大きく、今も近江の人々は秀次公に畏敬の念を払っています」
と船頭さん。歴史の史実を机上ではなく、この船旅で聞けることの醍醐味、そしてふっと振り返ると、戦国時代の風景が一瞬甦ったような錯覚に陥ること、極上の旅時間だと思いました。
昭和のはじめには埋め立て案も。ボランティアが支える八幡堀
江戸時代を彷彿させる町並みや水運の美しさで近江八幡を代表する観光スポットとなった八幡堀ですが、高度経済成長が進んだ昭和30年代には、無用の長物となってしまったのだとか。町自体が区画整理や工場誘致などへとシフトしていく中で、琵琶湖の開発による水位の低下、生活排水の変化などで昭和40年代には、ヘドロが堆積するなど、今からは想像もできませんが、不衛生で不法投棄なども行われ、公害の温床となっていたそうです。住民からは埋め立てて、公園や駐車場などに整備してほしいとの陳情があるほどでした。
しかし、かつての祖先たちがこの八幡堀に支えられて生活してきた歴史ある場所を失ってはいけないと、市民団体が保存運動を起します。対立する住民、すでに国の事業に計上されており、待ったなしの状態だったといいます。そこで立ち上がった青年会議所のメンバーが、毎週日曜日に自主清掃を始めたのだとか。反対派からの抗議を受けながらも、黙々と掃除を続けるメンバーに徐々に市民の中にも賛同者が増え、昭和50年9月、ついに滋賀県は進みかけけていた改修工事を中止、国にその予算を返上することになったのだそうです。
「水草が多くて、撤去しないと臭いの原因になるので、維持していくためにボランティアが水草を刈り取っています。人の手によってこの八幡堀の美しさは保たれているのです」と船頭さんは語ります。
近江八幡の旅の思い出に!と軽い気持ちで臨んだ取材だったのですが、そこには豊臣秀次から受け継がれる深くて長~い町の歴史と人々の努力の形がありました。
生きた町であり続けるには、そこに住む人々の意識が大きく関わってくる。それは昔も今も変わらないかもしれません。近江八幡の美しさに、自分の町を愛する気持ちを思い起こさせてもらったような気がします。
八幡堀めぐり
滋賀県近江八幡市大杉町30-1
取材協力:(一社)近江八幡観光物産協会
公式ホームページ