Culture
2022.02.18

木彫りの熊のお土産はお殿様の思いつきだった!?尾張徳川家と北海道八雲町の深いつながり

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この木彫り熊の写真を見て、あなたはどう思いましたか? その答えによって年代がわかります。

「懐かしい~、家にもあった!」と答えたあなたは昭和生まれ、「おしゃれ~、可愛い」と思った方は平成生まれ、ではないでしょうか。

残念ながら昭和生まれでした。


いきなり、いんちき占い師のようなことを言ってしまいましたが、昭和の時代、北海道土産といえば、この木彫りの熊の置き物でした。私の家にももちろんありました。ただ、幼い頃は「北海道には熊が多いからかな~」「なんだか本物そっくりで怖い」ぐらいの感覚しかありませんでした。

実は、この木彫り熊、なんと「尾張徳川家にまつわる」という思いもよらない歴史があるのです! 現在名古屋大学博物館で開催中の「木彫り熊展―木彫り熊 北海道八雲と尾張徳川家の関わり−」を見て、驚愕の事実を知りました! 木彫り熊のルーツがスイスにあったとか! しかし、いきなり明治時代まで遡りそうな話なので、まずは北海道でどうして木彫り熊が作られるようになったのか、歴史の1ページを紐解いてみます。

八雲の木彫り熊を代表する茂木多喜治の作品。1本1本丁寧に彫る毛彫りの精巧さは匠の技

八雲の特産物となった木彫り熊のルーツはスイスの熊の置き物だった

戦後の北海道への観光ブームにより、北海道土産の代名詞ともなった木彫りの熊は、どこの家庭にも1つや2つ飾られていました。最近ではおしゃれなインテリア小物として、雑誌などに取り上げられるようになり、アートとしても再び脚光を浴びています。

最近Casa BRUTUSも特集したりしていましたよね!

そんな木彫り熊のルーツは、1921(大正10)~1922(大正11)年にかけて、19代目尾張徳川家の当主である徳川義親夫妻が、ヨーロッパ旅行で訪れたスイスの首都ベルンで出会った木彫り熊にあります。これはヨーロッパの地方で農民が作ったペザントアートと呼ばれる農民美術の一つで、土産物として、大変人気を呼んでいました。

これを見た義親は、尾張徳川家が運営していた北海道八雲にある徳川農場で土産品として製作することを思いつきます。道具ものこぎりとのみででき、すぐ手に入る木材を使って、農閑期の現金収入にもなると考えました。帰国後、スイスで買った「熊」を八雲町の人たちに見本として提供します。八雲では、このスイスの木彫り熊と北海道第一号の木彫り熊を町指定文化財として大切に保管しています。

右が徳川義親がスイスで購入した木彫り熊、左が八雲で作られた第一号の木彫り熊(八雲産業所蔵)

農村美術運動を展開。徳川義親がなし得た偉業

さらに義親は、農民に木彫りの熊を製作させるのはもちろん、このペザントアートを根付かせるための運動を展開します。それが1924(大正13)年に開催された「第1回農村美術工芸品評会」でした。義親の強い思いは、品評会趣意書にも表れています。

些少ナリトモ農村ニ思ヒ致サルル方々ハ必ズ現在ノ農村ガ経済ノ上ニモ生活趣味ノ上ニモ甚だ無味貧寒ナコトヲ感ゼラレルルデアリマセウ、……農家ヤ識者ノ叫ビヲ聞カナクトモ……農村ノ現状ハ真ニ憂慮ニ甚ダシイデハアリマスマイカ、(後略)

農村での暮らしは、経済的にも苦しく、生活の楽しみもない冬期の農閑期の状況を憂い、少しの時間を使って実用的なものであるうえに、生活を豊かに楽しめるものが必要だということを訴えています。この斬新で進歩的な考え方が、地方の農村に対して広がった農村美術の礎となっていったのです。

八雲町木彫り熊資料館に展示されている戦前につくられた木彫り熊

八雲から全国へと広がりを見せた木彫り熊の誕生

「1924(大正13)年3月26日から28日まで八雲小学校にて開催された『第1回農村美術工芸品評会』には、1097点の出品があり、そのうちの866点が八雲町内からの出品でした。また、初日の入場者数は1000名を越え、最終日は2500名を越えたと記録されています。当時の徳川農場の農家の戸数が205戸、人口が1283人(町全体では2334戸12341人)であったことを考えると、大変な盛況ぶりだと思います。また、アイヌからもアイヌ細工の出品がありましたが木彫りの熊は製作していませんでした」

と語ってくれるのは、現在、八雲町木彫り熊資料館で学芸員を務める大谷茂之(おおやしげゆき)さんです。

「木彫り熊といえば八雲町」だったのですね。


これをきっかけに、北海道内だけでなく、全国へと農村美術への気運が高まり、品評会が開催されていきました。酪農家の伊藤政雄(いとうまさお)が製作した木彫り熊は、北海道第一号となり、彼の作品は1927(昭和2)年に行われた全国副業博覧会で2等を受賞するなど、全国的にも評価を高めていきます。八雲では、1928(昭和3)年1月に「八雲農民美術研究会」が立ち上がり、伊藤政雄と日本画家の十倉金之(とくらかねゆき)による、木彫り熊の講習会が開催されました。

八雲農民美術研究会で集まって共同製作する様子

「義親は、自身が蒐集した木彫品などを八雲に送り、それを参考にするよう手配したり、彫刻刀などの道具類の販売店を紹介するなど、多方面から製作支援を行っていました。東京の徳川林政史研究所には3000点を越える当時の史料が残っており、品評会においても詳細な記録が残っています。義親は、八雲の木彫りに関しても、農閑期の副業というイメージが先行しますが、精神的な豊かさを持ってもらおうという考えのもと、ヨーロッパのペザントアートに匹敵するような芸術性の高いものを目指していたのだと思います」

と大谷さんは語ります。

木彫熊北海道発祥の地碑(八雲町公民館敷地内)

その後、講師であった日本画家の十倉金之の指導で、八雲の熊の特徴として、日本画の技法を取り入れた一本一本流れるように毛を彫っていく「毛立て」や両肩の盛り上がったところから、四方八方に毛が流れていく「菊型毛」など、八雲独自の特徴を持つ熊彫りが作られるようになっていきます。

日本画の技法を取り入れた日本画家の十倉金之の作品
ここまでよく見たことなかった! たしかに毛並みの描写に作家の個性がありますね。

時代の転換点、明治維新によってスタートした北海道の開拓

木彫り熊のルーツがわかったところで、なぜ、尾張徳川家が北海道で木彫り熊の製作を奨励したのか。まず時代を明治維新へと戻しましょう。徳川幕府が終焉し、政権が新政府へと移行する中、それまでの藩主による領地支配が撤廃され、身分秩序も奪われました。いわゆる教科書でよく見る「版籍奉還」や「廃藩置県」などです。かくいう徳川幕府の御三家筆頭であった尾張藩も名古屋県となり、17代徳川慶勝(よしかつ)が二代目知藩事となります。これにより、家臣であった藩士たちは、職を解かれ、家禄もなく、生活の基盤を失ってしまいました。

全国に失業士族が増えた時代。明治維新で新政府と対立して領地を失った会津藩、仙台藩などの士族は、いち早く北海道へと移住を開始しました。また、国の政策として警備と開拓の命を受けた屯田兵も入植しました。これに続くように、多くの士族が新天地を求め、北海道へ移住し、開拓民となっていきます。その先駆けとなったのが、1878(明治11)年、旧尾張藩主・徳川慶勝が進めた遊楽部(ユーラップ)の開拓です。150万坪の土地の払い下げを願い出て、徳川家開墾試験場を作り、後に旧藩士らの家族を含む400名近い人々が移り住んだといわれています。

新天地の厳しい環境の中、八雲での暮らしを再建

函館から北へ70kmほど行った、日本で唯一太平洋と日本海に面すると言われる北海道八雲町は、当時、胆振国(いぶりのくに)山越郡山越内村字遊楽部(ゆうらっぷ)と呼ばれていた場所です。風土も気候も違う土地で、刀を鍬に持ち替え、武士から農民へと転向した元藩士たちですが、寒冷で、海霧も多く、火山灰でできた土地は、水田には不向きだったため、計画していた稲作もできず、養蚕にも適さず、農業として自立するのに苦労したといわれています。しかし故郷を離れて、必死の決意で移住した地を簡単に諦めるわけにはいきません。試行錯誤を繰り返す中、火山灰性の土地でも作ることのできる馬鈴薯を作付けします。これが成功し、馬鈴薯から採れるデンプンで片栗粉を製造。八雲の特産物となり、全国へと広がっていきました。さらに、現在でも基幹産業となっている酪農へとシフトしたのも彼らの功績であり、八雲は道南で一番大きい酪農郷となりました。この八雲で育てられた乳牛で作られる牛乳は、愛知県にも流通し、里帰りを果たしています。

いまの北海道の発展は血のにじむ努力の結果なのですね(´;ω;`)


太平洋を見渡す広々とした町営の牧場で放牧飼育される乳牛たち

故郷を拠り所に、尾張藩の誇りを持って挑んだ徳川慶勝

徳川慶勝は、開拓地に選んだこの地が理想郷となるよう「八雲村」と名づけます。これは、日本書記に登場するスサノオノミコトが詠んだとされる古歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」にちなんだものでした。これは新天地でのつらい農作業に従事する旧藩士を思ってのことであり、かつての当主として、最後の最後までその行く末を案じてのことだったのではないかと思います。

徳川慶勝の開拓した八雲は、元尾張藩士たちの忠誠心もあいまって、開拓史の中でも、良い結果を生み出した例といえます。慶勝は死後、1918(大正7)年に、開拓の功績が認められ、北海道拓殖功労者として北海道庁長官より、表彰を受けます。また村民の慶勝への感謝の思いは、1934(昭和9)年、八雲神社で慶勝の合祀が行われたことにも表れています。

こうして尾張徳川家は、慶勝亡き後もこの地で開拓事業を成功させるべく、18代当主となった徳川義礼(よしあきら)がこの事業を受け継ぎます。1879(明治12)年に八雲を訪れて以後、4回ほど視察を行いました。将来的に八雲を担う人材を育成するべく、設立された幼少舎では、10歳から14歳の子どもが単独で入植します。ここから後の徳川農場を牽引するリーダーも生まれました。しかし、1908(明治41)年5月、義礼は46歳という若さで急逝してしまいます。

ちなみに、現在の尾張徳川家のご当主は第22代の徳川義崇(よしたか)氏で、なんとITの専門家でいらっしゃいます。

19代目に尾張徳川家当主となった徳川義親は熊狩り殿様の異名を持つ

明治の終わり頃、この地を引き継いだのが木彫り熊のルーツを作った徳川義親です。彼自身も明治という激動の日本に生まれ、人生を大きく転換させられた一人でした。

彼は井伊直弼の弾圧「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられた越前福井の藩主・松平春嶽(しゅんがく)の五男として、1886(明治19年)年に誕生しました。学習院初等科に入学し、高等科を卒業後、養子として尾張徳川家に迎えられます。その後、東京帝国文科大学で史学科に入学するも、本人の方向性とは合わず、卒業後、東京帝国理科大学生物科へと進学。大学で生物学を学んだ義親は、自然への興味が強かったのでしょう。邸宅内に生物学研究所を設置。これが八雲での農作物の研究にも貢献します。その後、義礼から引き継いだ北海道八雲の地を大正6年以降、ほぼ毎年訪れるようになりました。アイヌと共に生物学的関心からヒグマを狩り、アイヌ文化にも興味を持つようになります。その後は住民たちへの熊被害を防ぐためにも毎年出かけるようになり、「熊狩りの殿様」との異名を持つまでになりました。

尾張徳川家の第19代当主の侯爵徳川義親

現代でいえばプロデューサー? 熊彫のブランド化から販路開拓へ

義親は、尾張徳川家に伝わる家宝を整理し、源氏物語絵巻を再発見するなど、美術工芸品にも明るく、後にその家宝の散逸を防ぐために公益財団法人徳川黎明会を立ち上げ、徳川家代々に伝わる美術工芸品を展示する徳川美術館を設立した人物です。若い頃から鍛えられた審美眼を活かし、優れた八雲の工芸品の販路を開拓するためにも奔走します。また、初期には八雲で製作された木彫り熊の工芸品は尾張徳川家が一部購入し、贈答品としても活用しました。

こうして、徳川義親の精力的な働きかけもあり、大正の終わりから昭和にかけて、八雲の木彫り熊は、全国に名の知られるところになりました。そして、北海道はもとより、東京や大阪などへも販路が拡大されていきます。戦前の北海道への観光ブームがさらに後押しをし、八雲の木彫り熊は北海道を代表する土産物になりました。一方、1926(大正15)年に旭川アイヌの松井梅太郎によって木彫り熊が製作され、アイヌを中心とした工芸品としても展開していきます。

しかし戦争が激しくなると、八雲農民美術研究会は実質的に解散となり、縮小の一途を辿ります。戦後には、徳川農場が閉鎖されたこともあいまって、八雲の木彫り熊を支援する体制がなくなっていったのです。そんな中で、細々と自分たちのスタイルを貫いた二人の作家がいました。それが茂木多喜治と柴崎重行でした。

写実的な熊彫りを生涯通して作り続けた茂木多喜治
本物のクマかと思った! リアル!

八雲を代表する二人の作家・茂木多喜治と柴崎重行

「八雲も戦前、戦中、戦後と木彫り熊の状況も大きく変わっていきました。戦時中も木彫り熊の製作を続けたのは茂木だけでした。茂木は八雲で確立された木彫り熊のスタイルを踏襲し続け、1971(昭和46)年に開講した公民館の講座では、初代講師を務め、後進指導に当たりました」と大谷さん。

あるで生きているような迫力のある茂木多喜治の作品

茂木に対して、柴崎重行は自らの作品を追求し、芸術性を高めていきました。面彫りのなかでも、くさびや手斧で割った面を重視するハツリ彫り(柴崎彫り)へと作風を変え、円空を彷彿させる荒削りでダイナミックな熊彫り作品を生み出していきます。1935(昭和10)年頃に八雲農民美術研究会を退会してからは製作活動を中止していましたが、1953(昭和28)年頃に製作を再開し、後世の作り手に大きな影響を与えました。

アーティストとしての域を極めた柴崎のストイックな製作現場

リアリズムの追求VSデフォルメされたアートへの志向といった感じで、どちらも味わいがありますね。


「この二人によって、八雲の木彫り熊は独自の世界を作り、次世代を担った引間二郎、加藤貞夫、上村信光に受け継がれていきました。しかし、木彫りの熊のブームも終焉し、生計を立てることが難しくなり、引間を最後に木彫り熊をプロとして製作する人は八雲にいなくなってしまったのです。八雲の尾張徳川家の開拓史と共に木彫り熊を後世にどのように伝えていくかが、私たちの課題となっています」と大谷さんは語ります。

公民館木彫熊講座の第一期生だった上村信光の作品。熊だけでなく、他の動物や仏像も手掛けた

繊細な毛立ての熊彫を製作した加藤貞夫の作品。別の木登りする熊は上海万博にも展示された

八雲という地名さえ知らなかった私にとって、明治の幕開けと共に行われた開拓の歴史と人々の地を這うような努力、忍耐、そして徳川義親が木彫り熊に託した豊かで人間らしい暮らしへの創造といった偉業に、何度も心を揺さぶられました。今、私たちも未曾有の事態によって、先の読めない時代へと突入しています。彼らのように私たちは困難に立ち向かっていけるのか。木彫りの熊を見つめながら、自問自答しています。そして、豊かな自然と先人たちの思いにより拓かれた八雲の地を訪れてみたいと強く思いました。

参考文献:伝統工芸の創生 大石勇著(吉川弘文館)
     最後の殿様 徳川義親(講談社)
     ヒグマ学への招待 増田隆一編著 北海道大学出版会

第40回名古屋大学博物館企画展「木彫り熊展―木彫り熊 北海道八雲と尾張徳川家の関わり−

開催期間:~2022年2月26日(土)
開催時間:10:00~16:00(入場15:30)
開催場所:名古屋大学博物館3階展示室
休館日:日・月曜日
入館料:無料
主催:名古屋大学博物館・八雲町教育委員会
公式ホームページ

八雲町木彫り熊資料館

場所:北海道二海郡八雲町末広町154
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日・祝日・年末年始
入館料:無料