安政六(1859)年、横浜・長崎・函館が開港し、アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・ロシアと日本のあいだに貿易が開始された。
欧米諸国から舶来した異国の品々と一緒に、彼らはやって来た。軽業・曲芸の御一行様だ。彼らは港を通じて横浜へやってきた日本で最初の西洋の軽業・曲芸一座だ。その名も、リズリー・サーカス一座。
10人の座員と馬が8頭。青い眼に異国情緒豊かな衣装を身にまとったリズリー・サーカス一座は、横浜の地に大きなテントを張ると、居留地に棲む外国人を相手に西洋サーカスを披露してみせた。見たことのないスリル満点の曲芸にお客たちは大盛り上がり。興行は1864年の3月から5月まで続いた。その間に各国の領事は全員、200人もの日本人が見物に訪れたという。
一座を率いたのは、興行師で自らも曲芸をこなすリチャード・リズリー・カーライル。彼は後に、日本の軽業・曲芸師を連れて欧米へ巡業の旅に出ることになる。
ということで今回ご紹介するのは、リズリーに率いられて異国を巡業した、知られざる日本の名芸人たちのお話だ。
興行師リズリー・カーライル
開港と同時に、突如日本にやって来た興行師リズリー・カーライル。
リズリー・カーライルは1814年、アメリカのニュージャージー州セイラムに生まれた。「プロフェッサー・リズリー」の名で息子たちとロンドンのストランド劇場に出演したこともある。一時は何処の首都でも大人気で、一世を風靡した人物だった。多才な人物だったようで、イギリス人画家のジョン・ローソン・スミスと組んで、大きくて長い巨大なアメリカの風景を描いたこともある。
リズリーが得意としたのは、息子たちをかかとで手毬のように操る妙技だ。ユーモアがあって、わけへだてのない好人物だったリズリーは、腕ききの興行師でもあった。
とはいえ芸人の暮らしは不安定で、人の良さだけでは食べていけない。そんな事情から、リズリーは一攫千金を夢見てゴールドラッシュに沸くベンディゴの鉱山で砂金掘りをしたこともある。やがてロンドンで興行資金を得ると、サーカス一座を組織し、開国間もない日本へやって来た。
日本初!? 軽業・曲芸一座の欧米巡業団
慶応二(1866)年、幕府が留学生や商人らの海外渡航を公認することを知ったリズリーは「タイミングを逃すまい!」と日本の軽業・曲芸師たちをくどいて回りはじめた。とはいえ、実際に芸人たちをくどいたのは横浜のアメリカ領事館に勤める日本語の話せる警備官(マーシャル)、エドワード・バンクスだったが。リズリーは日本語が話せなかったから、バンクスの存在なくして曲芸団の結成はありえなかった。バンクスはどこで日本語を習得したのだろう。きっと当時は貴重な人材だったにちがいない。
さて、警備官の働きのおかげでリズリーのもとへ集まったのは、足芸人の濱碇定吉一家7人、手品と綱渡りの隅田川浪五郎一家5人、こま回しの松井菊治郎一家5人、後見人役の高野広八の計18人である。
リズリー率いる「帝国日本芸人一座」は、その年の10月26日にイギリス船アルチバルド号に乗って横浜からリズリーの故郷へ出発した。一座の海外渡航は江戸でもかなり評判になっていたようだ。当時の様子は、幕末の風俗史家斎藤月岑の『武江年表』に紹介されている。
いざ、海の向こうへ。異国と出合った芸人たち
帝国日本芸人一座の旅の様子は、後見人役の高野広八が『廣八日記』に細かく記している。筆まめな彼のおかげで、私たちは芸人たちの欧米巡業の内容をかなり詳しく知ることができる。ここからは彼の日記を辿りながら、一座の旅を追いかけてみよう。
『廣八日記』に<十月廿六日 横浜入船致し候。>と記されてからおよそ一ヶ月。
日記によると帝国日本芸人一座は途中、何度か嵐にあいながらも無事にサンフランシスコに到着した。道中、浪五郎が退屈しのぎに話をしたり、酒盛りをしたり、踊ったりと船のなかはずいぶん賑やかだったようだ。
こうして日本の芸人たちは生まれてはじめて異国の土を踏むことになるわけだが、そのときの様子を広八は次のように書いている。
十一月廿九日 三ふらんせしこ(サンフランシスコ)見物に出候処、きれいなる事、はなしゑにもかきがたし、家ハ五かい又は七かいにして、皆石ニてつみあげたる作也、又かわらにて作りし家もあり、猶又水のしかけ、ひのしかけ、車のしかけおどろき入るなり、それより又町道(通)りのよふたいハ、両川(側)三間ハすき石にてつめもたたぬすきずめ、又中道(通)り三間ほとハくるま道にて、小石ニて石たたき、又黒がねにてふたすじあり、是はせきたんおたきてまハる上き車(蒸気)の道なり、ま事ニ物て(もって)おそれ入、見物致候なり。
一座はサンフランシスコに入港した夜、芝居を観に出かけ、翌日は市街見物を楽しんだ。街のたたずまいは、江戸とかなり違っていた。レンガや石造りの建物が並ぶ通りは整然と整備され、建物は7階まであったのだから。
昼みたいに明るい部屋
広八の日記には、<十二月二日 此日夜とほすあかりの事ニ付、異人よりかたく申わたされ候なり>とある。
この夜、広八は夜ともす明かりのことで通訳のバンクスから注意をうけたらしい。
一座がどこのホテルに宿泊したのかは明らかでないが、おそらく波止場の近くだろう。
一座の宿泊したホテルの部屋にはガス管が通っていて、蛇口をひねると風が出てきた。そこに火をつけると、部屋のなかはまるで昼のように明るくなった。
座敷の中てん(天)のひる(昼)よりまたあかるく相成候也
ガス灯は便利だったが、取り扱いを誤れば大火事になる危険もある。一座が注意を受けたのは、こうした理由からだった。なにせ日本からやってきた彼らは、このとき初めてガス灯を使ったのだ。その明るさと便利さにさぞかし驚いたことだろう。
え、水を溜めたり流したりできるの?
ホテルには、洗面台もあった。洗面台には蛇口がついていて、ひねると水が出た。水を張り、手足顔を洗ったあとは汚れた水が穴から流れ出る。なんてことはない仕組みだが、広八にとっては初めて見るものだ。
手あしかおヲあらい候ときにハ、きれいなるせと物あり、水口のしたいおき、此そこに水ぬきのあな有
火といい、水といい、ホテルには一座を驚かせる仕組みがあちこちにあった。人を驚かせるのが彼らの仕事だが、アメリカのホテルの方がよっぽど奇妙に映ったに違いない。日記に書き留められた言葉からは、広八の驚きが伝わってくる。それにしても、説明を聞いただけでしっかりと仕組みを理解している広八には驚かされる。
旅はつづくよどこまでも
サンフランシスコ興行
異国の暮らしに驚いてばかりもいられない。サンフランシスコのアカデミー・オブ・ミュージックで初日の興行が予定されていたのだ。
1867年1月7日に開幕した興行は、千秋楽まで大入り満員で大成功に終わった。珍奇な服装にちょんまげ姿、見たこともない日本人の姿にアメリカの人びとは大興奮。一座のひとり、濱碇伝吉は高所から落下して怪我をしたが、この事故のおかげでかえって人気が沸いたので、とりあえずサンフランシスコ興行は無事に終わったと言えそうだ。
ワシントンで過ごす大人な夜
サンフランシスコを出港して24日目。一座はニューヨークに着いた。しかし、あいにく劇場が空いておらず一座はフィラデルフィアへ向かう。初日は大雪だったが大盛況で、中に入れずにあきらめて帰る人もいたほどだ。
一座はさらにワシントンへ。
5日間の興行は、ここでも成功をおさめた。これに気をよくしたリズリーは、一座の男性陣を引き連れて夜の街へと繰りだした。ここからは、大人の時間。一座の男性諸君は、この夜、異国の女性たちと初めて一夜を明かすことになる。
連日、欠かさず日記を書き留めてきた几帳面な広八である。当時の日記には、この夜のことだって、きちんと書いてある。さぞかし楽しかったのだろう。筆がのったと見えて、その日の記録はいつもよりちょっと、いや、正直のところかなり長めになっている。
内容を少しだけ紹介しよう。
女きれいなる事、び女ニしていろすきとふるようなり、しょうそく(装束)もおなしくりっは(立派)なり……
広八の目に異国の女性はさぞかし美しく映ったのだろう。「立派な装束」と記されているが透きとおるような美女は、いったいどんな格好をしていたのか気になる。
日記はさらにこう続く。
又かわりしハ、まるはたかになりて是みたまいとてまたをひろげて、うちもゝひた〳とたゝき、是ハびょうきないとゆふてそれをよくみせるなり、又みせる女ハてまいの物をみせて、すぐにおまいの物とゆふて、ゑて物をゆびを物(もつ)てくりかいしこねかいしよくみるなり、本よりうらまてよくあらためみるなり、是ま事二みるより、みせるのが……
とまぁ、このあたりにしておこう。
万博でわきかえるパリ
一座がパリに到着すると、日本からはべつの一座(松井源水一座)がすでに興行を開始していた。
帝国日本芸人一座はナポレオン円形劇場での興行を予定していた。当時の帝国日本芸人一座の興行の様子と観客の反応を、パリの記者が取材している。
「ナポレオン劇場にいながらにして、数千里の遠くに遊んでいるような感を抱かせる」
当時の記事は、フランス人の目に映った日本人の姿を伝えてくれる重要な資料である。
見たかった! 一座の華麗なる曲芸
軽業、手品、こま回しなどの曲芸をもってアメリカへ渡った一座(濱碇定吉家、隅田川浪五郎家、松井菊治郎家)だが、かつて観客たちが目撃した技とは、どのようなものだったのだろう。
足技の「浜濱碇定吉一家」
足技が得意な浜濱碇定吉の一家が披露するのは、三艇梯子曲芸や一本竹上乗芸など。梯子や竹に乗っての技は想像できるが、大障子や水風呂桶を使った技もある。どんな姿だったのかぜひ見てみたかった。
手品と綱渡りの「隅田川浪五郎一家」
隅田川浪五郎の一家は、唐子(中国風の髪かたちや服装をした人形)やぜんまいからくりなど、エキゾチックな人形たちを器用に動かしてみせた。浪五郎は、紙の蝶を生きているかのごとく扇子でひらひら舞い、それに合わせて三味線が奏でられた。
こま回しの「松井菊治郎一家」
こま回しを得意とした松井菊治郎は、七貫二百匁(およそ27㎏)もある三尺五寸(およそ133㎝)の大コマを軽々と回したという。フィナーレには、コマが真ん中から二つに割れて、娘のおつねが着物姿で飛び出した。お客を楽しませる完璧な演出だ。
おわりに
リズリーが諸種の軽業芸人を集めて、総勢18人の大一座を組んだことは当時としては画期的なことだった。もちろん、日本にも古くは平安時代から軽業などの見せ物はあった。しかし、こうして多種目の芸人たちが寄り集まって興行するようになるのは、幕末(安政)になってからのことだという。それまでは、綱渡りやこま回しなどの芸を大道で披露したり、座敷に招かれたりして演じるのが主だったのだ。
2年にわたる一行の巡業は明治元年12月下旬から翌年の正月にかけてのニューヨーク興行が最後となった。
その際、現地に残った者もいたし、帰国した者もいた。誰が戻ってきたのか名前はわからずじまいだが、それでも3月5日の嵐の日、一座の8名が無事に横浜港に入港したことは確かなようだ。芸人たちの驚いたり驚かされたりの異国巡業はこうして幕を閉じることになる。
【参考文献】
『広八日記 幕末の曲芸団海外巡業記録』 1977年、飯野町史談会
『ニッポン・サーカス物語 海を越えた軽業・曲芸師たち』1993年、白水社、三好一
『異国遍路旅芸人始末書』1978年、中公文庫、宮岡謙二
『海を渡った幕末の曲芸団 高野広八の米欧漫遊記』1999年、中公新書、宮永孝