さてさて、後鳥羽上皇が義時追討の命令を出しましたが、北条政子と義時は上手いこと坂東武者を煽りまくって、反撃に出ました!!
そしてその知らせは、押松丸(おしまつまる)によって後鳥羽院の元に届けられます。
▼「『慈光寺本承久記』を読んでみた」シリーズの過去作はこちら!
押松くん開幕土下座
後鳥羽院の御所の大庭に辿り着いた押松くん。後鳥羽上皇をはじめとした名だたる朝廷の重鎮たちが「押松が義時の首を取って来たって!?」と集まって来ました。
貴族たちが御簾を上げて大庭を見ると、押松くんが土の上に額をこすりつけて土下座しています。そのままじっと動かない押松くんに、藤原秀康(ふじわら ひでやす)が声をかけました。
「押松がこんな晴れがましい時に、大庭に伏したまま黙ってるなんて、らしくないじゃないか。顔をあげてありのままに報告しなさい」
けれど押松くんはやはり動きません。3回ほど声をかけてようやく顔をあげた押松くんは涙を流しながら、鎌倉幕府が攻めて来ることを報告しました。するとその場にいた人々は全員目を伏せて押し黙ってしまいます。そこに後鳥羽上皇が言いました。
「情けないのう、お前たちは。この報告を聞いて黙り込むほど臆病なのに、麿に戦を勧めたのか? 今更どのように説得しようとも、向こうは兵を引くことはないだろう。こちらも兵を揃えて討ち手を差し向けるのだ!」
カッッッコイイ!! これぞ帝王の風格です!! この言葉を聞いて軍事長官の藤原秀康は軍勢を分けました。東海道に7千騎。中山道に5千騎。北陸道に7千騎。
ちなみに鎌倉幕府軍は東海道に7万騎。中山道に5万騎。北陸道に7万騎です。……文字通り桁が違う!!
さらに、京都の最終防衛ラインである勢多(せた=琵琶湖南端)と宇治橋に合計で1400人。そして後鳥羽上皇の御所の警護に千人です。……いや、御所の警護多くね??? 采配が下手すぎる!
なんかもうこの時点で圧倒的に不利な気がしてきました……。これが、経験者と未経験者の差……! でも当時は朝廷の方が圧倒的に不利な立場にあるなんて誰も思っていませんでした。義時ですら慎重に負けた時のことを考えていましたからね!
そもそも、この招集に応じた武士は、京都にいた武士や近畿地方の武士が中心でした。幕府が反撃してくるなんて思っていなかったので、慌てて招集したため、四国や九州の武士たちを呼び寄せられなかったのだろうという意見もあります。
後からは何とでも言えますので、当時の人々の視点に立ってみる事も時には必要ですね。
さらに間の悪い事に朝廷軍は少ない軍勢をさらに木曽川沿いに分散させてしまいました。その陣営は、過去に取材したこちらを参照してください!
実際の陣営地はどこだった?信長が整備した木曽川沿い「承久の乱古戦場」を巡り検証してみた
勝てると思い込んでいる朝廷軍、決死の覚悟で攻める幕府軍。果たしてどうなってしまうのかは、次回へ続く!
▼おすすめ書籍はこちら
承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)