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2022.09.15

国宝・松本城とは?歴代城主や天守・伝説や見どころ概要など解説

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天高くそびえる天守を持つ城は、日本を象徴する風景として人気ですが、魅力はそれだけではありません。戦いを目的に造られた城は、現代の私たちに、当時の戦での攻撃や防御の方法、縄張り(城の設計)や築城技術などを知る手がかりを与えてくれます。また、戦国大名がしのぎを削って奪い合った城をめぐる人間模様やおどろおどろしい伝説など、城には歴史の玉手箱のような、さまざまな出来事があふれているのです!

城を知れば、戦国時代の歴史をより深く理解することができる! と思う「トッキー&くろりん」のくろりんです。お城大好き! 松本潤が主演の大河ドラマ『どうする家康』では、東海地方の城を中心にたくさんの城が登場しそうで、今からワクワクしています!

お城を知ると、『どうする家康』が、より楽しめそうですね!

黒い城の代表格である松本城はその美しさもスタイリッシュ!

今回ご紹介する松本城は、現存する12天守の中の国宝5城の一つで、5重6階の天守を持つ城としては最古のものとされています。錚々たる戦国武将が城主として名を連ね、400年以上の時を経てもなお、その輝かしい姿を現在にまで維持しているお宝中のお宝なのです。

天守には、漆喰(しっくい)の白壁と黒漆を塗った下見板張(したみいたばり)の黒壁がありますが、松本城は、黒壁が全体の7割を覆っていて、そびえる黒が象徴的なお城です。真っ白な美しさを誇る姫路城とは対照的な美しさですよね。

確かに!別名・白鷺城(しらさぎ)城と呼ばれる姫路城も、国宝ですね♡

戦国武将がしのぎを削って奪い合った城

松本城の歴史は、鎌倉時代に守護として信濃に入った小笠原氏が、深志(ふかし)を治めたことから始まります。永正元(1504)年には、小笠原氏の一族であった島立貞永 (しまだてさだなが) が、室町期にこの地を治めていた坂西 (ばんざい) 氏の居館跡に、深志城を築きました。しかし、北信濃へ勢力拡大を狙っていた武田信玄により、天文19(1550)年に攻め落とされ、信玄は侵攻の拠点として城代を置き、その後32年にも及び武田氏の統治となりました。

しかし、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川軍に破れると、徳川家康の援助を得て、再び、小笠原氏が城主となります。小笠原貞慶 (さだよし) の時代に、城を拡張して松本城と名づけました。

その後は天下統一を目指す豊臣秀吉が北条氏を破り、家康が関東移封を命じられると、貞慶も古河へと移り、替わりに8万石を与えられて石川数正 (かずまさ) が入城します。

すごい、目まぐるしい~!まさに奪い合いですね(汗)。

家康と秀吉の間を渡り歩いた男・石川数正が城主に

この石川数正は、もともと家康の腹心であり、徳川家臣団の中心的存在だったのですが、秀吉の家臣へ寝返り、大名へと転身を遂げた人物です。入城後に、すぐに大改修に着手しますが、翌年、出兵中の肥前名護屋で病疫します。その後、城主は子の康長 (やすなが) に引き継がれ、現在の3重4階の小天守部分は、この時代に築いたといわれています。

石川数正のくわしい記事はこちら
天性の知将・石川数正!2人の天下人に仕えたドラマチックな人生を3分で解説

関ヶ原の戦いで、家康が勝利をおさめると、慶長18(1613)年に貞慶の息子で、信州飯田5万石の大名であった小笠原秀政 (ひでまさ) が、松本城に移封となります。秀政は徳川信康の娘を娶っており、徳川家との関係も深いものでした。しかし、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で死去。この松本城は、城主やその家族が亡くなることが多く、不吉な伝説も残されています。

えっ!ちょっと怖い……。

その後、徳川家に代々仕える戸田康長(やすなが)、康直(やすなお)が城主となり、松平直政 (なおまさ) 、堀田正盛 (まさもり)、水野氏6代と徳川家臣が城主を務めることになります。一時期、幕府の直轄地となりましたが、享保11(1726)年に戸田光慈 (みつちか) が6万石で入封。以後、戸田家が幕末まで世襲します。このように家康と関わりの深い家が歴代城主を務めたことになり、それだけ家康にとっても、この松本城は要所だったのでしょう。

戦国時代の戦う城から、見せるための城造りが顕著に

現在、私たちが目にすることのできる松本城は、本丸の東・南・西の三方を二の丸が囲み、さらにこれらの曲輪(くるわ) の周りに、三の丸を配した平城です。城の周りは、東と南を流れる女鳥羽川を堀とし、城下町を囲む総構の様相となっています。松本市民にとって、水面にも映える天守の美しさは誇りであり、昔ながらの街並みを今も大切にしているのが伝わってきます。

荘厳な佇まいを見せる天守は、6階の大天守を中心に、右に3重4階の乾(いぬい)小天守があり、大天守と小天守を繋ぐのが渡櫓(わたりやぐら)となっています。左には、寛永年間(1624-44)ごろに増築された月見櫓とそれを繋ぐ辰巳櫓が建てられ、複合式という珍しい形状の城となっています。これは、城主が変わる中で、何度も改修が行われたためです。一つの城の中にその時代、時代の築城技術が見られるのも松本城の魅力といえます!

なるほど!時代ごとの技が堪能できるのですね!これは、実際に見てみたいなぁ。

本丸へ入るための御門。門の屋根には、歴代城主の家紋の付いた軒丸瓦を見ることができる

最後にお城に伝わる伝説を2つご紹介

玄蕃石(げんばいし)と呼ばれる松本城最大の重さ、約22.5トンの石が太鼓櫓に使用されています。これは数正の息子であった康長が自ら、城まで運んだと伝えられている石です。その際、働き手の中に、石を運ぶことに文句を言った者がいて、その者の首を康長が撥ね、見せしめにしたと伝わっているのです。康長の名であった石川玄蕃康長の名前から『玄蕃石』と呼ぶようになったとか。父である数正が亡くなり、急ピッチで城造りが進められていたので、いろいろなプレッシャーや苛立ちがあったのでしょうか。そう思ってみると、ちょっと怖いですね。


鐘や太鼓が備え付けられ、家臣に情報を伝える時に使われた太鼓門。石川時代に建てられたといわれ、門の奥正面に見える太鼓櫓に使用された巨石が『玄蕃石』

もう一つは、家康に仕えて城主となった戸田康長にまつわる伝説です。康長は家康の娘である松姫と結婚しますが、松姫は24歳で亡くなり、息子の永兼も体が弱く、家督を継ぐことができませんでした。代わりに母親違いの弟であった康直が城主となります。この頃から、戸田家には不幸が続き、松姫の祟りではないかと恐れた康直が、永兼の霊を陽谷霊社に祀ったと伝えられています。母の息子への思いはいつの時代も強いのですね。

お城には、まだまだ多くの城主たちの伝説が残っていますので、そんなことを思い浮かべながら、お城を訪ね歩くのも一興です。

お城に関わる伝説を知ると、見方が変わりそうです。お城って、ドラマチック!

主な参考文献:デジタル版『日本大百科全書』
       デジタル版『世界大百科事典』
       デジタル版『国史大辞典』

国宝 松本城

住所:長野県松本市丸の内4番1号
開場時間:8:30~17:00(最終入場 16:30)
*時期により変動あり。年末を除き無休
国宝・松本城

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書いた人

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ、有名な戦国武将が、愛知県をはじめ東海エリアから多数輩出されていることから、歴史の入り口は東海にあり!と勝手に燃えているにわか歴女。思い込みと圧が強いことから、高木編集長より「圧女くろりん」と命名される。しかし本人は、まじめに「目指せ!歴女への道」をスローガンに「歴女くろりん」と改名できるよう日々、精進中。

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幼少期より祖父と共に大河ドラマを見て育つ。毎回、感情移入しすぎるので、最終回と共にロスがひどいのが悩み。『どうする家康』を盛り上げるべく、くろりんと共に、トッキー&くろりんを結成。