海が好きで、様々な海に行くたびに「その味」を確認します。少しだけ舌に乗せて、大きく鼻から息を吸って。完全に感覚でしかないのですが、海にはそれぞれの味があって、その土地の表情を顕著に表してくれるように思うのです。
だからはじめて能登の揚げ浜式製塩法によって作られた塩を舐めた時、「これは海だ……!」と衝撃を受けました。キリっとした塩味に、時間をかけてじんわりと続く柔らかなうまみ。それは青々と深く、どこまでも続く能登の海のようで、喉奥にさざ波が広がっていくような不思議な感覚でした。
「塩は海のうつくしき結晶」。シンプルで、でもキラキラと愛おしいその事実を感じさせてくれる揚げ浜式製塩法による塩。そんな塩と、塩づくりに情熱をかける一人の女性についてご紹介していきたいと思います。
里海と太陽と人の手でつくる 奥能登の揚げ浜式製塩法
揚げ浜式製塩法とは、その名の通り「塩田」と呼ばれる砂浜に海水を汲み上げるという製塩法のこと。500年以上も前から能登に続く伝統技術です。
日本各地には様々な塩づくりの方法がありますが、その中でも揚げ浜式は特に労力のかかる製塩法。しかし天候や地形に恵まれた土地ではない能登では、この自然の恵みをフルに活用した製塩法が最も適したものであり、時を超え連綿と受け継がれてきたのです。
では揚げ浜式製塩法ではどのようにして海水から塩を作り出すのか……その技術をみていきたいと思います。
揚げ浜式製塩法ではまず、海水をかけて固めた「塗浜」という土間のような場所をつくり、そこに砂をまき「塩田」をつくります。そして海から汲んできた海水をまき、太陽と風の力で蒸発させ、砂に塩を付着させるのです。
砂が乾燥したら、その砂を集めて「垂船(たれふね)」という木製の箱に入れ、そこに海水を注ぎ、塩分濃度の高い「かん水」と呼ばれる海水を作ります。
塩の結晶化が始まるのは塩分濃度25%程度(普通の海水は約3%)。もしも海水から直接塩をつくろうすれば、塩分濃度を上げるために長い間燃料を焚き続ける必要が生じてしまいますが、自然の力を借りて「かん水」(塩分濃度約17%)を作ることで、より効率的に塩を結晶化させることができるのです。
かん水が出来上がったら、次は塩の炊き上げ工程へ。平釜で煮詰めてさらに塩分濃度をあげていきます。まずは8時間、そして不純物を取り除いてさらに16時間。火加減を調整しながら丁寧に丁寧に炊き上げていくことで、釜の中に輝く結晶が出来上がるのです。
時間と労力をかけることによって生まれる、揚げ浜式製塩法の塩。その塩の粒はザリザリと大きく、海の恵みをたっぷりと含んだ味わいがします。能登の沖合は寒流と暖流が交わる場所。それ故、ミネラルバランスがとてもいい「海の結晶」ができあがるのです。
能登半島の塩づくりの歴史
揚げ浜式製塩法の塩づくりは過酷であり、人力がかかる方法。しかしこの製塩法だけが全国で唯一、途切れることなく現在まで受け継がれてきた塩づくりの技術なのです。
ではそもそもなぜ能登半島で塩づくりが盛んになったのか、そして日本の塩づくりには一体どんな歴史があったのか……江戸時代まで遡ってみていきたいと思います。
能登半島という場所は平地が少なく、稲作に不向きな土地。それ故古くから人々は塩づくりをして暮らしていましたが、決して豊かな状況ではありませんでした。江戸時代、加賀藩はそんな能登の状況をみて塩の専売制度、そして「塩手米制度」を導入します。
「塩手米制度」とは、塩づくりをしている農民に対し米を貸しつけ、この代金を塩で返すというもの。これによって貧しかった能登の人々の暮らしは潤い、塩づくりをすることで生計をたてることができるようになったのです。こうして能登は「塩を作るしかなかった土地」から、「塩を作ることで潤う土地」へと変わり、塩づくりは一層盛んになっていったのです。
しかし明治維新の「廃藩置県」をきっかけに、能登における、そして日本における塩づくりは大きく変わっていくことになります。
それまでは各地で様々な塩づくりが行われていましたが、1905年(明治38年)、塩が国の専売制度へと移行。国の方針が「生産性の低い製塩法は整理していく」というものになったことにより、日本全国にあった塩田はどんどんと消えていってしまったのです。
そして1959年(昭和34年)には海水からの直接製塩が禁止。これにより塩田による塩づくりをすることはできなくなり、日本中の塩田は消滅の一途を辿っていったのです。
そんな中、能登の揚げ浜式塩田3軒だけは「伝統技術の保存と観光を目的」として海水からの製塩を許されていました。しかし残された能登の3軒も、厳しい戦いを迫られ続けることに変わりはありませんでした。手間やコストをかけて塩を作ったところで、塩は国の専売制。工場にて、効率的に海水から塩味だけを取り出した安価な塩に対抗することは難しく、1軒、また1軒と廃業に追い込まれていきました。
そんな中で唯一「角花家」だけが、夏は塩づくり、冬は出稼ぎにでかけ、日本唯一の揚げ浜式塩田の歴史を紡ぎ続けていったのです。
伝統とは進化するもの。「異端児」と呼ばれた一人の女性の挑戦
角花家が塩田による塩づくりを続けていく中で、日本の塩文化は1997年に再び大きな転換点を迎えます。それは国による専売制の廃止。この年を皮切りに、国によって管理されていた塩づくりが徐々に自由化され、各地で伝統的な塩づくりが復活していったのです。
ところが……残念なことに能登の揚げ浜式製塩法はなかなか復活することはありませんでした。途絶えることなく続いてきた能登の伝統技術。しかし自然と対峙する必要性、過酷な労働条件などにより、揚げ浜式製塩を新たに始めよう!という担い手がいなくなってしまったのです。
そんな中、2009年に外から能登に入り、揚げ浜式塩田の復活に挑戦し始めた一人の人物がいました。彼女の名は中巳出 理さん。まっすぐに伸びた背筋に、強い光を持つ目が印象的な女性です。
石川県に生まれ、伝統文化を叩きこまれて育ったという中巳出さん。「女性は良妻賢母であるべきだ」という時代において、しかし自身の中の炎の声に従い、現代アート彫刻家へ、そして経営者への道を進んでいきます。そんな彼女は60歳を越え、地元石川県の魅力を伝えるために株式会社Anteを設立。能登の揚げ浜式塩田に関する事業をスタートしたのです。
長い歴史を持つ揚げ浜式塩田復活にはどのような苦労があったのか、そしてどのような想いでそこに向かったのか……揚げ浜式塩田にかける想いを、中巳出さんにお伺いしました。
――揚げ浜式の塩田の復活に立ち上がったきっかけはなんだったのでしょうか?
中巳出さん:能登の塩づくりの魅力をより多くの人に知ってもらいたい、その想いが能登の塩事業に携わることになったきっかけです。
わたくしは地域の特産物を使用し、地域活性化を目指すために、地サイダーを作る会社を2009年に設立しました。設立前年の2008年に能登の揚げ浜式製塩法が重要無形民俗文化財に登録されたのですが、当時この伝統技術はほとんど世間に知られていない状況。そこでまず揚げ浜塩を使用した、海の恵みたっぷりの「奥能登地サイダー しおサイダー」を作り、能登の伝統文化発信に挑んだのです。
厳しくも美しい能登の自然。そしてそこで生まれる塩には、能登の文化と自然、歴史や人の思いさえも詰まっていて、わたしはどんどんと塩にのめり込んでいきました。
しおサイダーを作ったあとは、この塩の魅力をさらに伝えるべく、奥能登の限界集落に「しお・CAFE」を開業。こうして塩に関わるうちに「自分の手で揚げ浜式塩田を復活させたい」という想いが強くなり、能登で塩づくりをすることに決めたのです。
――揚げ浜式の塩田を復活させる上で大変だったことはありますでしょうか?
中巳出さん:能登は小さなコミュニティであり、村社会。わたしは能登の出身ではないので、揚げ浜式塩田の技術を「よそ者」に教えるということに難色を示す方もいらっしゃいました。
自分たちの伝統技術は守りたいけれども、それはよそ者がやるのはまた違う。そういった摩擦がやはり大変でしたね。そのような中でジッと辛抱しながら、地域の方々と関係性を構築し、塩田復活に向けて準備を進めていきました。
――それはいろいろと大変そうですね……塩田復活に向けては具体的にどのようなことを行っていったのでしょうか?
中巳出さん:まずは塩田をつくるために、1,000坪ほどの土地を借りました。そこは断崖絶壁であり、長らく放置されていたため、草ぼうぼう。そこを能登の業者さんに入ってもらい開墾していきました。そして技術に関しては、能登の揚げ浜式の塩田に弟子入り。能登の伝統技術を習得していきました。
――そして貴社のによる、揚げ浜式製塩法が始まるのですね。塩づくりをする上でなにかこだわりなどはあるのでしょうか?
中巳出さん:そうですね。わたくしたちの塩づくりとは「伝統」と「革新」の融合。先人が継承し続けてきたこの伝統を守りながら、新たな挑戦もしていきたいと思っております。
――「伝統」と「革新」の融合、これは一体どういうことでしょうか?
中巳出さん:少し自分の話にはなりますが……わたくしは小さな頃から伝統文化を叩きこまれて育ってまいりました。それ故伝統に対する畏敬の念はとても強く、だからこそ「伝統を守るとはなんぞや」ということをずっと考え続けてきたのです。
生け花にしても茶の湯にしても、伝統というものは常に進化し、クリエイティブであってこそ受け継がれていきます。ただ継承するのではなく、その時代にあわせて進化していくことで伝統というものは持続可能になると思うのです。ですので、揚げ浜式製塩法の伝統技術を大切にしつつも、現代にあったやり方を取り入れて塩づくりをしております。
例えば汲み上げた海水は、塩田に撒く前にフィルターを通しております。江戸時代の能登の海はとても美しかったと思いますが、現在においてはマイクロプラスチック問題が深刻。ですので汲み上げた海水を1ミクロンと5ミクロンの特殊なフィルターに計4回程通して、マイクロプラスチックをすべて除去した状態で浜に撒いております。
揚げ浜式製塩法と聞いて思い浮かぶイメージといえば、海から桶で海水を汲み、それを浜でバシャンと撒く「潮撒き」かと思います。もちろんそれはシンボルとして大切にはしますが、それを現代にあった持続可能な方法にすることが大切だと考えているのです。
伝統を守ることの真髄は、形式を守ることではなく、その伝統を持続可能なものにしてその土地に残すこと。なので伝統は常に進化をしていく必要があると思うのです。
――それが伝統を守りながらする、新たな挑戦ということなのですね!
中巳出さん:はい。環境も時代によってかわるので、それに応じた「今」の伝統をつくっていく必要があると思っております。
強く持っている想いは、「里山と里海の恵みを活かした塩づくり」を継承していくこと。そのためにやりたいことはたくさんありますし、この命が尽きるまで走り続けたいと思います。
生きた文化としての揚げ浜式製塩法
中巳出さんが目指すものを一文字で表すのだとしたら……それは「守」なのだと思います。日本で唯一途切れることなく続いてきた、揚げ浜式製塩法の塩づくりを「守る」こと。そしてこの伝統技術による美しい塩を生み出してくれる、海や山を「守る」こと。
だからでしょうか、中巳出さんの塩田によって生み出された塩「DENEN」は、とても深い優しさのような味わいをも感じる気がするのです。
伝統を形骸的にではなく、いきた文化として後世に引き継いでいく。これは伝統文化の世界に育ち、そこから飛び出した中巳出さんだからこそ見えた世界なのだと思います。白く輝く揚げ浜式製塩の塩づくり。このひとつの文化が今後どのように日本に、そして世界に広がっていくのか楽しみで仕方ありません。