栃木県日光市の華厳の滝、和歌山県勝浦町の那智の滝、茨城県大子(だいご)町の袋田の滝を日本三名瀑(にほんさんめいばく)というそうだ。
日本の滝ベスト3である。
古来、滝は日本人を魅了し、和歌にも数多く読まれてきた。
中でもよく知られているのは、『百人一首』の55番に登場する大納言公任(だいなごん きんとう)が詠んだ、この歌だろう。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
「滝の流れる音が聞こえなくなってもうずいぶんになるけれど、かつての名声は絶えることなく語り伝えられて、今もなお聞こえてくることだよ」
滝にちなんだ伝説や昔話も多い。鳥取県には、小泉八雲の怪奇文学作品集『骨董(こっとう)』に登場する「幽霊滝」が実在する。この話はかなり怖い…
気になる方はぜひ、読んでいただきたい。
『養老の滝』として語り継がれている昔話はご存じだろうか?
お酒の好きな父を思う孝行息子の真心が天に通じ、滝の水がお酒に変わったというハッピーエンドのストーリーだ。
ちなみに居酒屋フランチャイズの草分けともいえる大手居酒屋グループの創業者はこの昔話に感銘を受けて、店名を「養老乃瀧」としたようだ。
ところで昔話『養老の滝』が広く知られるようになる以前、「多度山(ここでは、現在の養老山地)の美泉」のうわさを聞き付けた元正天皇が養老を訪れたと記録には残る。これが昔話『養老の滝』のルーツではないかと考えられるのだが、「多度山の美泉」すなわち「養老の美泉」のありかをめぐり、江戸時代に大論争が勃発した。
美泉=養老の滝説を唱えたのは、飛騨高山の国学者・田中大秀(たなか おおひで)。
一方、美泉=菊水泉であるとして譲らなかったのは、尾張の漢学者・秦鼎(はた かなえ)。
二人は門人たちをも巻き込んでたいへん激しい言論バトルを繰り広げ、いまだに結論は出ていない。
はたして滝か、泉か。論争の元を紐解きながら、昔話の世界にDIVE!
※アイキャッチ画像は、葛飾北斎『諸國瀧廻リ・美濃ノ国養老の滝』(部分)シカゴ美術館
田中大秀VS秦鼎 門人たちもあきれた大先生たちの言論バトル
美泉をめぐる二人のバトルがいったいどのようなものであったのか。
人物像も絡めながら、まずはそれから見ていこう。
田中大秀は飛騨高山の薬種商の家に生まれた。本居宣長に師事した国学者である。文化14(1817)年には家業を譲って隠居の身となったが、その後も神社の再興などに尽力し、師である宣長の37年祭を営み、その略伝を記すなど幅広く活躍した。
一方の秦鼎は大秀よりも少し年上だった。美濃の出身で漢学の素養があり、高い学識を身に付けていた。尾張藩の藩校であった明倫堂(めいりんどう)の教授を務め、特に文章本来の姿を探るため、本ごとに異なる表記を比較検討していくことを好んだという。
二人の間でバトルが始まったのは、文化11(1814)年ごろからだとされる。
文化12(1815)年、養老の滝を見るために田中大秀は高山を出発。弟子たちを伴って初めて養老の滝を見た大秀はたいそう感激したようだ。そこでかねて用意してあった『養老美泉辨碑(ようろうびせんべんひ)』を滝のそばに建て、自分の正しさをアピールした。
ところがこれで収まらないのが秦鼎に味方する人々である。
彼らは田中大秀亡き後、その碑を打ち壊し、名古屋の書店に保管されていた大秀が執筆した『養老美泉辨註(ようろうびせんべんちゅう)』の版木の一部を削り取ってしまうという暴挙に出た。
その後明治になってから、高山で保管されていた大秀の碑の拓本を元に再建した石碑が今に残っている。
秦鼎も文化13(1816)年、菊水泉のそばに「菊水銘碑」を建てている。養老の滝と菊水泉は目と鼻の先といっていい距離にある。
この時彼は近隣の門弟たちを招いて華やかな宴を開催したという。
どちらも養老の山の水に変わりはないわけで、「どっちだってえ~やん」といいたくなるのだが、偉い先生方にとって、こういう論争は火が着いたら止まらなかったらしい。二人の共通の弟子である養老の早野有章(はやの ゆうしょう)という人の家には、双方からの手紙が遺されている。
また、二人の言論バトルに対し、弟子が述べた感想が漢詩として残っている。
養老霊蹤何処求 養老の霊蹤(れいしょう)何の処(ところ)にか求めん
或称菊水或飛流 或(あるい)は菊水と称し或は飛流
近来諸哲争非是 近来(きんらい)諸哲非是(ひぜ)を争う
喧似渓雷鳴不休 喧(けん)なることは渓雷(けいらい)の鳴りて休まざるに似たり
出典:『養老美泉』養老町教育委員会
二人のバトルがヒートアップしてやかましいことといったら、常に渓雷がゴロゴロ鳴り響いているかのようだというのである。
弟子たちにとっても大先生二人の論争は耳を塞ぎたくなるほどだったのだろう。
滝のそばに設置されている案内板には「もともとは滝の瀬として一つの流れでした」と書かれ、現在は両方とも仲良く「名水百選」の一つに選ばれている。
現地見学! 葛飾北斎はじめ多くの文人墨客に愛された養老の滝と菊水泉
それでは実際に現地を歩いてみよう。
養老の滝は濃尾平野の西方にそそり立つ養老山地の麓にある。
古戦場で有名な関ケ原町から滝のある養老町までは車で15分ほどだ。
滝一帯は養老公園となっており、荒川修作と彼のパートナーであるマドリン・ギンズの構想を実現したテーマパーク「養老天命反転地」も近くにある。
滝までは、大垣―桑名間を結ぶ養老鉄道養老線の養老駅から徒歩で約50分、養老の滝入り口にある駐車場からは徒歩で30分程度の距離である。
滝の流れは滝谷川となって流れ落ち、やがては濃尾平野へと注いでいる。
公園の最奥にある養老の滝。標高約280mに位置し、高さ約30m、幅約4メートル。「日本の滝百選」にも選ばれている名瀑だ。
葛飾北斎が描いた『諸國瀧廻(めぐ)リ・美濃ノ国養老の滝』。全国の有名な滝を描いた大判錦絵全8枚のうちの1枚だ。滝つぼめがけて滔々(とうとう)と流れ落ちる水音が聞こえて来そう。岩に当たって飛び散る水しぶきの描写もリアル。今は滝つぼの周辺は平地になってすぐそばまで近づくことはできるけれど、江戸時代はどうだったのだろう。北斎が養老の滝を見に来た記録はないようなので、想像力の産物だとは思うが、実物以上の迫力で、何よりとても美しい。
一方の菊水泉は養老の滝からほど近い養老神社の境内にある。
養老町の観光協会によれば
菊水という名は昔不老長寿に効めがあると宮中の儀式などに菊花を浮かべた菊酒を飲むのが流行し、元正女帝が行幸されたころ泉の水に菊の香りがすると評判になり「菊水」と呼ばれるようになったともいい、又「くくりむすぶ」水即ち世の中を治める水と伝承されています。
とのことだ。地下水が大変豊富で、そこら中からゴボゴボと湧き出す水音が聞こえてくる。池から直接水は汲めない。養老神社の下の方で取水ができる。
昔話『養老の滝』はどうやって生まれた?
孝行息子の名は源丞内(げんじょうない)?!
それでは昔話『養老の滝』を改めて見てみよう。
むかし、元正天皇のころ、 養老山麓に貧しい父子が住んでいました。息子は薪を採り、一生懸命年老いた父を養っていましたが、父の好きな酒までは十分に用意できませんでした。
ある日、息子が山に働きに出て、滝を眺め、「あの水が酒であったらなあ」と思ったとき、あやまって石の上ですべってしまいました。その時どこからともなく、酒の香りがただよってきたので、不思議に思いあたりを見回すと酒に似た良い香りが漂ってくる。不思議に思いあたりを見回すと、石の間の泉から本当のお酒が湧き出ています。息子は大変喜び、酒をひょうたんに汲み帰って父に飲ませたところ、父も大変喜びました。
この話をお聞きになった天皇は、これは息子の感心な行いを天地の神々がおほめになったものであるとおおせになり、息子を役人にとりたて、このめでたい年を記念して元号を養老と改めました。≪養老孝子源丞内の会≫
これは公園内に設置された看板に書かれているお話だ。「養老孝子源丞内」とあるのは、孝行息子の名前が源丞内と伝えられているからである。
実は昔話『養老の滝』にはバリエーションがいくつかあって、これはその一つだ。
孝子源丞内の名前は、養老寺というお寺の縁起(えんぎ 由来)を記したお話に初めて登場する。
源丞内は元正天皇の時代に養老寺を開いたとされ、境内には源丞内の墓と伝えられるものが存在する。
創建当時は法相宗(ほっそうしゅう)の寺院だった。中世には養老山麓の東側には養老寺をはじめとする多芸七坊(たぎしちぼう)と呼ばれる山岳仏教寺院が栄えたと伝えられているが、織田信長によって焼失した。養老寺は後に場所を移して再建され、浄土真宗の寺院となって現在に至っている。多芸(多伎、当伎、当耆などとも書かれる)とはかつて養老の辺りに存在した郡の名前で、かなり広域に渡っていたようだ。今でも地名として残っている。多岐という名前は、その昔この辺りを通ったとされるヤマトタケルの伝承が元になっている。
世阿弥も書いた謡曲『養老』
時代を少し遡ってみよう。
能楽の大成者である世阿弥も謡曲『養老』を書いている。
時代は元正天皇よりもはるか昔。美濃国の滝のほとりに霊泉が湧き出たとの話を聞いた雄略(ゆうりゃく)天皇は、勅使(ちょくし)を現地に遣わして事実を確かめさせようとする(雄略天皇は第21代の天皇で、ほぼ実在したことが確かめられている最初の天皇とされている)。そこへ現れた、森で木を切り生活をしている親子から、親孝行の徳が天に通じて泉が湧き、その泉の水を飲むと元気になり活力もわいてきたので養老の滝と名付けたことを聞く。話に心を打たれた勅使が急いで都に帰って天皇に報告しようとすると、妙なる音楽が鳴り響き、天上から花が降り、やがて養老の山の神が姿を現す。そして世の中の平和と天皇の治世を祝い、舞を舞いながら天に帰って行く。幽玄で壮大なファンタジーだ。
親孝行の功徳で、薪拾いから国守に大出世!
昔話として親しまれている『養老の滝』だが、最初に世に出たのは、鎌倉時代に成立(序文によれば1252年成立)した『十訓抄(じっきんしょう)』だった。
これは幼い子どもたちに立派な人間になるための教えをわかりやすく説いたもので、その中の説話の一つである。
続いてほぼ同時期(1254年)に成立したと考えられる『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』にも、『十訓抄』とほぼ同じ内容の説話が登場する。
こちらは王朝貴族社会が生み出したさまざまな説話をジャンル別にまとめたものだ。
二つともほぼ同じ内容なので、ここでは『古今著聞集』をあげておく。
ざっくり現代語に直すとこんな感じである。
昔むかし、元正天皇の時代、美濃国(現在の岐阜県)に貧しい男がいた。男は野山に入って薪を採り、それを売って年老いた父親を養っていた。父親はたいそう酒が好きで、男は常に腰にヒョウタンを下げ、稼いだお金で父のために酒を買いに行った。ある時、薪をとっているとうつぶせに転んでしまった。すると酒の匂いがしたので不思議に思って辺りを見回すと石の間から水がこんこんと流れ出している。その水の色が酒に似ていた。汲んでなめてみると、まさしくそれは酒であった。男はたいそう喜んで、その後は毎日父のために酒を汲んで持って帰った。この話を伝え聞いた天皇は、霊亀(れいき)3年9月にその場所へ行ってご覧になった。これは天の神様が親孝行な男に感心されてのことだろうとお思いになり、男を美濃守(みののかみ)にされた。男の家は豊かになり、ますます親孝行を尽くした。そこで、その酒の出た所を養老の滝と名付けられた。この事があってその年の11月、年号を養老と改められた。
なんと!親孝行な男は美濃守に大出世していた。
親孝行をすれば良いことがある。立身出世し、リッチになれる。
『十訓抄』、『古今著聞集』の普及により、『養老の滝』は親孝行の功徳と共に日本中に知られるようになったのだ。
元正天皇の養老行幸 女帝を感動させた養老美泉
親孝行は昔からとても良い行いであり、子どもとしてあるべき姿として伝えられてきた。
その背景にあったのは儒教である。
自分を育ててくれた親に孝行する国民性を養うことは、政治を行う上でも都合がよかったのかもしれない。
さて、この話にはフィクションと史実が混在している。
水がお酒に変わった云々はともかく、元正天皇の養老行幸と改元は史実である。
なぜ、天皇は養老に来たのか。そして、養老でどんなことを体験したのだろう。
それを裏付けるのが『続日本紀(しょくにほんぎ)』という歴史書に書かれた記録である。
同書は『日本書紀』に続いて編纂された国史だ。
『続日本紀』によると、元正天皇が見たのは「多度山の美泉(養老美泉)」である。天皇はただ見物しただけではなく、泉の水で手や顔を洗ったところ、肌は滑らかになり、痛むところを洗ったら治ってしまった。また美泉に行って水を浴びたり、飲んだりした者は白髪が真っ黒になり、目もよく見えるようになった。そして、さまざまな病気やケガも治ってしまった。昔、中国の後漢の光武帝の時代(紀元1世紀前半)、醴泉(れいせん 太平の世に湧き出たという美味な泉)が出てこれを飲んだ者は病気も治ってしまったという。天皇は「多度山の美泉もこの醴泉と同じ効能があるのだから、この水を飲むことで年老いた体をいたわり、元気でいるのがよかろう」とおっしゃって、「多度山の美泉」を大瑞(だいずい とてもめでたいこと)とされ、霊亀3年を養老元年と改め、天下の80歳以上の老人に位一階(いっかい)を与え、100歳以上の老人には絹織物や綿、布、粟(あわ)を与えるなどした。美濃の国司と当耆郡司(たぎぐんし 現在の養老郡を含む一帯を治める役人)などには位一階を与え、当耆郡の来年の税を免除した。美濃守で従四位下(じゅしいげ)であった笠朝臣麻呂(かさのあそんまろ)は従四位上となった。その後、美泉の水を汲んで京都に運び、それで酒を造らせたという。
多度山の美泉が実際に養老山地のどこにあったのか、その場所は明らかにされていない。
滝とも泉とも解釈できる。
だからこそ、田中大秀と秦鼎の論争の的になったのだ。
元正天皇と美濃の浅からぬ関係
改元には理由が必要だ。その一つとして、めでたい兆しがあったので改元するというものがある。
実際、養老の前の元号である霊亀も、元正天皇が即位の際にめでたい亀が献上されたとの理由で改元に至っている。
多度山の美泉は確かに大瑞だったかもしれないが、美泉のある当耆郡の人々の優遇ぶりがすごい。
改元によって税金を免除されたり、美濃守・笠朝臣麻呂には階位まで与えられている。
しかも元正天皇は翌年、再び美濃を訪れている。よほどこの美泉が気に入ったのだろうか。
天皇は女帝で生涯独身を貫いた。「多度山の美泉」を訪れた当時は30代後半。ピチピチではないにしてもまだ衰えるというほどではない。
でも少しずつエイジングは始まっている。
多度山の美泉はアンチエイジングのコスメにも勝る美泉だったのかもしれない。
ところで、朝廷と美濃との縁はこれだけでは終わらない。
740(天平12)年、今度は聖武天皇が美濃を訪れている。
当時、聖武天皇は東国各地を行幸している途中だった。
天皇家の長い歴史の中でなぜ、この二人は平城京から近いとはいえない美濃の養老を訪れているのか。
それは二人が天武・持統両天皇の系譜に連なる人物だったからかもしれない。
天武天皇といえば、甥の大友皇子(天智天皇の子)と戦った壬申の乱の勝利者である。当時は大海人皇子だった。
この時、皇子の本陣は野上(のがみ 現在の関ケ原町の一部)に置かれ、辺りには大海人皇子の私領があるなど、美濃には皇子の勝利に貢献した人々がたくさんいた。
細かいことは省くが、元正天皇は両天皇の孫であった。そして、聖武天皇は元正天皇の甥にあたる。血縁は極めて濃い。
元正・聖武天皇の二人にとって美濃は自分たちの味方であり、もしもの時のために政治的に押さえておきたい重要な拠点だったのかもしれない。
長く語り継がれる昔話の捉え難い魅力
『続日本紀』に孝行息子の話は登場しない。
親孝行の話は後世の創作だろう。話を世間に広く流布させるには話題性とストーリー性が必要である。
フィクションを付け加えることで、「養老」の名から老人を養うことを連想して、年老いた親に孝行する息子を登場させたのかもしれない。
しかし、本来の養老とは老いを養う(年老いた体を労わる)という意味だ。
もう一つ考えられるのは、美濃守・笠朝臣麻呂という男の存在だ。
笠朝臣麻呂は実在の人物で生没年不詳。719(養老3)年には尾張・参河(するが)・信濃3国の按察使(あぜち 地方行政の監督官)となっている。
出家後の名前は沙弥満誓(しゃみまんせい)といい、『万葉集』にも歌が残っている。
彼は国司としてとても有能だったようだ。立身出世した男として孝行息子のモデルにされたのかもしれない。
昔話は本来口承文芸(こうしょうぶんげい)と呼ばれる口伝えで受け継がれてきた文芸の一種だ。
養老の滝も菊水泉もたくさんの地下水脈とつながっているように、昔話にもその土地の風物や歴史など長い間にいろいろな要素が加わって新たな魅力が生まれ、やがて一つの流れとなって次の世代に受け継がれていく。人が介在しているからこそ生まれる文化だ。
≪参考文献≫
『養老美泉』養老町教育委員会
『ふる里養老』養老小学校編
『養老町の歴史文化資源 養老ナビ』