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2022.11.18

ディープな奈良の仏像巡り・東京藝術大学教員同行ツアーを密着取材!その2

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東京藝術大学では、主に美術学部の学生を対象に、寺社に伝わる古美術作品に触れる現地研修を続けています。この古美研のノウハウを取り入れて、一般に向けた、古都・奈良の仏像を巡るツアーが初めて開催されました。この貴重な1泊2日の旅の様子をお伝えします。関西人の私は、子どもの頃から遠足や家族旅行で奈良に来ることはありましたが、こんなに深く掘り下げる旅は初めてでした。

▼1日目の様子は、こちらをお読み下さい
ディープな奈良の仏像巡り・東京藝術大学教員同行ツアーを密着取材!その1

古美研の人気の場所をチョイス!

2日目の旅のガイドは、東京藝術大学美術学部教授、古美術研究施設・施設長の松田誠一郎先生です。奈良時代の仏像の研究を長年続けてこられていて、中学生の頃から1人で奈良を旅するほどの、筋金入りの仏像好き。歴史的な背景から仏像の魅力を紐解く松田先生のガイドは、当時へタイムスリップした気分が味わえそうです。

今回のツアーの行き先に関しては、松田先生を中心に先生方で吟味されたのだとか。「学生たちに人気の場所を選びました」。初回にして、エース級の場所だったのですね。!!

写真提供:やまとびとツアーズ

松田先生が古美研について語っているインタビュー記事も、是非お読み下さい▼
まるで謎解き?仏像研究と藝大の古美研、歴史と向き合うことで見えてくるもの

庭園が美しい円成寺

専用バスでまず向かったのは、円成寺(えんじょうじ)。境内に入ると最初に目に入るのは、門の前に広がる庭園です。水をたたえた池が広がり、池の中ほどには島が造られ、その先に見える本堂の姿が美しいです。ただ重要文化財の本堂は、修復工事の真っ最中。そのためにシートで覆われていました。しかし、これも建物や古美術作品を守るためには必要な作業ですね。無事に完了したら再び訪れて、景色を眺めたいと思います。紅葉の時期の風景も格別なのだそう。

写真提供:やまとびとツアーズ

松田先生に勧められて、本堂から見える庭を写真に収めました。気持ちの良い晴天で、木々の美しさを一層感じられます。円成寺の縁起は『和州忍辱山円成寺縁起(わしゅうにんにくせんえんじょじうえんぎ)』によると、天平勝宝8(756)年に聖武天皇・孝謙天皇の勅願により、唐僧の虚滝(ころう)和尚が開山とあります。しかし史実的には、本書の中で中興の祖とされている命禅(みょうぜん)上人が、万寿3(1026)年に十一面観音を祀ったのが始まりのようです。現在の建物は、室町時代の応仁の乱後に再建されたものです。

本堂に安置されている阿弥陀如来を拝むことが出来ました。「平安時代の後期に造られた仏像ですが、穏やかなお顔ですね。光背が二重円になっていて唐草模様の透かし彫りなのですが、当時のままの状態で残っているのは、大変珍しいです。ちょっと背中を丸めてリラックスした様子に見えますね。学生たちに説明する時は、炬燵(こたつ)でおばあちゃんがみかんを食べている感じと説明するのですよ」。なるほど、イメージしやすいですね。この座り方は定朝(じょうちょう)※1がはじめた表現だそう。8世紀や9世紀の仏像は違うと聞くと、時代の移り変わりが感じられます。1日目に鑑賞した仏像は一木造りでしたが、この阿弥陀如来は寄木造り(よせぎづくり)※2。一木造りでは大木が必要ですが、この方法だと比較的小さな材で巨像を造ることができます。この方法も、定朝によって確立されたそうです。

※1:平安後期の仏師。興福寺、平等院などの造営に従事。仏師の社会的地位を向上させた。
※2:仏像の頭部と体部の根幹部を、同じくらいの大きさをもつ複数の木材をはぎ合わせて制作する技法。

若き運慶が造った大日如来坐像

続いてお待ちかねの仏像との対面です。その像とは、ツアーのzoom事前講座で、東京藝大OBで彫刻家・修復家の藤曲隆哉(ふじまがりたかや)さんが解説して下さった大日如来坐像。作者が運慶※3と聞くと、何だか胸が高まります。平成29(2017)年に新設された相應殿(そうおうでん)に入ると、間近で拝むことができました。運慶が生まれたのは、先ほど見たゆったりした定朝様の仏像が主流だった頃。けれども、この仏像は全く印象が違っていて、凜とした佇まいです。

「この仏像は、20代の運慶が造ったと考えられます。仏像の表現にもそれにふさわしい瑞々しさが感じられます。台座には『大仏師康慶実弟子運慶』との署名がありますが、康慶とは運慶の父のことで、実子であると同時に弟子だったので、このように書いたのでしょう」。当時は仏師が自分の造った仏像に自ら署名を加える習慣が無く、この署名が日本で最初のものと考えられています。「この仏像は制作に11か月かかっています。この大きさの像としては長い期間なので、そこに運慶の試行錯誤のあとをうかがうことができるかもしれません」

写真提供:やまとびとツアーズ

藤曲さんは東京藝術大学大学院の修士課程に在籍していた時に、この大日如来坐像の模刻(もこく)※4に取り組み、修士論文ではその経験から、運慶のある挑戦を解明することに成功しました。指導教官だった松田先生は、当時を振り返ります。「3D計測データなど最新の技術を使って、像内に「冷凍保存」されていた運慶の制作工程を解凍したのです。これは古典技法によって実物を再現制作する技能があったからこそできた訳です」

大日如来坐像(国宝) 奈良・円成寺 平安時代(運慶作)©️飛鳥圓

運慶は父・康慶と同じ作業図面を使って制作していますが、図面よりも約4度傾斜させていることに、藤曲さんは気づきます。定朝の様式では、鼻先と腹部までが垂直なので材料を無駄なく使うことができる。なのになぜこのようなことを? 疑問の先にあったのは、運慶の新しい造形への飽くなき挑戦心でした。運慶は上半身を4度後傾させることで、定朝や康慶とは異なる新しい仏像の姿勢を作り出すことを思いつきました。その造形を完成させるためには、両腕や着衣など各部の造形を微調整することが必要でした。そのために、裸の上半身を造って智拳印(ちけんいん)を結ぶ両腕のポジションを決め、その上で「条帠(じょうけい)」と呼ばれるたすき状の衣を別材で作って、上半身に貼り付けています。水晶を用いた玉眼も、本体の傾斜に合わせて黒目を下向きに調整しています。

「傾斜させたことで胸の前に空間ができ、智拳印の印相が際だっています。足の裏の湾曲した表現も、是非見て下さい。足を組んだ太もものくぼみのリアルさなど、見事ですね」。運慶がこの後に造った大日如来坐像も、同じ姿勢だそう。しかしその時は、裸の像からは造っていません。まさにこの像の制作が、変革の瞬間だったことがわかります。

藤曲さんが円成寺の庫裏(くり)に泊まり込んで模刻した大日如来坐像は、多宝塔に安置されていました。運慶が造った時は、このように金箔や色彩が鮮やかだったのだと、当時を想像することができます。ガラス越しに拝観できるので、参加者は顔を近づけて、熱心に眺めていました。

※3:鎌倉初期の仏師。父康慶と共に平重衡(たいらのしげひら)の乱で焼失した奈良の東大寺・興福寺の復興造仏につくす。快慶と合作した東大寺南門の金剛力士像などで知られる。
※4:原物そっくりに真似て、彫ること。歴史は古く、日本では平安時代の仏師が奈良時代の古像を模造したと文献にある。

ならまちを散策しながら徳融寺へ

円成寺からバスで近鉄奈良駅に着くと、ここからは徒歩での移動。駅前の繁華街を抜けると、奈良の歴史的町並み「ならまち」のエリアに入りました。京都よりもさらに古い歴史を秘めた旧市街地の1つで、木造建築の町屋が多く残ります。美しい格子が印象的でした。町屋を再生したおしゃれなカフェやショップも見かけられて、このエリアをゆっくり回るのも楽しそうです。ツアー参加者同士で、和気藹々と会話をしながら歩いていると、目的地の德融寺に到着。

これぞ、おとなの古美研!木心乾漆像残欠に興奮!

徳融寺はかつて元興寺の境内にあり、観音堂とも念仏道場であったとも伝えられています。室町時代に元興寺が土一揆により被害を受けたため、現在の地に移り、天正18(1590)年に融念仏宗の寺院として復活して現在にいたります。またこの地は、後の時代の戯曲などに登場する「中将姫」の父・藤原豊成(ふじわらのとよなり)の邸宅跡とされています。

徳融寺では木心乾漆像残欠(もくしんかんしつざんけつ)を所蔵されていて、特別に拝見させて頂けることに。とても大きく、また慎重に扱わなくてはいけないので、1日目にガイドをして下さった荒木先生が助手としてサポートをされました。形状は等身の菩薩立像の、右半身の残欠。このような状態の仏像を見たことがないので、ドキドキしました。松田先生が専用のライトを使って説明を始めると、参加者はぐるりと取り囲み、さながら研究者の一団のようです。

写真提供:やまとびとツアーズ

聞き慣れない「木心乾漆像」とは、どういうものなのでしょう? 「断面に木の部分がありますが、これが木心です。この上に麻布で布張りをして、ペースト状の木屎漆(こくそうるし)※5を重ねて仕上げます。下半身の着物のひだとか、細部も造形していますね」。実物を見ながらの説明なので、リアルに伝わってきます。

この仏像が造られたのは、8世紀後半の奈良時代。この技法が生まれた背景には、漆が高額だったことも関係しているよう。「興福寺の阿修羅像は脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)※6で造られています。天平6(734)年の正倉院文書「造物所作物帳」(興福寺西金堂の造営に関する決算報告書)によると、西金堂の建設費用と、阿修羅像を含む乾漆群像を造るのに要した約1トンの漆の値段がほぼ同額であったことがわかります」

写真提供:やまとびとツアーズ

このような完全な形ではない仏像を見るのは、古美術作品を知る良い手がかりになると松田先生は話します。「像の表面に施された漆塗りに細かいひび割れがありますね。これを『断文(だんもん)』と呼びますが、木材の方向ではなくて、横方向に割れています。これは木材の割れではなく、その上に盛ったペーストが割れているのです。こうした表面のやつれ方は、木心乾漆像の特徴です。こうした表面のやつれ方から、仏像の制作技法が推定できることもあります。他の仏像のひび割れを見た時にも、参考になりますね」

最後に観音堂の「子安観音像」を拝観しました。赤子を胸の前に抱き上げた珍しいお姿。表情がとても穏やかで、慈悲深さが伝わってきます。

写真提供:やまとびとツアーズ
※5:仏像制作に用いられる塑形・充填用のペースト。奈良時代の木屎漆については、不明な点が多い。漆に小麦粉をまぜて作った麦漆に植物の繊維を加えたものとみられてきたが、近年では、ニレの木の樹皮を臼ですり潰して作ったペーストとみる説もある。
※6:粘土で像の原型を造り、その上に麻布を何枚も漆で貼り重ね、乾燥後に内部の土を取り除いて仕上げる方法。

璉城寺の美仏を拝観

徳融寺を後にして、徒歩で向ったのは璉城寺(れんじょうじ)。こじんまりとした境内は整備されていて、居心地の良い空間です。毎年5月には、ニオイバンマツリ※7が咲き誇るそう。秘仏である「阿弥陀如来立像」を特別に拝観できるとあって、胸が高まります。

璉城寺は7世紀後半に飛鳥の地に創建され、平城遷都と共に奈良の地に移ってきたと伝えられています。紀氏(きし)の氏寺として栄えたことから、別名、紀寺(きでら)とも呼びます。

写真提供:やまとびとツアーズ

本堂に入り、阿弥陀如来立像を拝観しました。下半身に袴をつけ、上半身は白い肌をあらわにした、珍しい裸形の像です。「平安末期から鎌倉時代になると、半裸の阿弥陀様に着物を着せてお祀りする形が出てきます。この仏像も鎌倉時代らしいお姿ですね」。この袴は50年に1度取り替えられるのだそうです。

向って右側には聖観音菩薩像、左側には勢至(せいし)観音菩薩像が並びます。「聖観音菩薩のお顔は、エキゾチックですね。造られたのは恐らく長岡京の時代、あるいは平安京に移って間もなくの頃かもしれません」。涼しげな切れ長の目に、きっと結んだ口元が印象的です。この仏像は一木造りで重要文化財に指定されています。

お寺の案内の方が、「誰かに似てると思いませんか?」と尋ねてこられて、思い浮かばないでいると……。「ダルビッシュ選手に似てるでしょ」と教えて下さいました。「確かに、似ています!」。本来なら特別拝観の時期の5月でしか見られない阿弥陀如来立像と、美仏の観音菩薩が拝観できて、大満足でした。

※7:ブラジル、アルゼンチンが原産の花。春から初夏に開花。花が白から紫に変化し、さわやかな芳香がある。

ツアーに同行しての感想

璉城寺から、再び徒歩で近鉄奈良駅へと移動。広場にある行基菩薩像の前に集合して、解散となりました。豊富な知識のある先生方から直接お話が聞けて、学生気分が味わえた2日間でした。ツアーが終了して時間が経過しても、仏像と対面した時の高揚感が続いている気がします。そう、すっかり仏女となりました! それぞれのお寺では特別拝観など、貴重な体験ばかりでしたが、これは東京藝術大学の古美研の活動で、長年育まれてきた信頼関係があるからだと思いました。

参加者の中で希望者は、御朱印も頂いていましたが、こんなユニークな御朱印も! 実はこれは、東京藝術大学美術学部在学中のRYO OGATAさんの「おとなの古美研」オリジナル作品なのです。全国のお寺から御朱印の原画依頼を受けて、制作活動をしているそうです。図案の中央の人物は、ガイドの先生方? 眺めながら充実した旅を思い出しています。

アイキャッチ:やまとびとツアーズ提供

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。

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