Culture
2023.03.01

思いを和歌にのせて。宮廷の行事「曲水の宴」とは【彬子女王殿下と知る日本文化入門】

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3月は苦手である。毎年3月になると、いつも心がざわざわして、落ち着かなくなる。それは3月が別れの季節だから。

冬の楽しみ

御印が雪であるせいもあるのか、私は冬が大好きである。スキー関係の公務もこの時期は多いのだが、ちょっとした予定の隙間を見つけては、私はいつもスキーに出かける。熱があっても、スキー場に行けばなぜか治る。そんなに体力がある方ではないのだが、スキー場でだけは抜群の体力を発揮する。誰かに止められない限り、基本的にはずっと滑っているので、あるときは側衛に「彬子様!<お二時四十五分>のお時間です!(そろそろ休憩してくれないとこちらが困ります)」と止められた。「お三時」まで、あと15分待てないくらい疲弊していたらしい。「アイスでも、ココアでもなんでも私が買いますから!」と汗だくの真っ赤な顔で懇願され、ありがたく側衛にソフトクリームをご馳走になることにした。一行の皆がとてもほっとした顔をしながら、冷たい飲み物を飲んでいる姿を見て、いつもより少しだけゆっくり目にソフトクリームを食べ終わることにしたのだった。

寬仁親王殿下(ともひとしんのうでんか)と彬子女王殿下のスキー写真

年度の終わりでもある3月に思うこと

そんな私にとって、3月は雪が解け出す季節。気温がだんだんと高くなり、2月には軽いパウダーのようだった雪も、3月にはべしゃべしゃ、ざくざくで重くなる。スキーシーズンはそろそろ終わりですよ、と言われているようで、とても悲しい気持ちになる。そして、3月は年度の終わり。宮内庁職員や警察の人たちなど、いつも側にいてくれた人が、必ず誰か異動で去っていく。子どもの頃から、彼らのことは家族のように思って接している。長い時間を共に過ごしてきた家族との別れは何よりもつらい。毎年のことだけれど、何度経験しても、こればかりは慣れないのである。そんな訳で、この時期はいつも心も体もふわふわして、体調を崩しがちなのだが、そもそも「節句」というのはそういう時期なのだと最近思うようになった。

節句と言うのは、正月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽の五節句に代表される、年に数回ある重要な節目のこと。基本的には神祭をする日で、お迎えした神様に特別なお供え物をして、そのお下がりを頂き、神様と同じものを頂くことで、そのお力を自分の力にしようとするものである。季節の変わり目というのは、気温が急に変わったりして、体調も崩しやすく、病気も流行りやすい。だからこそ、普段とは違う、季節に合わせた特別な節句料理をお供えして、それを頂くことで栄養補給をするという意味も多分にあったに違いない。だから3月の上巳の節句の頃に、私が毎回変調をきたすのは、実は自然なことなのではないか、と。

上巳の節句に行われた曲水の宴

中でも上巳の節句は、水辺に出て、禊(みそぎ)や祓(はらえ)をして、病や災厄を水に流すという中国の習俗が原型である。これが、水の流れに盃を浮かべ、自分の前を盃が通り過ぎる前に詩歌を作って次に流し、できなければその盃の酒を飲むと言う遊びに発展した。353年、東晋の名士たちが名勝である蘭亭に集まって、この遊びに興じたことが王羲之(おうぎし)の《蘭亭序》に記されており、後世年中行事として定着したようだ。

日本では、万葉集の中に大伴家持邸で曲水の宴が行われた際に詠まれた和歌「漢人(からひと)も筏浮かべて遊ぶてふ今日そ我が背子花縵(はなかづら)せな」があり、奈良時代には宮廷行事として確立していたと考えられている。奈良・平安時代には盛んに行われ、曲水の宴のために、宮廷や貴族の邸宅の庭には池の畔に曲溝が掘られていたという。曲水に盃を流す遊びが終わった後は、別殿で宴が開かれ、文人たちがそれぞれに詩歌を披講した。平安時代には天皇が清涼殿にお出ましになる盛大な宴となっていたようだ。平城天皇の御代で中断されたが、嵯峨天皇の御代で復活。摂関時代には、内裏での公式行事としても、貴族の私邸での遊興としても広く行われた。

窪俊満筆『曲水の宴』川に盃が流れ、近くには何かを書きつけた紙も置かれている。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 
今のように暖房設備など整っていなかった平安時代の冬は、とても厳しかったはずである。風よけに屏風や几帳を周りに立て巡らし、着物を何枚も着込んで、体を寄せ合って火鉢や火桶を囲むくらいしか、暖を取る方法はなかっただろう。手もかじかんで、字もなかなか書けなかったかもしれない。旧暦3月3日の曲水の宴は、そんなつらい冬が終わって、春のあたたかい日差しが戻る時期。平安時代に盛んに行われたのも、貴族たちにとって待ちわびた春の喜びを満喫できる行事であったからなのかもしれない。

平安時代、喜怒哀楽を表に出すことは恥ずかしいこととされていた。喜怒楽は自分でコントロールできても、哀はなかなかコントロールが難しい。抑えようとしても、涙はこぼれてしまうもの。だからこそ、平安貴族たちはその思いを和歌に込め、昇華しようとした。和歌に楽しさや怒りではなく、「もののあはれ」が詠み込まれているのは、このような理由があるのである。私の3月の蕭蕭たる思いも、和歌に乗せて水に流せば、少し和らぐのだろうか。でも、曲水の宴への参列のお誘いは、私は毎年お断りし続けている。盃が流れてくる前に、大切な家族への惜別の情を詠みあげるには、とても時間が足りないから。

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。