大河ドラマ『どうする家康』が、話題を呼んでいます。徳川家康を支える、くせの強い家臣たちの中には、敵にまでその名を知られた剛(ごう)の者が少なくありません。中でも「徳川殿はよい人もちよ。服部半蔵(はっとりはんぞう)は鬼半蔵。渡辺半蔵は槍半蔵。~」と謳(うた)われたのが、服部半蔵正成(まさなり)であり、渡辺半蔵守綱(もりつな)でした。「槍半蔵」と呼ばれた渡辺守綱、ドラマではおしゃべり好きのキャラクターとして描かれていますが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
一条戻橋の怪異
日本人の姓の中で、全国で5番目に多いといわれる渡辺姓。そのルーツは、平安時代の一人の武者にさかのぼるといわれます。『平家物語』の「剣巻(つるぎのまき)」には、次のような話が載ります。
平安時代中頃のある夜のこと。騎乗した武者が一人で、平安京の北のはずれ、一条戻橋(いちじょうもどりばし)に差しかかりました。すると橋の東詰めで、二十歳ほどの美しい女が、困った様子で声をかけてきます。
「どちらにお出かけでしょうか。私は五条辺りに参りたいのですが、夜も更けて心細く、送っていただけないでしょうか」
武者は下馬すると、「この馬にお乗りください」と女を抱き上げて馬に乗せ、南へと向かいました。しばらく行くと、馬上の女は武者を振り返り、こう言います。
「実を申せば、五条に、さしたる用はございません。私の住まいは都の外なのですが、そちらまで送っていただけますか」
武者は「承知しました。お住まいまでお送りしましょう」と応えます。すると女はにわかに恐ろしい形相の鬼となり、「いざ、愛宕山(あたごやま)へ参ろうぞ」と武者の頭をつかんで、空高く舞い上がりました。
鬼はぐんぐんと高く上り、北西の方角へ飛びますが、武者は少しもあわてず、腰間(ようかん)の太刀を抜きざま、頭をつかむ腕を斬り落とします。そのまま武者は、北野天満宮(きたのてんまんぐう)の回廊の屋根に落下しました。頭をつかんだままの腕を見ると、それは女の白い腕ではなく、黒々として、銀の針を立てたような剛毛がびっしりと生えた、怖ろし気なものに変じていたといいます。
この武者こそ、大江山(おおえやま)の酒呑童子(しゅてんどうじ)を主君の源頼光(みなもとのらいこう)とともに討った四天王の筆頭、渡辺綱(わたなべのつな)でした。この話は、舞台を一条戻橋でなく羅城門(らじょうもん)とするものもあり、一説に鬼は、大江山で討ちもらした酒呑童子の手下、茨木(いばらき)童子であったともいいます。また鬼の腕を斬った名刀「髭切(ひげきり)」は、主君の頼光から借用したものでしたが、以後、「鬼丸(おにまる)」と呼ばれました。
源氏の血筋である渡辺綱の渡辺は、摂津(せっつ、大阪府北部他)の渡辺津(わたなべのつ)に由来します。綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展して、海路、全国へと広がっていきました。やがて戦国の頃、綱の子孫と称する者の一人として三河(みかわ、愛知県東部)で大暴れするのが、渡辺半蔵守綱です。
芳年錦絵『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』(国立国会図書館デジタルコレクション)
「槍の半蔵」
そして、時は戦国。
「退けっ」
今川(いまがわ)方の砦(とりで)を攻めあぐねた松平(まつだいら)勢の酒井忠次(さかいただつぐ)は、やむなく退却することにし、軍勢を2手に分けて、別々の道を退かせます。ところがそれを見た敵勢は、砦を出て追撃をかけてきました。永禄5年(1562)9月、東三河の八幡(やわた)砦(豊川市八幡町)の戦いです。
退却中、足を負傷していた矢田作十郎(やださくじゅうろう)が路上に倒れ込みました。敵は背後にまで迫っています。このとき、矢田をかばい、槍を抱えて敵の前に立ちはだかる男がいました。
「わしは渡辺半蔵じゃあ! さあ来い!」
槍を構えてにらみつける半蔵に、追ってきた今川の兵たちが息をのみ、急に足を止めます。
「渡辺半蔵じゃと? 長澤(ながさわ)城の戦(いくさ)で、小原(おはら)殿を討ったという、あの渡辺半蔵か」
敵兵たちの間に、動揺が走りました。昨年、今川方の長沢城(豊川市長沢町)を松平元康(もとやす、のちの徳川家康)が落とした際、今川きっての猛将・小原藤十郎(とうじゅうろう)と組み打ちし、その首をあげたのが渡辺半蔵であることは、今川家中に知れわたっていたのです。
「おう、その半蔵じゃ。来ぬのなら、こちらから参るぞ!」
槍を頭上でぶんぶんと旋回させながら、猛然と半蔵が迫ると、敵兵は背を見せて逃げていきます。半蔵は「ふん」と鼻で笑い、矢田に肩を貸して後退すると、しばらく行った先の物陰に身をひそめました。ふと見れば、すぐ近くの塚の陰に、米津藤蔵(よねきつとうぞう)が身をひそめて敵を待ち伏せしています。半蔵は少し考え、矢田に自力で退却するよう伝えると、路上に出ました。矢田が「米津殿のように、待ち伏せをしないのか」と訊くと、半蔵はこう答えます。
「米津殿は、もう年じゃ。しかし、わしはまだ若い。そのわしが待ち伏せしているようでは、勇者とはいえまいよ」
半蔵はからからと笑うと、槍をかつぎ、道の真ん中で敵を待ち構えました。そこへ今川の将・山下八郎三郎(やましたはちろうさぶろう)が、手勢を率いて駆けつけてきます。
「おう、おぬしが渡辺半蔵か。この山下八郎三郎が、小原殿の仇を討ってくれるわ」
槍をしごく山下に、にやりと笑った半蔵は無言で突きかかり、2、3度槍を合わせると、あっけなく山下を討ち取りました。さらに、浮き足立った敵兵どもを追い散らします。こうして松平勢の最後尾で踏みとどまり、敵を押し返すこと3度、半蔵は無事に味方を退却させました。
「先陣の酒井が敗れ、二手に分かれた退却勢のうち、一方には損害があったが、半蔵がいたもう一方は、まったくの無事であった。これはひとえに半蔵が踏みとどまって敵と槍を合わせ、防いだおかげである」
戦後、松平元康はそう言って半蔵を称賛し、以来、渡辺半蔵守綱は「槍半蔵」の異名(いみょう)で呼ばれることになるのです。ときに半蔵、21歳。
名誉ある渡辺綱の子孫
渡辺半蔵守綱は松平家に仕える渡辺高綱(たかつな)の子で、通称は半蔵、また忠右衛門(ちゅうえもん)ともいいました。「徳川十六神将」の一人に数えられます。
高祖父(こうそふ)にあたる渡辺源次道綱(げんじみちつな)の代に三河に来たといいますが、「源次」という通称は渡辺綱が用いたものであり、綱の子孫であることを名誉としていたことが窺(うかが)えます。曾祖父の範綱(のりつな)の代より、安祥(あんじょう)松平氏(のちの徳川本家につながる家系)に仕えました。
渡辺半蔵は主君元康と同い年で、弘治3年(1557)、16歳のときより元康に仕えます。永禄3年(1560)の桶狭間(おけはざま)の戦いの際の、尾張(おわり、愛知県西部)丸根(まるね)砦攻めでは、なぜか半蔵の名が記録にありませんが、その後の三河長沢城攻めや、前述の三河八幡砦の戦いでは、目覚ましい活躍をしました。
永禄6年(1563)の三河牛窪(うしくぼ)の戦いでは、今川方の牧野(まきの)勢と小坂井(こざかい、豊川市)で衝突。このとき渡辺半蔵は、味方の蜂屋半之丞(はちやはんのじょう)の、「敵の勢いが強いので、しばらく避けよ」という忠告も聞かず、先頭を切って突進し、敵に堤の上から横ざまに突かれて負傷。危ういところを、駆けつけた半之丞に救われました。かなりの無鉄砲ぶりです。なお蜂屋半之丞もまた敵にまで名を知られた剛の者で、「徳川十六神将」の一人でした。ところが同年、思いもよらぬ事態から、半蔵は、元康から家康に名を改めた主君と敵対することになります。
渡辺氏の家紋「渡辺星」
家康と敵対した渡辺一族
永禄6年から翌年にかけて、三河一向一揆が勃発。三河の一向宗(浄土真宗)寺院が門徒を集めて家康と争ったもので、これに国内の反家康勢力がこぞって一揆方に味方し、さらに家康家臣の中からも少なからぬ者が主君を裏切って、一揆に加わりました。主君に従うか、信仰を重んじるか、迷った末の選択だったのでしょう。一揆方についた家康家臣には、蜂屋半之丞、夏目広次(なつめひろつぐ)、本多正信(ほんだまさのぶ)らがおり、渡辺半蔵も父・高綱とともに一揆方に名を連ねます。なお半蔵父子だけでなく、渡辺一族はそろって一揆方につき、針崎(はりさき、岡崎市針崎町)の勝鬘寺(しょうまんじ)に入りました。
とはいえ家臣たちの多くは、家康と戦場で出くわすと逃げ出します。敵対したとはいえ主君への恨みはなく、刃を向ける気はなかったのでしょう。ただし、家臣同士の戦いは激しく、上和田(かみわだ)の戦い(岡崎市)では、弓の名手として知られる内藤正成(ないとうまさなり)が、一揆方についた叔父を射殺し、半蔵の父・高綱も内藤の矢を受け、半蔵がかついで後退したものの息絶えました。
やがて家康が一揆を制圧すると、敵対した家臣の多くは松平家への帰参が許されず、諸国に去っていきます。渡辺一族も散り散りとなりましたが、半蔵とその弟・半十郎政綱(はんじゅうろうまさつな)は、平岩親吉(ひらいわちかよし)の口添えもあって、家康に許されました。それまでの半蔵の功績に、家康も免じたのでしょう。以後、半蔵は常に家康の旗本にあって活躍することになります。
勝鬘寺の渡辺高綱墓
戦いの局面を変える親衛隊長
三河を手にした家康は、姓を松平から徳川に改めると、永禄11年(1568)、今川領の遠江(とおとうみ、静岡県西部)に攻め込みました。一方、今川領の駿河(するが、静岡県東部)には、家康と密約を結んだ甲斐(かい、山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が侵攻します。駿府(すんぷ、静岡市)の今川館を追われた当主の今川氏真(うじざね)は、遠江掛川城(掛川市)に逃げ込みました。家康は掛川城の周辺にいくつも砦を築いて囲みますが、城の守りはきわめて堅固です。
そんな中の永禄12年(1569)3月、今川勢は数隻の船に分乗し、掛川城の西、天竜川河口の掛塚湊(かけづかみなと)より、徳川軍の背後を衝(つ)こうとしました。すぐに榊原康政(さかきばらやすまさ)、鳥居元忠(とりいもとただ)らが対応しますが、急報に接した家康は、本陣にいた渡辺半蔵にも加勢するよう命じます。半蔵は即座に手勢とともに駆けつけ、船中の今川勢7人を槍で討ち取る奮戦の末、敵の策を潰しました。2ヵ月後、掛川城は開城し、戦国大名の今川家は滅びます。
しかし、家康が遠江を手にすると、武田信玄が牙をむいて攻めかかりました。元亀3年12月(1573年1月)、家康の居城・浜松城近くで起きた三方ヶ原(みかたがはら)の戦いです。このとき、家康より先陣を命じられた渡辺半蔵は、徳川軍の先頭に立って武田軍の形勢を探りますが、敵の大軍は三方ヶ原の台地に満ち満ち、準備万端で待ち構えています。そこへ大久保忠世(おおくぼただよ)と柴田康忠(しばたやすただ)らの隊が追いついたので、半蔵は両人に問いかけました。
「見よ。敵の数があまりに多い。このまま小勢の我らがまともにぶつかっても、勝つことはできまい。我らは険阻(けんそ)な地に拠(よ)って、敵を待ち受ける戦法をとるしかないと見るが、どうか」
しかし、両人は半蔵の言葉に耳を貸さず、真っ直ぐ敵に突進。徳川勢全軍がそれに続きました。石川数正(いしかわかずまさ)の配下が武田の先鋒と一番に槍を合わせ、半蔵はすかさずその敵を討ち取りますが、武田軍の勢いが強く、味方は押される一方となり、ついに崩壊します。石川数正は、配下とわずか2騎で退却。危ういと見た半蔵は数正に声をかけ、協力しつつ後退します。
その後、半蔵は家康の本陣に合流しようとしますが、敵勢に道を阻(はば)まれました。やむなく居合わせた味方6、7人とともに血路を開き、浜松城の北の入口である玄黙(げんもく)口に至ると、ここで敵を防ぐことにします。半蔵は攻め寄せる敵を次々と槍で討ち取り、これに弟の半十郎政綱らも加勢して、ついに城門を守り抜きました。徳川方にとっては大惨敗の三方ヶ原の戦いでしたが、家康は半蔵の武功を認め、恩賞を与えます。その後も渡辺半蔵は家康直属の旗本、いわば親衛隊長として、合戦の要所で投入されては、戦いの局面を変える活躍を見せるのです。
浜松城の玄黙口付近
小勢を率いて槍を振るえば天下無双
信玄が病没すると、武田家はやがて織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされ、直後に信長も本能寺の変で斃(たお)れました。そして家康は、急速に台頭した羽柴秀吉(はしばひでよし)と対立することになります。天正12年(1584)の小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いでした。
このとき、43歳の渡辺半蔵は旗本の足軽頭に任じられています。同年4月9日、三河を衝こうとする羽柴軍別働隊の動きを察知し、徳川軍の先陣が羽柴秀次(ひでつぐ)隊を破りますが、同別働隊の堀秀政(ほりひでまさ)に逆襲され、敗走します。足軽を率いる半蔵は、先陣に加勢しようと急ぐところで、家中の内藤正成、高木清秀(たかぎきよひで)らと遭遇。両人に戦況を問われ、こう伝えます。
「わが先陣は敗れ、いま敵(別働隊)の池田勝入(いけだしょうにゅう)、森武蔵(もりむさし)らが勢いづいて、隊列を乱して追撃している。敵が隊列を整える前にわが旗本がこれと戦えば、勝利は疑いなしと殿(家康)に至急お伝えくだされ」
承知した内藤、高木らが家康本陣に向かう一方、半蔵は最前線に飛び出します。見ると、井伊直政(いいなおまさ)隊が敵に押され、田の縁(ふち)から山へと追い上げられていました。半蔵は足軽60人ほどに横合いから鉄砲を撃たせると、敵将の森武蔵に当たったらしく、敵が混乱して騒ぎます。そこへ家康の旗本らも駆けつけてきたので、半蔵が大声で叫びました。
「池田勝入勢、敗れたり! 一人も逃すな、すべて討ち取れい!」
半蔵の声に敵兵たちはパニックとなり、一気に崩れました。乱戦の中、半蔵は槍で7人を討ち取り、あまりに激しく戦ったために槍の穂先が折れると、太刀を抜いてなおも戦ったといいます。渡辺半蔵は大部隊を指揮するよりも、こうして小勢を率いて第一線で槍を振るえば、天下無双の武将でした。
その後、小田原の陣でも家康の旗本を務め、59歳で迎えた慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、家康より「これを着て、若やいで戦陣に臨めよ」と南蛮鎧(なんばんよろい)を賜り、100人の足軽を率いて旗本を務めています。家康も、そばに半蔵がいれば心強かったのかもしれません。
慶長18年(1613)、渡辺半蔵は長男・重綱(しげつな)とともに、家康の9男・尾張徳川義直(よしなお)を補佐することになりました。かつて三河一向一揆の際、半蔵の帰参を家康に進言してくれた平岩親吉が義直の傅役(もりやく)を務めていましたが、2年前に他界したため、その後釜としての役目だったのでしょう。半蔵は義直の下で1万4,000石を領し、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも参戦。元和6年(1620)、名古屋で没しました。享年79。まさに常在戦場、「槍半蔵」の名にふさわしい生涯でした。
参考文献:『新訂 寛政重修諸家譜 巻八』(続群書類従完成会)、「守綱記」(『長久手町史』資料編六 中世所収)、大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)、煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版)、菊地浩之『徳川十六将』(角川新書) 他