大正から昭和にかけて京都の日本画壇を席巻した画家、甲斐荘楠音(かいのしょう・ただおと、1894~1978年 ※)。近年、甲斐荘が手がけた約250点にも及ぶ衣裳が、映画会社の倉庫で発見されたそうです。
東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで開かれている「甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性」展は、前半生を飾る異色の日本画の作品群に加えて、後半生の映画界での仕事を実作で検証することで、文字通り甲斐荘の「全貌」を明らかにしています。つあおとまいこの二人は、「ああ、この絵はあのときに見たねぇ」と過去に見た記憶を手繰りながら会場を巡ります。やがて、「えっ、こんな絵もあったんだ」「スケッチも素晴らしい」と新たな発見をしつつ、映画の衣裳を見始めると、その華やかな世界に魅了され始めました。
えっ? つあおとまいこって誰だって? 美術記者歴◯△年のつあおこと小川敦生がぶっ飛び系アートラバーで美術家の応援に熱心なまいここと菊池麻衣子と美術作品を見ながら話しているうちに悦楽のゆるふわトークに目覚め、「浮世離れマスターズ」を結成。さて今日はどんなトークが展開するのでしょうか。
晩年になって顔を描き直した屏風の秘密
つあお:甲斐荘の『虹のかけ橋』という屏風作品の華やかさは半端じゃないですよね!
まいこ:太夫が7人。「絢爛豪華!」の一言に尽きます!
つあお:1着1着の着物の柄の描き分けが見事!
まいこ:一人が幾重にも重ねてきた着物のそれぞれの柄も、色が違って華やか極まりないですね!
つあお:かんざしもいい! たぶん、あるとないとでは大違いだな。仏像の光背のように神々しく見えるし。それにしても、こんなに派手な集まりがあったらちょっと見てみたいなあ。
まいこ:「7人」というところには、何か特別な意味があるのでしょうか?
つあお:「七福神」とか「七草」とか「七曜」とか「なくて七癖」とか、洋の東西を問わず、「7」は意味深な数字ですよね。それでね、この作品のもともとのタイトルは『七妍(しちけん)』だったそうですよ。
まいこ:えっ! あの「竹林の〜」ってやつですか?
つあお:鋭い! 中国の故事の「竹林の七賢」に想を得た作品と思われます。江戸時代の浮世絵みたいに故事を当世風に見立てて、『七妍』すなわち「7人の美人」の絵にしたのでしょう。
まいこ:へぇ。
つあお:何せ甲斐荘は京都の人ですから、太夫などの世界には近かった。おかげで山の中の仙境のような世界が、ほとんど真逆の境地とも言える華やかな世界に化けてます。
竹林の七賢=中国の後漢(ごかん)末から魏(ぎ)を経て西晋(せいしん)に至る間(2世紀末から4世紀初め)に、文学を愛し、酒や囲碁や琴(こと)を好み、世を白眼視して竹林の下に集まり、清談(せいだん)を楽しんだ、阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)(以上河南省)、嵆康(けいこう)(安徽(あんき)省)、劉伶(りゅうれい)(江蘇(こうそ)省)、王戎(おうじゅう)(山東省)の7人の知識人たちに与えられた総称。(出典=日本大百科全書(ニッポニカ))
まいこ:この絵では、1本の長い巻物を全員で持っていますね。
つあお:文字が連なっているから手紙かも。ひょっとすると、太夫宛の恋文か!
まいこ:恋文にしては長すぎるような…。
つあお:ははは。まいこさんには、彼女たちの心がお見通しですね。恋文だったら普通は一人で読みますもんね。実は、権力者に抗うような自由な言論を求めていた「竹林の七賢」が描かれた伝統絵画では、よく一人の人物が巻物を読んでいる様子が描かれているんです。
まいこ:へぇ。この絵では、太夫たちが全員で巻物を読んでる!
つあお:そこはおそらく、甲斐荘独自のアレンジなのでしょうね。全員で回し読みをするような、でもほかの人たちには知らせたくないような大切な書物の類を持っているのかな。7人が全員で一つの動作をしているところには、それだけで気持ちが寄り添っている心中が見える感じがしますね。
まいこ:なるほど! もともと『七妍』だったタイトルが『虹のかけ橋』に改められた理由が見えてきました!
つあお:ほぉ!
まいこ:まず、なぜ「虹」なのか?
つあお:なぜ?
まいこ:「七色」が答えです。
つあお:確かに、虹は日本では七色です。
まいこ:「七色美人」という言い方もありますもんね。
つあお:なるほど! ということは、手紙が7人の間に掛かっている「かけ橋」ということ?
まいこ:きっとそうです。彼女たちは巻物を読むことで何か大切な秘密を共有し、心の中に橋をかけたのです。
つあお:なるほど。それにしても『虹のかけ橋』というのは美しいタイトルですよね。甲斐荘がこの作品を描き始めたのは、1915年頃のことだったそうです。以前和楽webで紹介した「妖しい絵」をたくさん描いた時期なんですよね。
まいこ:21歳の頃ですね。若い!この展覧会でも紹介されていますが、この頃描いた『横櫛』なんかは、やはり妖しい印象で、『虹のかけ橋』とはずいぶん違う。
つあお:『横櫛』は義理のお姉さんがモデルでしたね。ただ、この頃は『横櫛』に限らず、「妖しい絵」と呼ばれそうな絵をけっこうたくさん描いています。
まいこ:伝統的な花鳥風月や美人画とはまったく違う。若き画家の冒険心が表れているのでしょうか。
つあお:同じ頃京都で活躍した日本画家の岡本神草(おかもと・しんそう)や稲垣仲静(いながき・ちゅうせい)も「妖しい絵」と分類されそうな絵を描いている。当時の京都の日本画壇が、そういう空気に覆われていたのは間違いない。日本画家の間での西洋絵画の研究も盛んだった。甲斐荘もその中で活動してたんですよ。
まいこ:でもね、私は今回の展覧会で発見したんです。『虹のかけ橋』を描いたのと同じ年に、太夫の格好をしたと思われる甲斐荘の写真が展示されてたんです!
つあお:おお! 本格的に扮していますね! たぶんわざわざ写真に撮ってもらったんだな。
まいこ:それでね、『虹のかけ橋』の中で、右から3番目の女性だけが正面を向いてるんですけど、今度は、別の写真の甲斐荘さんの顔とそっくりに見えるんですよ。
つあお:ホントだ! 併せて考えると、甲斐荘が自分の姿を太夫に託して描いたことになる。自画像を入れ込んでいるというのは、なかなかすごい発見じゃないですか。『虹のかけ橋』を改めて見てみましょう。
まいこ:ひょっとしたら、彼には女性になりたいという願望があったのでしょうか?
つあお:今でいうLGBTQに属する人物だったとは、以前から言われています。ほかにも、歌舞伎の女形に扮した写真がたくさんある。それらも、なかなか美しい。
まいこ:だとすると、『虹のかけ橋』にも、やはりその願望が現れてるのかしら? この作品は、晩年に女性たちの顔だけ描きかえたそうですね。
つあお:そうなんです。顔の部分だけ周囲と絵の具の感じが違う。元がどんな表現だったのかが、気になるところですね。
まいこ:確かに気になります。
つあお:ひょっとすると、修正する前は、もっと妖しさが漂っていたんじゃないかな。ただし、それは甲斐荘の本性というよりも、やはり時代の顕現(けんげん)だったのかもしれない。
まいこ:確かに今の絵では、どの太夫も目の周りがさわやかです。
つあお:描き変えたのは晩年だから、その時の気持ちが表れているんだと思いますよ。
あまりにも華やかな『旗本退屈男』
まいこ:『虹のかけ橋』は、年記を見ると、20代の頃から晩年までかけて描いたことになってますね!
つあお:甲斐荘はある時期から映画の世界に転身するので、ずっと描き直し続けたというよりも、たぶん晩年になって旧作を部分的に描き直したということではないかと想像しています。
まいこ:ということは、映画に関わるようになってから、作家としての表現の変化があったということですね!
つあお:変化の下地は日本画家専業の頃からあったんだと思います。甲斐荘は女形に扮していたことからもわかるようにもともと演劇に対する興味が深かった。歌舞伎や文楽などの関係の絵もたくさん残している。
まいこ:へぇ!
つあお:だから転身と言っても、日本画家としての筆を折ったとかではなくて、演劇の延長線上にある映画の世界に自然に入っていったのではないかと思ってもいいんじゃないかな。
まいこ:私は、この展覧会に、甲斐荘さんが映画で手掛けた衣裳がたくさん展示してあって、何だかすごいなと思ったんですよ。
つあお:ほぉ! どんなところが?
まいこ:展示されていたのは『旗本退屈男』とか『徳川家康』とか『忠臣蔵』とかの衣裳でした。つまり時代劇のものです。ところが、女性用だけでなく男性用の衣裳もすごく華やか。「こんなに華やかな服を着た武士は本当に江戸時代にいたの?」なんて思ったんです。
つあお:確かに、これほど派手な服装は、特に実際に斬り合いをするような武士にはいなそうだ。
まいこ:つあおさんは、男性として、『旗本退屈男』みたいに華やかな着物を着てみたいと思うことはありますか?
つあお:外で着て歩くにはちょっと目立ちすぎるかな。でも、本当は着てみたい気はある。晴れ着のような女性の美しい服装をうらやましく思うことはよくあります。
まいこ:ひょっとすると、甲斐荘さんは、そうした思いを映画という虚構の世界の中で実現したのではないでしょうか。
つあお:素晴らしい解釈ですね! 時代劇だけじゃなくて、現代の男性の街歩きファッションもデザインしてもらいたいなあ。
まいこ:気持ち、分かります! 特に衣裳に関して甲斐荘さんは、溝口健二監督をはじめとする様々な監督に大変重宝されたようですね。
つあお:だとすると、甲斐荘のデザインは個人の嗜好を超えて、広く訴えかけるものだったということにもなりそうだ。この展覧会では、松田定次監督の『忠臣蔵』とか、佐々木康監督の『旗本退屈男』シリーズの着物のデザインを見て、確かにすごいと思いました。
まいこ:男性の着物というと、ほぼ無地でシンプルな江戸小紋のようなイメージがあったのですが、真逆の派手さがありますね。
つあお:うん。世の中が華やかになる! こんな着物を着てバッサバッサと悪者たちを退治する旗本退屈男や仇討ちをする赤穂浪士って、現代もののスーパーヒーローに負けないインパクトを持ってますね。
まいこ:こういう派手派手な柄が入った着物を着る男性って、女性的なイメージの人かなと一瞬思ったのですが、これを着たポスターの中のヒーローはむしろマッチョなのかも!
つあお:男は渋くて強くて、女性は美しい格好をして弱々しいというのは、きっと単なるステレオタイプなんですね。もともとそんなイメージにとらわれていなかった甲斐荘は、そこを思い切って改革しちゃったのかも。
まいこ:たとえばこの『旗本退屈男 謎の七色御殿』の着物を着たヒーローが目の前に現れたら、ものすごく強そう!
つあお:おお、ここでも「七色」が!
まいこ:たぶん『虹のかけ橋』と直接の関係はないんでしょうけど、何かでつながってる! レインボー(虹)は、今の世の中ではLGBTQの象徴なのですよね。「レインボー・フラッグ」(ただし、7色ではなく6色)がそのシンボルとされてます。
レインボー・フラッグ=レインボーフラッグとは、アメリカ史上初めてゲイであることを公言して市会議員に当選したハーヴェイ・ミルク氏から、LGBTコミュニティのシンボルとなる旗を作るように依頼を受けた、ギルバート・ベイカー氏がデザインしたフラッグです。(中略)実はレインボーフラッグは当初8色でした。一番上に「性」を意味するピンク。「生命」を意味する赤、「癒し」を意味する橙、「太陽」を意味する黄、「自然」を意味する緑、「芸術」を意味するターコイズ、「調和」を意味する藍、「精神」を意味する紫。しかし、8色だったレインボーフラッグは、LGBTの運動が広がるにつれ大量に必要となりました。そうすると、技術的な問題から8色の旗を大量にプリントすることが難しかったため、ピンクとターコイズを抜いた6色に落ち着きました。(出典=JOB RAINBOW MAGAZINE 2022/10/7 「LGBTの象徴、レインボーフラッグの秘密」)
つあお:「虹」がここでつながるとは! 甲斐荘は先進的なクリエイターだったんだ。
まいこ:信念を貫いたのでしょうね。
つあお:甲斐荘の存在は、日本の映画の世界全体にとっても画期的だったようです。2018年に倉庫から甲斐荘が手掛けた衣裳約250点を発見して研究した東映太秦映画村元社長の山口記弘さんによると、戦後の日本映画の全盛期だった1950〜60年代に、甲斐荘は映画美術の世界をリードしていたのだとか。
まいこ:やはり、女性のような華やかな装いに憧れがあってかつ画家だった甲斐荘だからこそできたことですね!
つあお:多分、絵画の世界から映画の世界に移って、水を得た魚のように飛びまわることになったんじゃないでしょうか。
まいこ:しかも、映画の世界にも隠れた需要があったのですね!
つあお:やっぱり、こんな衣裳の男性俳優が派手に活躍したら、銀幕の世界はものすごく華やぎますよね。「総天然色(カラー)」の映画が増え始めた時期だったことも、ニーズと合致していたかもしれません。
まいこ:太夫のファッションが侍の衣裳にこんな風につながるなんて、とてもすてきですね!
まいこセレクト
独特の妖しい空気に包まれた女性や、鮮やかな着物を着た女性像など、インパクト絶大な作品が多い中、なぜか印象に残ったのがこちらの作品『毛抜』です。絵としてはとてもおとなしく、何ということはないのですが、憂いを帯びた顔をしてアゴヒゲを抜くという場面設定のシブさが強烈。若衆の髪型をしているので、男性のお相手をする少年(または青年)なのでしょうが、ちょっと法令線が見えたりしてお疲れの様子です。そしてよくよく見ると、やはりなんとなく甲斐荘楠音さんに似ているような気がしてきて……。自分の絵画作品や、アイデンティティーのことで色々と悩み多き時期だったのかもしれないと思えてきました。この作品を描いたのは、甲斐荘さんが21歳のころで、本文でトークした『横櫛』を描いたのとほぼ同じ時期です。女性たちの「妖しさ」を追求して描きつつも、自分の中にある女性性について、女性にはありえないアゴヒゲを抜きながらもんもんと考えていたのかもしれない! そんな勝手な想像を羽ばたかせた一枚でした。
つあおセレクト
甲斐荘は芝居が大好きで、幼少期から歌舞伎に通い、京都市立絵画専門学校の学生だった頃には、観劇の記録を多数のスケッチブックに残したそうです。また、自ら素人歌舞伎を演じることもあったのだとか。芝居ならぬ演劇は、洋の東西を問わずいにしえから存在する、人間の根源的な芸術の形態。才能豊かな甲斐荘は、太夫や舞妓などの絵を描き始めた後も、芝居の世界からは離れず、むしろ、そこでこそ本領を発揮するような絵の表現をスケッチとして多く残したということなのだろうと想像できます。中には印章を押すことで、いわゆる「作品」として本人が認めたと見られる作品もあります。おそらくは、画家の魂を乗り移らせるかのような勢いで作画に臨んでいたのではないかとも思うのです。この展覧会には芝居関係のスケッチや関連作も多く出品されています。画家の心を想像しながらそれらを見歩くのもまた、とても楽しいことでした。
つあおのラクガキ
黒猫もたまには華やかな気分に浸りたいと、金のかんざしをつけ、華やかな衣裳を着て、虹色の手紙を手に空想のひとときを楽しみ始めました。華やかさは誰もが愛するもの。時には常識に縛られず、楽しい時間を過ごしたいものです。
展覧会基本情報
展覧会名:甲斐荘楠音の全貌 絵画、演劇、映画を越境する個性
会場:東京ステーションギャラリー(東京・丸の内)
会期:2023年7月1日(土) 〜8月27日(日)
公式ウェブサイト:https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202307_kainosho.html