紫式部(むらさきしきぶ)を描く2024年大河ドラマ『光る君へ』。主人公である紫式部や、紫式部と関係が深い藤原道長(ふじわらの みちなが)の周辺の登場人物が続々と発表されています。
その中でも注目しておきたい人物が、段田安則(だんた やすのり)さんが演じる藤原兼家(ふじわらの かねいえ)です。一体どんな人だったのでしょうか。
藤原兼家の半生と家系図
端的に言いますと、藤原兼家は藤原道長の父親です。藤原道長が活躍する頃にはすでに故人で、紫式部が宮中で活躍するのは藤原道長の全盛期。そのため物語にどのくらい登場するかはわかりませんが、藤原道長が座る「権力の座」の土台を作ったのは、父である兼家です。
絶対に巻き込まれたくない! 兄弟の確執!
藤原摂関家(藤原氏嫡流)の三男として生まれた兼家は、嫡男である長兄の伊尹(これただ/これまさ)とは仲が良かったようで、関白となった伊尹の補佐役として宮中で力をつけていきました。しかし、次兄である兼通(かねみち)は伊尹から冷遇されていたようで、兼家の官位が兼通より上になってしまったことで、兼家・兼通間にも確執が生まれてしまいました。
長兄の伊尹は満48歳の時に病に倒れ、大臣を辞任しました。すると兼通と兼家はその座を激しく争います。当時は円融(えんゆう)天皇の御代ですが、主上の御前でも口喧嘩する始末。この時、兼通は47歳。兼家は43歳、円融天皇はたったの13歳でした。頼りにしていたオジサンが引退した直後、目の前でオジサンどうしが喧嘩しはじめてさぞ怖かったでしょうね。
その後どうなったかというと、兼通が「関白は兄弟順番に就任させよ」という円融天皇の母が書いた遺言状を見せました。ちなみに、円融天皇の母は、兼通の妹であり、兼家の姉である人物です。孝行心が篤い円融天皇はその遺言状に従うこととし、関白の座は兄の兼通がゲットしました。円融天皇、この先も気苦労が絶えなさそう……。
不遇の時代
仲が悪かった兄・兼通が権力を握ったことで、兼家は案の定冷遇され始めました。しかし5年後、兼通は52歳で病に倒れて危篤状態となりました。余命いくばくもない兼通の家に、兼家の牛車が近づいてきます。
なんだかんだ言って血を分けた兄弟です。最期の挨拶に来たのか……と思ったら、兼通の邸宅の前を素通りしてそのまま出勤してしまいました。わざわざ家の前まで来て!?
でもまぁ、兼通は兼通で「できれば兼家を九州に流したいんだけど、罪がないから流罪にできないんだよね~」とか言っていたぐらいなので、お互い様な気もしますが……兼通はこの厭味ったらしい出勤に激怒し、最後の気力を振り切って出勤しました。何をしたかというと除目(じもく)……人事異動です。
兼通が自分の後継者として指名したのは、もちろん憎たらしい弟ではなく、当時の一族の中で一番年上だった従兄の藤原頼忠(ふじわら よりただ)でした。その上、兼家の役職をはく奪し、降格させてしまいました。そしてその後ほどなくして兼通は亡くなります。
さすがに兼家もコレにはこたえたのか円融天皇に愚痴り、円融天皇は「うんうんわかるよ、でも今は待ちの時期だよ……」と答えました。円融天皇、まだ18歳なのに達観したお言葉……。
そして復活
しかし、兼通の後継である頼忠は、すぐに兼家の役職を元に戻します。そして円融天皇の後宮に入っていた兼家の娘・詮子(せんし/あきこ)が親王(のちの一条天皇)を産みました。そこで兼家は娘を正式に后にしてもらおうとします。しかし円融天皇は頼忠の娘を皇后としたため、兼家はふてくされたのか、娘と親王を連れて屋敷に引きこもるようになってしまいました。
円融天皇が心配して使者を何度も派遣しましたが、ろくに返事もしません。めんどくさいオジサンですね。
円融天皇は、なんとか口実を作って兼家と親王を呼び寄せ、兼家に「私は、一旦兄の子(のちの花山天皇)を東宮(とうぐう=次期天皇になる親王)にする予定だけど、その後は君の孫を東宮にするつもりだよ。なのに君は私を信じてくれなくて残念だよ」と言いました。すると兼家は大喜びして機嫌を直しました。本当、めんどくさいオジサンですね。
その後、円融天皇は花山天皇に譲位し、約束通り兼家の孫を東宮としました。しかし花山天皇は即位して間もなく最愛の妻を亡くし失意のまま出家しました。この出家の手引きをしたのが他でもない兼家と息子の道兼(みちかね=道長の兄)でした。
こうして兼家の孫・一条天皇が即位し、天皇の祖父である兼家は摂政(せっしょう)となって権力を握ったのでした。全方位に気を遣っていた円融上皇は兼家一家に権力が集中することには反対していたのですが、兼家はそれを押し切ってさらに地盤を固め、62歳で亡くなりました。
兼家の息子たちはその強固な地盤を引き継ぎ、5男の道長の代で全盛期を迎えるのでした。
藤原兼家の妻は『蜻蛉日記』の作者
そんなこんなで、かなりめんどくさ……もとい、野心家な藤原兼家ですがプライベートではどんな人だったかというのも、実は残っています。
藤原兼家の妻の1人が、かの有名な『蜻蛉(かげろう)日記』の作者・藤原道綱母(ふじわらの みちつなの はは)で、その結婚生活について日記に描かれているからです。
道綱母は名門一族の御曹司である兼家に求婚されて結婚し、兼家の次男・道綱を産みました。しかし一夫多妻制の時代。兼家が以前からの妻や新しい女性の元に通うことに嫉妬し、思い描いていたような結婚生活ではないことを嘆き、ついに兼家とも疎遠になってしまいました。
しかし息子である道綱が、兼家の元で名門一族の御曹司として立派に育って行くのを母として喜ぶ、そんな平安時代の1人の女性の20年間が綴られています。
道綱母も『光る君へ』で財前直見(ざいぜん なおみ)さんが演じることが決定しているので、兼家・道綱母夫婦がどう描かれるかも見どころですね。
藤原兼家の複雑な魅力
藤原兼家は、政治という舞台で大成功を収めながら、兄弟と権力を争い、プライベートでも妻との関係も円満とは言い難い、複雑な人間関係を常にまとっていました。しかし、そんな「複雑さ」も兼家が生きた時代からはるか未来の現代人にとっては、大きな魅力として映るのではないでしょうか。
彼の人生から垣間見える人間の本性と野心、複雑な愛、そして人間関係における葛藤は、今も共感できるものではないかと思います。
【参考文献】
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本古典文学全集 大鏡』(小学館)
山中 裕『藤原道長』(吉川弘文館)
武田友宏編『大鏡』(角川ソフィア文庫)
アイキャッチ画像:
菊池容斎『賢故実 巻第5 藤原兼家』国立国会図書館デジタルコレクション