人形は生きている。
なんていうと、神話か悪魔の仕業か錬金術の類かと笑われてしまいそうだけれど、あながち笑い話でもないように思える。
美しい仏像がどれほど多くの人間を導いたか、はたまた埴輪がどんな役目を果たしたか、ワラ人形の迷信にはぞくりとする怖さがある。どこで聞いたか、古い人形には魂が宿るともいう。もし人形遊びが好きだったなら、人形のもつ不思議な魅力にすでに囚われているといっていい。
人形は生きているのだ。それか、だんだんに命を吹きこまれたか。誰が吹きこんだのか、そんな謎も含めて今回は人形の怪異を紹介しよう。
若衆人形の下心 『男色大鑑』より「執念は箱入りの男」より
井原西鶴による浮世草子『男色大鑑』には人形がもの言う話がある。
人形師がひとしお心を籠めて作った人形を看板に立てて置いたところ、いつからか魂があるように動き出すようになった。それどころか芝居帰りの太夫たちに目をつけて、夜ごとに若衆の名前を呼びさえするのである。自分の造ったものながら恐ろしい。人目を忍んで、二度三度と河原に流しもしたが、いつの間にか戻ってきてしまう。
そんなことを手紙に書いて人形と一緒に美形ぞろいの太夫たちの集まる宿へ持たせると、たしかに箱のなかから声が聞こえる。声は「吉三、吉三」と太夫の一人を呼んでいる。しかも物の動くような音もして、不気味である。蓋をあけると、角前髪の若衆人形が入っていた。目つきや手足の力身具合などは、さながら生きているよう。
そこへ大抵のことでは驚かない男が進み出て、人間に話しかけるようにこう言った。「お前は、左様な人形の身にて衆道に心を寄するとは健気にも床しき事よ」言葉を聞いた人形は頷いた。捨盃を与えた後、「そなたの呼ぶ太夫に思いを寄せる見物客は多い。とてもの事に叶うまい」と語りきかすと、人形ながら合点の顔つきをしたという。
愛慕の情が人形を人にする 『大和怪談頃日全書』より
人知れず動き出す人形があれば、人形に命を吹きこもうとする人間もいる。『大和怪談頃日全書』の白梅はそんな運命を背負って生まれた人形だ。
大御番組で四百石取りの菅谷次郎八なる男は、新吉原の遊女白梅に想いを寄せており、御番のあいだはおおかた吉原通いというありさまだった。あるとき、しばらく江戸を離れなくてはならず細工人に頼んで白梅の人形を造らせた。人形は等身大で、腹のなかに湯を注ぎ込むと人肌に暖まる細工がされていた。次郎八は白梅の人形を抱いて眠った。
そのうち白梅の人形に話しかけると、人形のほうも口を動かして答えるようになった。細工人の技術だろうと最初は喜んでいた次郎八だったが、次第に不安になってきた。もしかすると狐狸の魂が人形に乗り移ったのかもしれない。次郎八は枕もとの脇差を抜いて、人形を真二つに斬り捨てた。
人形白梅を斬ったのと同日同刻、遊女白梅は客に胸を刺されて死んだ。無理心中の道連れにされたのである。
未来を告げる鈴のような声 『新説百物語』巻之四の十一「人形いきてはたらきし事」より
ずっと昔に読んでから、私の心にこびりついて離れない、怪しくも愉快な人形の話がある。
ある廻国修行の僧がとある家に一夜の宿を借りた。主は老女、娘との二人暮らしだったが僧をもてなした。夜も更けた頃、老女が娘に「人形を持っておいで、湯浴みをしよう」と言った。寝たふりをしながら聞き耳をたてていた旅僧がうかがい見れば、娘は持ってきた裸の人形を湯に浸している。やがて人間のように動き出した人形を見て、驚いた旅僧は老婆にこれは何かと尋ねた。老女は答えた。「これは、この婆が細工にて、二つ所持致しまする。欲しくば遣わしましょうぞ」旅僧は人形をもらい受け、風呂敷に包むと家を出た。
しばらく歩くと、風呂敷のなかから「ととさま、ととさま」と声が聞こえた。不思議に思いつつ声をかけると、人形が答えた。「あの向うより来る旅の男、躓きて転ぶべし。何にても薬を与え遣るべし。されば、金子一分の礼を致すべし」すると旅の男は転び、旅僧が慌てて近寄り介抱すると、お礼にとお金を差しだした。
そんなことが何度かつづいた。人形を不気味に思った旅僧はついに人形を道端に捨てることにした。しかし人形は人のように立ち上がると、旅僧を追いかけた。何度捨てても同じこと。「最早ととさまの子なれば、離るる事はない」人形が言った。
その夜、泊まった宿の亭主に相談すると「それなら明日、道々被りし笠の上に乗せ、川端に到り、裸となりて腰丈ほどの所まで行き、ずぶずぶと漬かり、水に溺れたる真似して菅笠を流しなされ」と教えてくれた。あくる日、そのようにすると人形は笠に乗ったまま流れていき、その後はなにもなかったという。
人形か、あるいは人か、それ以外か
作り話ばかりでは面白味にかけるので、ひとつ本当にあった昔話を。当時、新聞や雑誌にも取りあげられた話である。
明治4年の暮、大井某という人が蒲田の古道具屋で古い人形を買い求めた。家へ帰り、箱を開くと生きているように美しい人形の顔がこちらを見つめて笑った。もしかすると、これは人形愛好家のかん違いだったかもしれない。しかし話はここで終らない。
恐くなった男は箱ごと荒川に捨てたが、水は流れているのに人形の箱だけがぴたりと止まったまま動かない。ふたたび箱を拾いあげ、近くの寺へ納めることにした。箱の裏を調べると「小式部」と文字があった。人形の名である。持ち主を探ると、ある男にいきついた。かつてその男は小式部と二人きりで暮らし、それはそれは可愛がっていたという。
ところで文化の頃、吉原に小式部太夫という遊女がいた。三人の武家に深く思われ、義理立てのために人形師に頼んで自分の姿を三体の人形に刻ませたという。人形は武家たちに贈られたが、不思議なことに人形のモデルになっているあいだに、当の小式部のほうはだんだんと衰え、人形ができあがると同時に息を引き取ったという。
ものいう人形の怪
人形が霊異をあらわしたという話は古今の日本文学のなかに数えきれないほどある。田んぼの真ん中に立てられた働く人形(『今昔物語集』)だとか、細工人がからくりの精巧な唐船を造って池に浮かべたら船中の人形がこぞって唄いだしたとか(『狗張子』)、絵馬のなかの女が嫉妬したり、屏風を離れて少年が遊んだりした話(『御伽婢』)なども人形のもつ不気味さを描いた物語のバリエーションのひとつだろう。
生きている人形といえば思いだすのが文楽人形。
私は文楽人形も人形劇も好きでよく行くのだけれど、観ているうちにだんだんと、話しているのが人間なのか人形なのか、かすかに聞こえる呼吸が人間のものなのか人形のものなのか分からなくなってくる。そのうち人間が人形を操っているのか、人形に人間が操られているのか怪しくなってきて……そんなふうに現実と非現実を簡単にくるっと裏返してしまえるのが、人形のもっとも恐いところであり、人形ならではの魅力だと思う。
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【参考文献】
『今昔物語集 本朝世俗篇(上)』武石彰夫、講談社学術文庫、2016年
『狗張子』神郡周校注、現代思潮社、1980年
『男色大鑑』井原西鶴、富士正晴(訳)、角川ソフィア文庫、2019年
『日本古典文学幻想コレクションIII』須永朝彦(編)国書刊行会、1996年
『日本古典文学幻想コレクションI』須永朝彦(編)国書刊行会、1995年