日本のポップカルチャーの一つとして、海外でも人気のマンガですが、江戸時代にも一大ブームを巻き起こし、世界でも絶賛されたマンガがあったことをご存知でしょうか。富嶽三十六景などの浮世絵師として有名な葛飾北斎の描いた『北斎漫画(ほくさいまんが)』です。現代のストーリー性のあるマンガではなく、図案集のようないわゆる絵の教科書に近いものでしたが、これが大ヒット。なんと、全十五編が64年間にわたって刊行され続けることになります。まさに、今でいう大ベストセラーです。葛飾北斎の経歴とともに『北斎漫画』の成り立ちをご紹介しましょう。
浮世絵師としてデビュー後、狂歌絵本の挿絵に傾倒
19歳で浮世絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)の一門に弟子入りしたした北斎は、勝川春朗(かつかわしゅんろう)の画号で絵師として順調なスタートを切りました。絵の才能に恵まれ、彫師の経験もあった北斎は、役者絵でめきめきと頭角を現し、美人画なども手掛けます。しかし、35歳の時に勝川派を離脱。一筋縄ではいかない北斎は「隠れて他流派に学んでいたため破門された」や「兄弟子との不仲」などがその理由とも言われています。そうして新たな創作の場を模索した北斎は、当時人気のあった狂歌絵本の挿絵を描くようになりました。
その後、46歳頃から、長編小説の版元である読本の挿絵に傾倒。これが大変な人気となり、一躍スター絵師となります。さらに北斎は、人気作家だった滝沢馬琴(たきざわばきん)と組んで次々と作品を発表。全国に名を知られる、今でいう有名イラストレーターのような活躍ぶりを見せます。武家の身分を捨てて町人に転向!辻本祐樹さん演じる滝沢馬琴の生涯とは?3分で解説!
北斎の絵手本が門人に所望された
全国各地に呼ばれ、旅をしながら絵を描いていた北斎は、全国に多くの門人がおり、この門人の中の一人に、尾張藩の藩士、牧墨遷(まきぼくせん)がいました。彼と意気投合した北斎は、よく名古屋を訪れ、長い時には、3カ月以上も逗留するようになります。その際に北斎の絵を学びたいと願う墨遷らのために、絵手本を描くことになったのです。最初北斎は、
画に師なし。波乱を描かんと欲すれば紅海に見、草木を描かんと欲すれば山野に見る。人物鳥獣左右其師に遭ふ。(北斎の教え 牧墨僊『写真学筆 墨僊叢画』より)
「絵に師匠などいない。絵がうまくなりたければ、紅梅を見て、山野を見る。草花や鳥、動物たちなど、師がたくさんいる」という考えから教えることを断っていたのです。しかし、周りからの強い要望に折れ、人物をはじめ、動植物、風景、風俗や妖怪幽霊まで、様々な絵を描き、その数は300枚以上にも及びました。
北斎人気にあやかった抜け目ない版元
人気絵師の描く絵手本は売れる!と目を付けたのが、名古屋の版元である永楽屋東四郎でした。永楽屋により、文化11(1814)年に出版された『北斎漫画』は、大変な話題となりました。江戸や京、大阪が中心の出版界において、永楽屋は尾張藩の藩校御用達として漢籍などを発行し、出版社としての力をつけていましたが、この『北斎漫画』で更に潤っていきました。江戸の版元とも親交があった永楽屋は、北斎と深いつながりのあった角丸屋甚助の提案もあり、共同で5年間に十編の北斎漫画を刊行し、これが爆発的な人気を呼びます。
その人気の高さは、序文を宿屋飯盛(やどやのめしもり)の別号で活躍した狂歌師、石川正望(いしかわまさもち)や戯作者・太田南畝(おおたなんぽ)といった文人が書いたことにも現れています。
名古屋で行われた一大プロモーション
江戸へと進出するきっかけにもなる永楽屋は、この『北斎漫画』のプロモーションを企画。牧墨遷らと共に、西本願寺別所の西掛所において、120畳の紙に大達磨を即興で描くという一大パフォーマンスを行います。大勢の見物人が集まる中、ほうきで作った巨大な筆を使い、大達磨を描きあげました。こういった大らかなサービス精神が北斎の人気の秘訣だったのかもしれません。葛飾北斎はプロモーションも上手かった!尾張名古屋が熱狂した即興パフォーマンス「大だるま絵」に迫る!
北斎没後も出版され続けた『北斎漫画』
北斎は、嘉永2(1849)年、享年90で亡くなります。しかし、北斎漫画の人気は衰えず、当初十編で完結するはずが、没後も発刊が続けられ、明治11年(1878)に全十五編をもって完結しました。収録された絵手本は4000点にものぼり、人々の営み、建築、森羅万象を描いた作品はどれも素晴らしく、19世紀には海外でも高い評価を受けます。絵を描くことが生きる術であったかのように描き綴られた『北斎漫画』は、私たちにそのすさまじい絵師人生を伝えてくれているようです。
参考文献:『北斎漫画入門』浦上満 著 文藝春秋『日本大百科全集』小学館
アイキャッチ 北斎漫画 メトロポリタン美術館より