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2024.03.13

37歳で失意の死。藤原伊周は実際はどんな人物だったのか?

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2024年大河ドラマ『光る君へ』は豪華なキャストにも注目が集まっています。藤原道隆(ふじわらの みちたか)の嫡男、藤原伊周(ふじわらの これちか)役に抜擢されたのは三浦翔平(みうら しょうへい)さん。甘いマスクで、視聴者にしっかりとした印象を残す演技をしているイメージがあります。

大河ドラマの公式情報によると、自信家で藤原道長(ふじわらの みちなが)のライバルとなるそうですが……実際の伊周はどんな人物だったのでしょう。

藤原伊周の家系図と人物像


藤原伊周は、『光る君へ』の中心人物、藤原道長の甥にあたる人物です。道長の長兄・道隆の嫡男で、将来は家を継ぐことを期待されていました。

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藤原伊周の簡易家系図

伊周の母である高階貴子(たかしな たかこ/きし)は身分はそれほど高くないものの、宮中きっての才女であり、幼いころから伊周を英才教育していたようです。特に漢詩が得意だったようで、多くの詩を残しています。平安後期に成立した歴史書『大鏡』には、伊周の学才は日本だけに留めておくにはもったいない、というような事が書かれているほど。

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その反面、藤原道長贔屓の歴史物語『栄花物語(えいがものがたり)』には、その性格について「心が幼かった」と書かれてしまっています。しかしその『栄花物語』にも、伊周の妹・定子(さだこ/ていし)に仕えた清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』にも「容姿は良かった」とあるので、これは史実イケメンと言って良いのではないでしょうか!?

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藤原伊周の半生


権力者の嫡孫ということで何の不自由もなさそうに過ごしてきた少年時代。永祚2(990)年、16歳の時に祖父・兼家(かねいえ)が亡くなり、父の道隆(みちたか)が家を継ぎます。すでに宮中に出仕していた伊周ですが、父の力でさらに昇進を重ねていきました。

その4年後の正暦5(994)年に左大臣・源雅信(みなもとの まさのぶ)が亡くなると、道隆はやや強引に伊周を内大臣(ないだいじん=左大臣・右大臣に次ぐ官職)に引き立てました。叔父である道長を一気に飛び越えてしまったやり方は、周囲の人の反感を買ってしまったようです。

翌年、長徳元(995)年に道隆が飲水の病(いんすいのやまい=糖尿病)が悪化して亡くなってしまいました。道隆は伊周を後任の関白にと指名しますが叶わず、道隆の弟の道兼が後を継ぎました。しかしその道兼もすぐに亡くなってしまい、次に内覧(ないらん)となったのが道長です。

ちなみに、内覧とは天皇宛の文書などを先に見る権限のことです。通常では摂政・関白経験者が持つ権限ですが、政治的な思惑などから摂政・関白の地位につかず、内覧の権利だけ持つこともありました。

後ろ盾もなく周囲に味方がいなくなってしまった伊周は、さらに長徳2(996)年に「長徳(ちょうとく)の変」という大事件を起こしてしまいます。

勘違いで法皇と大喧嘩!


伊周は、藤原為光(ふじわらの ためみつ=伊周の祖父・兼家の兄弟。故人)の三女の元に通っていました。ある日、花山法皇が同じ家に通っていることを知ります。花山法皇は三女の妹の四女の元に通っていたのですが、伊周は同じ三女の元に通っていると勘違いしてしまいました。

嫉妬した伊周は、武勇に優れた弟・隆家(たかいえ)に相談しました。すると隆家は従者を引き連れて為光の屋敷にやってきた花山法皇を襲いました。従者が放った矢は花山法皇の衣の袖を貫き、さらには花山法皇の従者である童子を殺してしまいます。

法皇が襲われたという噂はまたたく間に広がり、そこをライバルである藤原道長に突かれてしまいました。弟の隆家は出雲国に左遷され、伊周兄弟の関係者も次々に連帯責任で処罰が決まり、そして伊周も道長に対し、禁止されていた呪術を使ったとして大宰府へ左遷されることとなってしまいました。

伊周が出立するとき、母の貴子は泣きながら伊周と一緒に行きたいと嘆願しましたが許されず、ショックのあまり病気となってしまいました。

母に一目会いたかった伊周


とはいえ、伊周はまっすぐに大宰府に向かったわけではなく、病と称して播磨国(現・兵庫県西南部)に留まっていました。そして伊周が左遷されて約5カ月後の長徳2年10月始め、病に倒れた母・貴子を心配したあまり、こっそりと伊周は京へ帰ってきて、身重の妹・定子の部屋に隠れ住んでいました。

しかしそれは密告によりすぐにバレて捕まってしまい、改めて大宰府へと送られてしまいます。貴子は10月末に亡くなり、定子は失意のまま女児を出産しました。

そして長徳3(997)年、一条天皇の生母であり伊周の叔母にあたる詮子(あきこ/せんし)は大病を患い、その回復を願って大赦が発せられました。これにより伊周たちの罪は許され、京へ帰ることができました。

妹・定子の死


しかし、帰ってきたとはいえ伊周たちへの風当たりは強かったようです。

妹の定子は、長保元年(999)年に皇子を出産しますが、その誕生の同日に定子を后とする一条天皇はもう一人后を迎えました。それが道長の娘である彰子(あきこ/しょうし)です。彼女にはのちに紫式部が仕えることになります。

その翌年、定子は女児を出産しますが産後の肥立ちが悪く、出産の翌日に亡くなってしまいました。出産にも立ち会っていた伊周は、定子の亡骸を抱きしめながら声を上げて泣いていたそうです。

不遇の晩年ではありましたが、定子はとても愛されていたよう。
初恋の君が忘れられなくて。愛されすぎた后・定子と、愛されたかった后・彰子の生涯

追い詰められていく伊周


さらに寛弘5(1008)年に彰子が皇子を産んだことで、定子が産んだ皇子を天皇にする計画も危うくなっていきます。翌年には彰子と皇子への呪詛事件に巻き込まれるなど、散々な目にも遭い、失意のまま寛弘7(1010)年に37歳で亡くなりました。

『栄花物語』によると臨終の際に、2人の娘たちには「結婚や宮仕えで、私に恥をかかせないようにしなさい」、長男には「人に追従して生きるぐらいなら出家しなさい」と言い残しました。

その教えがあったからか、伊周死後、長女は父のライバルであった道長の息子の正室となり、侍女は道長の娘・彰子に仕えることになります。しかし長男はその後生活も素行も荒れて、伊周の屋敷も荒れ果ててしまいました。

大人になり切れなかった才人


摂関家の嫡男として生まれ、日本に留まるには惜しいというほどの学才を持っていた伊周。しかし父の死後はどんどんライバルたちに追い越されて没落していきます。『栄花物語』による「心が幼かった」という評がもし本当なら、それは「プライドが高すぎたため」だったのではないでしょうか。

伊周は最後にどんな夢をみていたのでしょう。もしかしたら、幼いころの、父も母も、妹弟たちも一緒にいたころの幸せだった思い出だったのかもしれません。

アイキャッチ画像:『栄花物語図屏風』 「ColBase」を元に作成

参考文献
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
土田直鎮『王朝の貴族』(中央公論社『日本の歴史』五)
土田直鎮「中関白家の栄光と没落」(『国文学』一二ノ七)
目崎徳衛「道長の前半生」(『王朝のみやび』所収)
山中裕『藤原道長』(吉川弘文館)
二宮愛理「姫たちの退場」九州大学大学院論文
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)