みんな! 久しぶり! 初めましての人は初めまして! ネットに現れた謎の鎌倉御家人、三浦胤義(みうら たねよし)bot とは我ぞかし!
……え~、和樂webをご覧の皆様におかれましては、普段と様子の違う感じですまない。2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』関連の解説記事を書いていたのだが、今回『逃げ上手の若君』(松井優征原作)のアニメがテレビで放映されたので、2年ぶりに帰って来たのだ。
▼『鎌倉殿の13人』解説記事はこちらから読めるぞ!
とはいっても、『逃げ上手の若君』の舞台は鎌倉末~南北朝時代。オレは鎌倉時代前期の御家人なので、時代が100年ほど離れてはいる。前回のように「見て来たように」とはいかぬが、まぁ「草葉の陰からこっそり見ていた」設定で書き連ねるので、生暖かい目で読んでほしい。
とまぁ、前置きはこのぐらいで、早速本題。『逃げ上手の若君』の主人公、北条時行(ほうじょう ときゆき)に関して!
北条時行の系譜
おそらく、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観て鎌倉時代に興味を持ち、『逃げ上手の若君』を観ている者もいると思う。というわけで、こんな図を作ってみた。
北条時行から見た、父母の血筋。灰色に塗られている人物が『鎌倉殿の13人』に出て来た人物だ。こうして見るとそうそうたる面々の血を引いている事がわかるな。ちなみに数字は執権(しっけん=将軍の補佐)を務めた人物だ。
北条時行の母
この図を見て、時行の母は? と思った者もいるだろう。実は『逃げ上手の若君』では時行は正室の子で嫡子(ちゃくし)とされているが、実際の母は不明なのだ。
さらに、兄の邦時(くにとき)は確かに側室の子なのだが、将来執権となることが決まった後継者だ。この点から、北条時行研究の第一人者である鈴木由美殿は「時行が正室の子である可能性はほとんどない」としている。
実は邦時・時行兄弟の父、高時(たかとき)が、正中3(1326)年に病のため若くして出家する時に、「嘉暦(かりゃく)の騒動」と言われるちょっとしたゴタゴタがあってな。
高時の家臣として幕府で権力を握っていた長崎氏が邦時を後継者に推し、邦時が成人するまでの中継ぎとして金沢貞顕(かねさわ さだあき)を執権にしようとした。
この時、邦時は生後3か月。これに対し自分が執権になりたいと思っていた高時の弟である泰家(やすいえ)と、高時と泰家の母である覚海円成(かくかい えんじょう)が不満を抱いた。
まぁ結果としてはゴッタゴッタはあったものの、3年後の元徳元(1329)年に、邦時は将来執権を継ぐ者としての儀式を行った。
その時の金沢貞顕の書状には、しっかりと邦時のことが「嫡子若御前」と書かれているので、邦時は北条氏の中で嫡子として認められていることがうかがえる。
北条時行の生まれ年
原作漫画やアニメで時行は鎌倉幕府滅亡の元弘3(1333)年の時に8歳だったが、実際は生年不明なのだ。
しかし、元徳元年12月22日の金沢貞顕の書状には「今度御出生若御前」とある。この「今度」というのは、「近い将来」という意味の「こんど」ではなく、「今回」という意味の「このたび」なので、「少し前に生まれたばかりの若御前」であると考えられる。(まぁ、これはもしかしたら高時の他の子という可能性もなきにしもあらずだが)
この若御前が時行のことなら、鎌倉幕府滅亡時は満年齢で3歳~4歳。2年後に起こる、時行が大将となった「中先代(なかせんだい)の乱」の時は5歳~6歳ということとなる。なんと過酷な運命だろうか。
こうして当時の史料がしっかり残っているにもかかわらず、原作漫画やアニメでは「なぜ時行を正妻の子であり嫡子としたのか?」「なぜ8歳としたのか」と考えるのもまた面白いのではないのだろうか。
参考文献
『金沢貞顕書状』(金沢文庫文書データベース)
『保暦間記』
鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)
鈴木由美「白河集古苑所蔵白河結城家文書所収「安達氏系図」の記載内容について」(『古文書研究』第87号、2019年)
永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館)
鈴木由美「北条時行幼時に挙兵して18年…戦い続けた生涯」(『歴史街道』2024年9月号)