「世界中の旅行者がもう一度訪れたい国」
2024年5月に発表された英旅行保険会社インシュアランス・ゴーの調査によると、「再訪したい国」の1位にランクインしたのが「日本」。
なんでも世界中の旅行者の投稿レビューなどを分析しての結果だという。伝統と豊かな文化が織りなす魅惑の国として、日本は世界中から大人気なのだとか。
だが、安永4(1775)年8月13日にオランダから到着した異国人の意見は違ったようだ。
──全世界から切り離された
──まさに死んで地球の一隅に埋葬されているのと同然である
そんな「孤独」を吐露する文章が続く。
一体、どんな場所に到着したのかと思えば、鎖国政策真っ只中の日本の長崎。
異国人からは悪名高い「出島(でじま)」である。
この出島、当時は貿易相手だったポルトガル人を隔離するために築造された人工島だった。だが、完成してまもなくポルトガル人は国外追放の身となり、代わりに出島の住人となったのがオランダ商館の人々である。長崎の平戸にあったオランダ商館の建物は破却を命じられ、泣く泣くこの出島へと移ってきたという経緯がある。
まさに牢獄。
そんな言葉で表現される出島での生活。それでも、どうにか日本滞在を無事終えることができたのも、ひとえに彼女たちの存在があったからこそ。「江戸の吉原」「京の島原」と並ぶ三大花街とうたわれた「長崎の丸山」。その丸山遊郭の遊女たちである。
今回は、そんな丸山遊女とオランダ商館の人々との関係に焦点を当てる。
人知れず丸山遊女に恋したオランダ人の失恋模様から、究極のプレゼント作戦まで。
はて、丸山遊郭とは……という方は、まず入門編をおススメしたい。
▼長崎に「吉原」「島原」よりもスゴい遊郭があった? あなたの知らない「丸山遊郭」の世界
既にバッチリ、丸山遊郭沼に落ちた方は、あなたの知らない「続・丸山遊郭の世界へ」と誘おう。
日本に渡ったオランダ商館員の切ない日常
まずは、冒頭でご紹介した旅行記から。
書いたのはスウェーデンの博物学者C・P・ツュンベリー。オランダ東インド会社が日本に派遣する船の医師として乗船し、1年ほど長崎の出島に滞在した人物である。なかでもオランダ商館長が将軍に拝謁する「江戸参府」に随行し、その道中を綴った『江戸参府随行記』は有名だ。
この『江戸参府随行記』によると、安永4(1775)年6月20日に「バタビア(オランダ植民地時代のインドネシアのジャカルタの名称)」を出発し、同年8月13日に長崎に到着。当時、日本への航海は、船5隻のうちほぼ1隻が失われるほど危険な航路だったとか。
そんな苦労を乗り越え無事に長崎に辿り着いたツュンベリーは船内で数週間を過ごし、ようやく前年の医師と交代で「出島」に足を踏み入れたのである。
そんな彼の「出島」の感想が冒頭の一文だ。
もう少し長い箇所を抜粋すると、以下のようになる。
こうしてヨーロッパ人一四人は、数人の奴隷と日本人とともに、ほとんど監禁と変わらない状態でひっそりと、出島のせまい領域内に幽閉された。そして単にキリスト教から切り離されただけではなしに、正確に言えば、他の全世界から切り離されたのであった。ここで過ごすヨーロッパ人は、まさに死んで地球の一隅に埋葬されているのと同然である。ここでは最新のことも過去のこともわからない。…(中略)…ここで自由になるものといったら、頭のなかで考えることしかあるまい。ここでは意志はまったく萎えて死に等しい。
(C・P・ツュンベリー著「江戸参府随行記」より一部抜粋)
なかなかハードな内容だ。一方で、行動の制限さえなければ、ヨーロッパ人の生活は東インドと同じくぜいたくでだらしないという記述もある。
ただ、「幽閉」や「監禁」などの言葉から推測するに、よほど「出島」での生活は窮屈だったのだろう。
それにしても「牢獄」と称される「出島」は、実際にどのような場所だったのか。
出島は、長崎市中を流れる中島川下流の洲に造られた扇形の人工島だ。幕府の直轄地であった長崎。その長崎奉行のある江戸町とは1つの橋で繋がっている構造で、確かに隔離施設のようなイメージを与えかねない。
ツュンベリーの記録では、島は小さく、出島の長さは約180m、幅約72m。実際の計測値はというと、出島の周囲にまるっと張り巡らされた板塀の長さが約561m。やはり小さいことに変わりはない。
それなのに、である。
そんな小さな島へと強制的に押し込められたにもかかわらず、オランダ商館は出島を「賃借」するしかなかった。賃料の交渉は4ヶ月も続いたというが、結局、年間で銀55貫目(約1億円)をも支払う羽目に。支払う相手は出島を築いた町人25名。これこそ泣き面に蜂である。
もちろん、これだけでは終わらない。
そんな多大な金額を支払う滞在先に、さらなる試練が待ち受けていた。出島に滞在経験のある商館長ティチングによると、出島の周囲の板塀はなんと忍び返しつき。海からの侵入防止のため海中に13本の杭が立てられていたとも。さらには、密輸ができないように排水管も曲がりくねっているというから、いやはや言葉も出ない。じつに江戸幕府の本気度合いがわかるというものである。
さらにさらに。
極めつけは、出島に向かって右側の橋のたもとに立っていた2枚の制札である。
その内容がコチラ。
禁制
一、傾城之外女入事(遊女以外の女性は入ってはいけない)
一、高野聖之外出家山伏入事(高野聖以外の出家山伏は入ってはいけない)
一、諸勧進之もの並乞食入事(寄付をつのる者や乞食は入ってはいけない)
一、出島廻り榜示木柱の内船乗廻る事
(出島のまわりの杭の中、橋の下に船を乗り回してはいけない)
一、断なくしてオランダ人、出島より外へ出る事
(許可なくオランダ人は出島から出てはいけない)
堅く相ひ守るべき者なり
寛永十八年巳十月
(『通行一覧』巻之二四四)
宮崎克則編「ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン」より一部抜粋
結論からいえば、出島との接触は絶対禁止。入口では厳しいチェックが徹底され、長崎奉行が許可する者でなければ出島への出入りはできなかったのである。キリスト教への警戒、密輸防止など様々な思惑が積み重なった結果、このような禁制となったのだろう。
それでも、視点を変えれば「牢獄」が「天国」になることだってある。
オランダ商館員からすれば、ある意味、家族水入らず、異国の地で過ごすという選択肢もないワケではない。
だが、そんな淡い希望も江戸幕府は打ち砕く。
じつは、日本に上陸できるのはオランダ商館員のみ。つまり、彼らの妻子は上陸できず哀れにもバタビアへと送り返されたというのである。今でいうなら単身赴任のようなイメージだろうか。法令では明確に禁止されていないのだが、慣習上、このような措置が行われていたという。
だから「幽閉」や「監禁」といわれるのである。
だから「牢獄」なのである。
そんな切ない彼らの日常を救ったのが、まさに丸山遊女。
禁制でも触れられていたが、出島への出入りを許された唯一の女性が彼女たちだったのである。
惚れちまった方が負け?
オランダ商館員の心身の救世主となり、さらには日本という異国の「窓口」にもなった丸山遊女。
遡ると、オランダと正式に国交を結んだのは慶長14(1609)年。
当初、オランダ船は日本のどの港に入港してもよいとのお達しで、長崎の平戸にオランダ商館を開いた。
だが、キリスト教を足がかりにヨーロッパ諸国の日本侵略を警戒し、あれよあれよという間に江戸幕府は鎖国政策に踏み切る。その上、貿易に関わる西国の大名らにも注意を払い、江戸幕府が貿易利潤を独占できるよう、寛永18(1641)年にオランダ商館を出島に移転させた。
「町年寄嘆願書」などの資料によると、遊女らは正保2(1645)年頃より出島へと出入りしていたようだ。当初は夕方に来て朝方に戻るというサイクルだったが、元禄12(1699)年頃には、昼夜とも出入りできるようになったとか。
実際に、丸山遊女らとオランダ商館員の関係はどのようなものだったのか。
ツュンベリーの『江戸参府随行記』によれば、遊女を呼ぶためのシステムが構築されていたようだ。
……みな単身で来ているなかで、そのような付き合いを望むものは、毎日遊女の予約を取りにくる男に、その旨を告げる。そうすればこの男は、禿と呼ばれる若い女中を伴った遊女を夕暮れ前に連れてくる。…(中略)…遊女は最低でも三日間は留めておく。また一年でも何年でも、好きなだけ留めておくことができる。また短期間あるいは長期間付きあった後で、遊女を取り替えることもできる。しかし逗留中、女性は毎日、町に通じる門まできて、検使にまだ島に残っているかどうかを告げなければならない。
(C・P・ツュンベリー著「江戸参府随行記」より一部抜粋)
なんだか、これまでの「遊女」とは異なる印象を受ける。
やはり、異国人相手だからか。それとも、遊女側から出向く訪問型の営業だからなのか。1年でも、3年でも好きなだけって……。本来ならば、遊女とは、短くて儚い一夜を共にする者ではなかったか。
それだけではない。
嘉永4(1851)年にオランダ船ヨアン号の船長として渡来したコーニングは遊女らをこう評価している。
出島に於ける欧羅巴人にして、幸福なる結婚者として認めらるゝ程、そのタヨス(太夫衆遊女を云う)を以って満足して生活する者を、予は親しく知ってゐる。そして我等と話すやうに、そのタヨスと阿蘭陀語を以って話すのをつねとした者が一人ゐたことを、予は思出す。然るにタヨスは日本語、馬来語、阿蘭陀語の混合を以って答へた。それは彼だけに分かるのであった。…(中略)…タヨスの呼入れられてゐる処は総べて申分なき秩序と綺麗が行き渡ってゐる。
(古賀十二郎著「丸山遊女と唐紅毛人 前編」より一部抜粋)
あれっ?
遊女ってこんなにも家庭的だった?
出島では家事を任され、秩序とクリーンさを維持。
さらに、日本語とマレー語とオランダ語を操るって、トリリンガルってこと?
雇い主に忠実で、節約に優れ、彼らと会話までできる。
そんなパーフェクトな遊女たち。
これは、もう……。
ガッツリ「嫁」的な立ち位置やないか。
そりゃ、確かに「惚れちまうわな」の一言。
過去には、本気になり過ぎてぶっ飛んだ行動に出た異国人も。
その名もマルティン・レメイ。オランダ人の外科医である。
遊女に心底惚れたが失恋したため、自暴自棄になって自殺騒動を起こしたというのである。
当時の記録によると、万治2(1659)年の秋の話だという。
突然、オランダ人の外科医が行方不明となり一時騒然となったとか。なんでも、彼は丸山遊女を呼んで3日ほど共に過ごしたというが、4日目に遊女は彼の元に来ず。遊女にフラれたと思い詰め、いっそ彼女の心を繋ぎとめられないなら死ぬ他はないと決意。
そして、驚きの行動に出る。
……其の日の夜中、書置を書き終ると、出島の外塀を乗越えて一旦海中に身を投じたけれども死ねなかった。死に損なって見ると又命が惜しく、命があれば今一目他所ながらなりとも彼女に逢ひたいと思ふ戀慕の心が又新たに強くなった。
(本山桂川著「長崎花街篇」より一部抜粋)
覚悟を決めて海中へ。
だが、死ねない。死ねないと分かると、また彼女が恋しくなる。
どこの国であっても、なかなか恋慕の情を断ち切るのは難しいようだ。お騒がせな彼は、今度は生きようと決意。出島の東の方に繋がれていた唐船までなんとか泳ぎつき、その帆の下に隠れていたという。
一方で、慌てふためいたのはオランダ商館側の人たちだ。早速、地元役人に知らせ、多くの手を借りて出島内外をくまなく捜索するも、見つからない。じつに発見されたのはその2日後。ようやく正気に戻ったのか、色欲よりも食欲ということで、空腹に耐えきれず出てきたところを身柄確保されたようだ。
当時、このような話は何も珍しいことではなかったという。
つまり、遊女に本気になるオランダ商館員が少なからずいたのである。
現代の私たちの感覚からすると、正直、遊女が心まで捧げたとは考えにくい。
あくまで仕事。あくまで一方通行だ。そんな遊女に本気になってどうすると、老婆心ながら忠告したいくらいである。
だが、彼らからすれば。
そもそも遠路はるばる日本にやってくるだけでも大変なのだ。そのうえ、50名ほどの船員のうち出島に上陸できるのはオランダ商館長を含め十数名のみ。引き継ぎが終われば、船内に残っていた船員は前年の上陸メンバーを乗せてオランダへと帰るのである。唐船のように全員が唐人屋敷へ上陸できず、彼らは限られた少数メンバーで1年をやり過ごさなければならないのだ。
出島の外へ自由に出ることもできず、異国の生活に慣れることもない。
そんな暗くて寒々しい心に、一筋の光明が差すとすれば……。
つい、すがってしまう。
それも人間の性といえるだろう。
えっと……プレゼントはラクダ?
遊女らが癒したオランダ商館員らの心。
そこで、ちと気になるのが、その代償である。
下世話な話だが、彼らは遊女にどれほどの金額を支払っていたのか。
ここでもツュンベリーの『江戸参府随行記』を参考にしよう。
「一日につき八マースを遊女置屋の主人に支払うが、本人の滞在にかかる費用に加えて、時どき遊女に絹の着物、帯、髪飾りなどの贈り物をしなければならない」
(C・P・ツュンベリー著「江戸参府随行記」より一部抜粋)
8マースとは、8匁(もんめ)。赤瀬浩著『長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド』では、江戸時代の金銭の価値を現代には当てはめにくいとしながら、銀1匁をおよそ2,000円と仮定している。そうであるばら、8匁とは16,000円となる。
ちなみに、遊女らは相手にする人たちで分類されていた。日本人相手なら「日本行」、唐人相手なら「唐人行」、オランダ人相手なら「出島行」。「唐人行」と「出島行」の両方を行き来することは断じて不可。この「出島行」の場合、遊女のレベルにより、銀3匁8分~30匁という幅が設定されていたとか。つまり7,600円~6万円程度となる。清算は1年間分を合わせて行われ、金銭だけでなく砂糖などの輸入品との相殺もあったとか。
また、これ以外に遊女への贈り物もあった。
彼らは「脇荷物」として持ち込んだ私物を遊女らに贈った。甲斐絹(かいきぬ)や更紗(さらさ)などの反物。べっこうや高級帯、また阿蘭陀靴や阿蘭陀箪笥(たんす)など、多種多様の異国の品である。特に希少な布は換金が容易で、遊女らにも喜ばれたとか。
なお、受け取る遊女側がきちんと届け出さえすれば、贈り物は遊女らにそのまま渡されたという。
なかには、驚愕するプレゼントも。
その内容はというと「ラクダ」。
2頭のつがいのラクダが遊女に贈られたというのである。
えっ?
わし?
(byラクダ)
そう、キミである。
さすがのこれには、当のラクダもびっくりであろう。
可愛らしい二重のつぶらな瞳が、驚愕で見開かれている……ように見えなくもない。
それにしても、なんでラクダ?
これには、ワケがある。
じつは、このラクダ、当初は幕府、つまり将軍への献上品だったとか。文政4(1821)年、オランダ船よりラクダが日本へと運ばれたが、まさかの幕府が受け取りを拒否したのである。
あー。こっちかー。
この絵の表情は、受け取り拒否のタイミングでのものかもしれない。
そりゃ、そんな表情になるわな。船酔いしながら荒波越えて辿り着いたのに。いらんとか言われるってひどくね?
でも、そこからの巻き返しが凄かった。
じつにラクダたちには波乱万丈の一生が待っていたのである。まずは引き取り手が決まるまで、1年以上、出島で飼育。その後、オランダ商館長のブロムホフが帰国の際に、馴染みの遊女「糸萩(いとはぎ)」にラクダを贈ったとされている。
もちろん、贈られた糸萩も困惑。
そのため、ラクダは見世物興行などする香具師(やし)が引き取った。代わりに肥田織(ひたおり)木綿三三〇端、色縮緬(いろちりめん)五七端、青梅縞(おうめじま)七〇端、紋羽(もんば)三〇端が、謝礼としてブロムホフを介して糸萩へと渡されたという。
これらは、現在でも1,000万円を超える価値だそう。
つまり、当時は換算できない天文学的数字の金額だった可能性も。これで糸萩もほくほくだ。
一方、その後のラクダはというと。
江戸に運ばれ、文政7(1824)年より両国で見世物に出されたという。待ちに待ったラクダたち。江戸の人たちはその姿に熱狂したとか。なお、ラクダの「ご利益」としては疱瘡麻疹除け、悪病払いなどが謳われ、ラクダ関連の商売も順調だったようだ。
こうして、ラクダたちは、意外にも日本でのウェルカムムードを満喫したのであった。
最後に。
当時の異国人から遊女へのプレゼントは多種多様。
内容もさることながら、その思惑も1つではない。
遊女の心を繋ぎとめる手段として。
単純に孤独を癒してくれたお礼として。
遊女の家族への生活費の補助として。
帰国の際の今生の別れの挨拶として。
実際に、彼らからの贈り物は遊女、遊女屋を支えていたし、必要であった。
ただ、そうであっても、
さすがに「ラクダ」には困ったであろう。
けれど、まさかの大逆転。
遊女、香具師、江戸の人たち、ラクダたち。
三方よしならぬ、四方よし。
Winが4つ横並びとなったのである。
やっぱり、プレゼントはこうでなくっちゃ。
参考文献
江南亭唐立作 「駱駝之世界 : 2巻」 森屋治兵衛 1825年
宮武外骨編 「川柳や狂句に見えた外来語」 半狂堂 1924年
本山桂川著 「長崎花街篇」 春陽堂 1928年
村上直次郎訳 「出島蘭館日誌 上巻」 文明協会 1938年
古賀十二郎著 「丸山遊女と唐紅毛人 前編」 長崎文献社 1968年8月
赤井達郎等編「江戸時代図誌 6 (江戸 3)」 筑摩書房 1977年2月
C・P・ツュンベリー著 「江戸参府随行記」 平凡社 1994年11月
白石広子著 「長崎出島の遊女 近代への窓を開いた女たち」勉誠出版 2005年4月
宮崎克則編 「ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そしてニッポン」 海鳥社 2009年8月
B・M・ボダルト=ベイリー著 「ケンペル 礼節の国に来たりて」 ミネルヴァ書房2009年9月
松井洋子著 「ケンペルとシーボルト」 山川出版社 2010年9月
下川耿史著 「遊郭をみる」 筑摩書房 2010年3月
赤瀬浩著 「長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド」 株式会社講談社 2021年8月