Culture
2024.12.11

“不仲”な三成の手紙の裏に「風姿花伝」を書いた!? 永青文庫の新発見資料がアツい!

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細川家の歴史資料や文化財を管理保存する永青文庫と、東京大学史料編纂所との共同調査で2021年に、細川忠興(ほそかわただおき)宛ての手紙が新しく発見された。見つかったのは、石田三成(いしだみつなり)が送った手紙。関ヶ原の戦いでは敵同士の2人だが、若い頃は仲良く手紙をやりとりしていたのか? 

血で血を洗う戦場に向かい、和歌の秘伝も引き継いだ父・藤孝のマルチタスク

忠興と三成の関係はいかに? その疑問を解く前に忠興の父・細川藤孝/幽斎(ほそかわ ふじたか/ゆうさい)がどんな人かみてみよう。

伝田代等有筆 「細川幽斎(藤孝)像(部分)」江戸時代(17世紀)(永青文庫所蔵)

足利家の幕臣と公家の血を引く藤孝は、天皇家と足利家をつなぐ政界のエリート。戦の才能があり、織田信長に重用されていた。一方で学芸にも優れていた藤孝は「古今和歌集」(※)の秘伝を受け継ぐ「古今伝授(こきんでんじゅ)」の役割もアサインされたのだ!

「古今伝授」とは、「古今和歌集」の解釈や歌学の奥義を、儀式を通じて師から弟子へと伝えるもの。当時、三条西実枝(さんじょうにし さねき)という公家が「古今伝授」の担当をしていた。しかし実枝は60歳と高齢なうえに、引き継ぐ予定の息子がまだ幼く大ピンチ。そのとき白羽の矢がたったのが藤孝だった。

1572年頃から藤孝は戦の合間を縫って、実枝から講釈を受け始めた。2年の年月が過ぎ「古今和歌集」解釈の秘伝をすべて伝授された。めでたしめでたし……とはいかないのが戦乱の世。「古今伝授」を完了した直後の藤孝は、一向一揆の激闘へ向かって行った。戦場での激務と文化的使命を見事に両立させた藤孝、まさにマルチタスクの神だ!!!!

※「古今和歌集」:905年、醍醐天皇の勅命により紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑が選出した和歌集。

千利休の弟子”神セブン”にもメンバー入りした文化人・細川忠興

戦争の傍ら「古今伝授」も行った藤孝を父に持つ忠興。忠興も武功と文化活動を両立させる、マルチタスクが得意だった。とくに茶の湯では、千利休の弟子”神セブン”といえる「利休七哲」のメンバー入りする高弟だ。いつ死ぬかわからない戦国武将が、戦の合間に文化活動を行い心の健康を保っていたのかも、と思うと胸が熱い。

「黒糸威横矧二枚胴具足」 細川忠興所用(部分)(永青文庫所蔵)/関ヶ原合戦で細川忠興が着用したと伝わる具足。具足とは、一六世紀に登場した鎧の一種。

そんな忠興は戦の合間を縫って、世阿弥の『風姿花伝(※)』から大事な部分をコツコツと書き写していた。もとは冊子形態にまとまり「花伝書抜書(かでんしょぬきがき)」という名前で保存されていたらしい。しかし近代に、巻物の形に改変されて「風姿花伝」が書き写された紙の裏面は長らく見えなくなっていた。

※「風姿花伝」:能楽の奥義書であり、「花」や「幽玄」といった芸術哲学が語られている。

石田三成、「俺に出資しないか?」と忠興に手紙を送る

忠興が「風姿花伝」を書き写した紙の裏面が気になる……。そこで東京大学史料編纂所の協力により、巻物を解体修理した。そうしたら、なんと! 解体して出てきた紙の1枚が、不仲だと思われている石田三成からの手紙だったのだ。研究メンバーはその意外性にとても驚いたという。

「花伝書抜書」第五紙紙背 石田三成自筆書状(永青文庫所蔵)

三成の手紙が書かれたのは、1586年頃。豊臣秀吉が関白となった翌年で、忠興が24歳、三成27歳の頃だという。手紙の内容を現代風に訳すと「忠興、この前の茶席はよかったな!」と書いているらしい。戦国武将の間で茶の湯が猛烈に大流行したことを感じさせる手紙。なんだか、ほほえましいやりとりだ。

手紙の続きを読むと、三成のキャラに合ったフレーズが炸裂! 現代風に訳すと「茶席でいいことがあったのだから、俺に出資しない?」と書いてある。どうやら茶席で忠興がお金をもらったようで、それを見た三成がたかっているのかもしれない。お金のやり取りをするほどに交流をしていた二人。しかしこの十数年後、「関ヶ原の戦い」で二人は対立、三成は没していくと思うと切ない気持ちにもなる。

三成の手紙にムカついて、裏に「風姿花伝」を書いた…わけではない

「俺に出資しない?」とたかる三成にキレて、忠興は裏面に「風姿花伝」を書きなぐったのだろうか? 

どうやら事情は違うらしい。三成の手紙の裏を利用した背景には、当時の紙の貴重さがある。紙背文書(しはいもんじょ:手紙の裏を再利用した文書)は戦国時代では一般的であり、紙そのものが高価であったため、無駄を避けるために手紙の裏面を使っていたそうだ。

ちなみに、解体した忠興の「花伝書抜書」から三成の手紙1通のほか、茶の湯仲間だった戦国武将・古田織部(ふるたおりべ ※)の手紙も3通ほど見つかったらしい。戦国武将本人が書いた手紙から、新たな発見が生まれる。今後の研究も楽しみだ。

※古田織部:織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将。忠興と同じく千利休の高弟。2代将軍・徳川秀忠や多くの大名に茶道を指導した。

信長と戦国武将たちの仕事のやりとりがリアルにわかる、おすすめ本「織田信長文書の世界」

熊本大学永青文庫研究センターと永青文庫は、細川家にのこる戦国武将たちの文書を日々研究している。2024年10月には、「織田信長文書の世界」という書籍を出版した。

三成の手紙のほか、信長が”部下”たちへ仕事を無茶ぶりするようすがわかる手紙など、めちゃくちゃ面白い文書が満載。是非お読みください。

https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=103756「織田信長文書の世界」詳しくはこちら

アイキャッチ画像:「花伝書抜書」第五紙紙背 石田三成自筆書状(永青文庫所蔵)
取材協力:公益財団法人 永青文庫

永青文庫 お知らせ

細川家の日本陶磁―河井寬次郎と茶道具コレクション―
2025年1月11日(土)~4月13日(日)

https://www.eiseibunko.com/exhibition.html

熊本藩主であった細川家には、日本の陶磁作品が数多く伝えられています。特に、茶の湯を愛好した細川家では、茶壺・茶入・茶碗などの「茶陶」が残されました。熊本藩の御用窯であった八代焼(高田焼・平山焼)でも茶道具が多く作られています。八代焼は、素地と異なる色の陶土を埋め込む象嵌技法が特徴で、幕府の使者への進物などに重用されました。
また、永青文庫の設立者である16代の細川護立(1883~1970)は、同時代の工芸作家との交流が深く、大正から昭和にかけて活躍した陶芸家・河井寬次郎(1890~1966)の支援も行いました。寬次郎は、初期に中国の古陶磁をもとにした作品で注目され、後に「民藝運動」の中心人物となり、作風が大きく変化しました。
本展では、河井寬次郎の作品30点あまりによって作風の変遷をたどるほか、茶道具・八代焼に注目します。河井寬次郎や八代焼を紹介するのは約20年ぶりです。また特別展示として細川護熙・護光の作品を紹介します。この機会に細川家の日本陶磁コレクションの多彩な魅力をご覧ください。

書いた人

きゅうとうりゅう・さどう。信長や秀吉が戦場で茶会をした歴史を再現!現代の戦場、オフィス給湯室で抹茶をたてる団体、2010年発足。道後温泉ストリップ劇場、ロンドンの弁護士事務所、廃線になる駅前で茶会をしたことも。サラリーマン視点で日本文化を再構築。現在は雅楽、狂言、詩吟などの公演も行っている。ぜひ遊びにきてください!