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2025.03.24

人間と結婚したり、祟ったり。ヘビ年の今こそ知りたい「日本人とヘビ」の愛憎物語

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にょろ、と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
「~」の記号に変換する手段、というかたもおられるだろうが(にょろ、とスマホやパソコンで入力すると「~」が変換候補に出てくるのである)、今年の干支である「ヘビ」を思い浮かべるかたも少なくないのではないだろうか。

ヘビ。蛇蝎(だかつ・じゃかつ)のごとく嫌う、なんていう言葉もあるように、苦手な人も少なからずいらっしゃるように思う。
当のヘビさんたちが、ま~失礼しちゃうニョロ、と思っているかどうかは分からないのだが、ヘビの名誉のためにひと肌脱ごうと思う。彼らのように脱皮はできないけれど。

正反対なヘビの評価

近所の陶芸家が毎年干支の置物を作っているのだが、へび年だけはどうにも売れ行きが不調なのだという。今年の新作は実に愛らしい表情のものばかりだったものだから私は3匹購入してしまったのだが、いくらかわいくてもヘビだからねえ、と敬遠する人も多かったそうだ。

が、その一方で熱烈なヘビ愛好家も少なくない。そして、この正反対ともいえる盛大な振れ幅は、そのまま日本における「ヘビ観」に繋がっている。日本各地に伝わる伝承を中心に見ていこう。

守り神としてのヘビ

白蛇が縁起の良い存在として大切にされているのは有名だろう。日本各地には白蛇を祀る神社が点在している。
白蛇のみならず、ヘビが人を守ってくれたという伝承は数多くある。

巨泉『おもちや千種 第4集』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

・ヘビを助けたところ、その後恩返しに来て、家は大金持ちになった
・高僧や善い行いをした人が亡くなってヘビに生まれ変わり、その地域の守り神になった
・ヘビが家に居つくと、その家は繫栄する
・ヘビを大切にしている家や村はヘビに守られ、末永く繫栄する

また、脱皮を繰り返すことから再生の象徴の縁起物とされ、あるいはねずみの食害を防ぐ天敵として、穀倉の守り神「福虫(ふくむし)」と呼ばれ大切にされてきた。弁財天の遣い、あるいは弁財天・観音・不動明王の化身として信仰の対象にもなってきた。

と、それだけ見れば、プラスの要素ばかりなのだが。

祟り神としてのヘビ

反面、ヘビは祟る。ヘビのように執念深い、という言い回しがあるが、まさにそれを思わせるしつこさで、危害を加えた人間を追い回す。いや、そもそも相応の理由もなく危害を加えるなよ、という話ではあるのだが、馬糞を投げつけたり、馬のわらじを投げつけたりすると、どこまでも追いかけてくるという伝承が複数ある。だからなんで、そんなことをするんだ……。

もちろん、斬り付けたり殺したりすると追いかける程度では飽き足らず、本人のみならず家族(多くは娘や妻)にも災厄が降りかかることになり、場合によっては一家全滅することもある。

ヘビがこうした悪役となるとき、人に助けられたことのあるカエルやカニが恩返しで助けにくるケースが多々あるのも興味深いところだ。

西沢笛畝 編『うないのとも 6』山田芸艸堂(国立国会図書館デジタルコレクションより)

ヘビに睨まれたカエル、ということわざがあるが、少なくともこうした伝承の中では、カエルは臆することなく対等に渡り合い、なおかつヘビを倒しているのである。
カエルやカニがヘビを退治する伝承は1つだけではないため、恐らくは何らかの深い意味があるのだろう。が、それはまた別の物語である。

しかし、真に恐ろしいのはいつも人間である。水の神であるヘビをわざと怒らせ、「祟り」を誘う形で雨乞いをしていたというのだ。神をも恐れぬ、という表現があるが、なんというか、神罰を逆手に取ったような行動であり、改めて「人間コワイ」を痛感させられたのだった。

雨乞いについてはまあ致し方ない面もあるだろうが、酷く自己中心的な話もある。
娘を嫁にやるから、という条件で、今まさにカエルなどを吞み込もうとしているヘビにそれをやめさせた(食事の邪魔をした)にもかかわらず、約束を破ってヘビを激怒させ、のみならず殺してしまったなんていう理不尽極まりない昔話も相当数ある。復讐は話によってされたりされなかったりだが、地獄では皆きっちり裁かれてほしいと、心から思う。食べ物の恨みが深い・筋を通さない行為が苦手なのは、私も同じであるニョロ。

ヘビと人が婚姻する物語

ヘビにまつわる伝承には「蛇婿入り(へびむこいり)」と呼ばれるジャンルがある。そう、「ジャンル」ができてしまうほどに多く、そしてある種の定型が存在する。

すなわち、

夜な夜な娘のもとに通ってくる正体不明の男(美男なことも多い)がおり、娘の親族は不審に思って男の着物の裾に糸を付けた針を刺すよう娘に言う。夜が明けて男は帰っていき、着物に刺した糸をたどっていくと、そこはヘビの棲み処であった。

というものだ。ヘビの棲み処、というのが、神社の社(やしろ)であることもある。その場合、通ってきていた男というのは蛇神様だったということになる。このケースで特に有名なのは、奈良の三輪山(みわやま)伝説だろう。記紀(きき。日本書紀と古事記のこと)に見える伝説で、娘は活玉依毘売(いくたまよりびめ)、男は三輪山の神であるヘビであり、子孫は三輪氏として連綿と続くという。

土佐内記廣通 [写]『十二類巻物 [1]』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

また、「ヘビ女房」という物語もあり、正体が知れてしまうと夫のもとを去るのだが、このとき、自分の目玉を赤ん坊のおしゃぶりとして残していくことが多い。ヘビの目玉にはどうやら不思議な力があるらしく、権力者に奪われてしまう場合もあるようだ。

「蛇婿入り」に話を戻すと、幸福な幕引きを迎えるものがある一方、そうでないものも少なからずあるようなのである。
そして、これは現代にも続く、ある習慣と密接に繋がっているというのだ。

5月の節句の菖蒲湯には、重要な意味があった

5月5日端午の節句、かしわ餅やちまきを食べ、菖蒲湯(しょうぶゆ)に入る行事だ。江戸時代には菖蒲が「尚武(しょうぶ。武道や武勇を尊ぶこと)」に通じるとして武家の男児の大切な行事とされていたが、それ以外の重要な意味合いもあるという。

ヘビは伝承において、針や刀など鉄をはじめとした金属を嫌うが、菖蒲やよもぎも嫌うとされる。そこで、ヘビの嫁にされてしまった娘を菖蒲やよもぎの湯に入浴させたり、菖蒲酒を飲ませたりした。そうすることで、腹からヘビの子が出ていくのだという。

これこそが、5月の節句に魔除けとして菖蒲湯に入る理由だというのだ。ヘビを寄せ付けないよう、というまじないであり、そこには嫌悪や恐怖といったマイナスの感情が、垣間見えるどころか剝き出しになっている。

途中まで同じ物語だったはずなのに、片や氏族の祖となり、片や年中行事にまでして排除する。ここにもまた「ヘビの両面性」が見て取れるのではないだろうか。

人がヘビになる物語

ヘビと人との婚姻はあくまで異種婚姻譚(いしゅこんいんたん。人と人以外のものが結婚する物語)だが、人であったものがヘビに変わることもある。

最も有名なのは、安珍清姫(あんちんきよひめ)伝説だろうか。裏切られた女性の怨念が自らを大蛇に変えた。
▼伝説の詳細はこちらの記事で。
歌舞伎「娘道成寺」の釣鐘が実在した! ひび割れた鐘は何を語るのか

その他にも、前述の「高僧や善行を行った人が亡くなってヘビに生まれ変わり、その地域の守り神になった」や「この世への執着でヘビになる」「お金への執着でヘビに生まれ変わる」、また、厳密にはヘビに変わるわけではないが、狐憑きと同類の「ヘビ憑き」も見られたという。

他者と同一視されるヘビ

人と交流し、人と混じり合い、人から変わるヘビだが、人以外にも複数のものと同一視される不思議な生き物である。

龍も虹も雷も、ヘビなのか

ヘビは龍と非常に近しい存在であるらしい。ヘビが山・川・海・沼・田などで修行を重ねると龍になる、という言い伝えがあり、あるいは直接的にヘビとは龍である、としているものもある。「蛇(じゃ)」という古代中国の想像上の動物は、龍に似ていて手足がない姿をしているというが、漢字や読みからも知れるように、「蛇(じゃ)」は大きなヘビの総称でもある。

ヘビは自然現象とも結びつけて考えられてきた。
虹はヘビである、と多くの伝承は伝える。虹とは天のヘビであり、天から水を飲みに来た姿・あるいはその通り道が虹なのだという。天地を1つに繋ぐ存在が虹であり、「にじ」の語源自体がヘビを表しているという説もある。
こうした虹とヘビにまつわる信仰は日本のみならず、中国・インド・古代ペルシャ・アメリカやアフリカの原住民族の間にも存在しているのだそうだ。

さらに、雷もヘビと密接な関係があるという。ヘビは山や水・里の神であると同時に、雷の神ともされているからである。

日本刀は、ヘビと同一視される?

日本刀もまた、ヘビと密接な関係があるとされる。記紀に書かれた出雲のヤマタノオロチ伝説では、退治した大蛇の尾から剣が出てくる。また、刀とヘビが交錯するような民話も少なからずあり、同一視されていたと考えるべきであろうと、多くの研究者が主張している。なお、龍や雷も日本刀と通じるとされ、それは日本刀がヘビと同一視されることとも繋がっているのだろう。

人の世界と、もう一つの世界

あまりに変幻自在、評価が両極端なヘビ。なぜ、こうも振れ幅が大きいのだろうか。

その理由を、複数の研究者たちが考察している。ごく一部だが以下に紹介しよう。

「ヘビが善と悪の二面性および呪力をもつとされるのは、ヘビには足がなくてウロコがあるため陸上動物と魚類との区分を乱し、さらに生息場所が地上だけでなく、地下、樹上、水辺、人間の住居にも出没するという空間区分をも乱す、中間的、変則的な動物であるためと考えられる。」(板橋作美『日本大百科全書(ニッポニカ)』ヘビの項より)

小島瓔禮の『蛇信仰とその源泉 蛇の神』では、作家・安部公房の評論から「内側からその日常性を想像することが難しい」と引いた上で、「ふつうに目につく動物のなかでは、蛇は予想外の姿をしている」「蛇はカオスの象徴だったのではないか」としている。人間の世界をコスモス(秩序)とし、その反対側にある存在としてヘビを置いた考え方である。

他にも、太古の昔は人にとって最大の外敵がヘビであり、それが今も本能のように染み付いているのではないか、といった説もある。どれが正しいのか、どう捉えるべきなのか、門外漢にはとんと分からぬのではあるが、どれもそれなりに納得でき、同時にどれも感覚的にすっと理解できないのは、個人的にヘビの目や口元に愛らしさを感じてしまっているからなのだろう。

[盲暦張交帖] (古暦集. 25)国立国会図書館デジタルコレクションより

小島はまた、こうも書いている。記紀に見られる国譲り神話において、「顕露(あらわ)の事」の統治を皇孫(すめみま)の命(皇統の子孫)に譲り、自分は「幽(かく)れたる事(宗教世界)」を治めることとしよう、と退いた出雲のオホナムチの命(大国主命)とは、ヘビだったのではないか、と。

参考文献の1つとした書籍の著者である吉野裕子は多くのものをヘビと関連付け、賛否両論の議論を巻き起こした研究者だったが、そもそもヘビというのが民俗学的にここまで人と深く広く繋がった存在である以上、(事実かどうかの判断は別としても)あれもこれもヘビモチーフ・ヘビ関連、であっても不思議はないのかもしれない。

どこにでもいた、近くて遠い存在、ヘビ。今回記事で紹介した以外にも、古代から続く文様にヘビをモチーフにしたものが数多くあったり、日常で何気なく目にする物品にヘビとの関連が指摘されていたり、「そのもの」を頻繁に目にしなくなった現代の都会にも、ヘビは今なおひっそりと息づいている。

それは、陰と陽、表と裏が切り離しがたいように、いつの間にかどちらがどちらなのか分からなくなるように、一体の存在として永く続いていく。だからヘビは「陰」にいて、ずっと人とともにあり続けるのだ。
そう、気づけばきっと、あなたの隣にも。

アイキャッチ画像:西沢笛畝 編『うないのとも 10』山田芸艸堂(国立国会図書館デジタルコレクションより)

主要参考文献
・小島瓔禮・編著『蛇信仰とその源泉 蛇の神』角川ソフィア文庫
・国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」(https://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB/search.html?s=09)2025年2月20日取得
・吉野裕子『山の神』講談社学術文庫
・佐佐木隆『蛇神をめぐる伝承 古代人の心を読む』青土社
・『日本の歳時記』小学館
・『デジタル大辞泉』小学館
・『新選漢和辞典 Web版』小学館
・『日本国語大辞典』小学館
・『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
・『世界大百科事典』平凡社

書いた人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。