「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と戦国大名・武田信玄は言ったとされます。彼が人の力をどのくらい大切にしていたかがわかるエピソードだといえるでしょう。その武田信玄には「武田二十四将」といわれる、24人の優秀な家臣がおり、錚々たる顔ぶれでした。2016年には山梨県立博物館での特別展に際し、「TDK24総選挙」が行われたくらい、武田ファンには有名な存在です。なお、この総選挙での1位は山本勘助でした。
今回はこの24人の武将の中から、独断と偏見で5人を選んでご紹介します。題して「和樂・武田5(ファイブ)」。あなたの推しはいるでしょうか?
家臣団の筆頭格!敵城十数をひとりで落とした!?板垣信方
板垣信方(いたがき のぶかた)は忠臣として、ユニークなキャラクターがそろった武田家臣団をまとめ上げた一人です。武田晴信(信玄)が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となりました。信玄が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげました。年をとってからの信方にはしばしば増長したような態度の行いがあり、信玄はこれを諫めるために和歌を送っています。
誰もみよ、満つればやがて欠く月の 十六夜ふ空や、人の世の中
(信方の馬印は「三日月」なので、月は信方のたとえ)
天文17(1548)年2月、信玄は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。同2月14日の上田原の戦いで武田軍は敗北し、信方も甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門と共に討死にしました。信方の死後、家督を継いだのは嫡男の信憲でしたが、行いが悪かったために武田家から追放され殺されました。一方で、信方の娘婿・左京亮信安が、信玄の命を受けて板垣氏を再興しており、甲斐板垣氏といいます。武田家から追放された信憲の子孫にあたるのが、明治の政治家・板垣退助です。
板垣信方のここが推し!
武田信玄の父、信虎から2代にわたって仕えた板垣信方は、年を取ってから少し偉そうになった部分もあったようですが、基本的にとても忠実な家臣。家臣に甘えは見せないけれど、信用できる大人がそばにいるって安心。
信玄の両眼 曽根昌世と真田昌幸
曽根昌世(そね まさただ)と真田昌幸(さなだ まさゆき)は伊豆侵攻と韮山城攻めの後の偵察において、曽根昌世とともに「両眼の如き者ども」と信任されていました。
曽根昌世は信玄の奥近習衆(側近中の側近)を経て足軽大将となりました。相模の北条氏康との三増峠の戦いでは、退却する武田軍の指揮を引継ぎ、撤退を成功させました。信玄が駿河を領国とすると、昌世は駿河興国寺城代を任されています。
信玄が亡くなった後は勝頼に仕え、天正3(1575)年の長篠の戦いにも参加しますが、武田勝頼の滅亡後は徳川氏に仕えました。その後、織田信長の死後に起こった、天正壬午の乱と呼ばれる徳川家康による甲斐への侵攻に参加し、活躍しました。またこの時の北条氏との戦いにも大きく貢献し、この功績により武田時代と同じく興国寺城城主となりましたが、程なく出奔してしまいました。昌世は武田信玄から軍学や築城術などを直接学んでいたと言われており、これらの技能に精通していたようです。
真田昌幸は天文22(1553)年8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、信玄の奥近習衆に加わりました。永禄9年(1566)年春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めました。信玄の晩年には武田家の奉行人に列され、その死後家督を継いだ武田勝頼に仕えます。
天正10年(1582)年3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われ、岩櫃城へ迎える準備をしていましたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で小山田信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われています。武田家への忠誠を示す逸話が知られる一方で、武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触があったとも。武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の軍に組み込まれ、織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となりました。真田昌幸はNHK大河ドラマ『真田丸』における草刈正雄さんの好演をきっかけに、ここ数年で人気が急上昇しています。死後数百年、なにが起こるかわかりません。
曽根昌世のここが推し!
武田氏が滅亡したあとは徳川家康に仕え、家康が旧武田領を手に入れるために働き、その後は蒲生氏郷に仕えるなど機を見るに敏なところが現代風。直系の子孫が残っておらずあまり逸話も残っていないけれど、信玄の「両眼」のひとつだったったというのはすごい!
真田昌幸のここが推し!
この人もまたチャンスをものにできる人。息子たちを徳川方、豊臣方に分けて真田の血筋を絶やさない工夫をするなど、知略にたけている。やっぱり「両眼」といわれるくらいの人たちは、実によく目がうごくに違いないと思わされます。
二十四将随一のイケメン!?春日虎綱(高坂弾正)
春日虎綱(かすが とらつな)は、大永7(1527)年、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれましたが幼くして父を亡くし、信玄の奥近習として召抱えられました。はじめは使番として働き、天文21(1552)年には足軽大将となり、春日弾正忠を名乗るように。天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代に任ぜられます。さらに虎綱は「川中島衆」を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領を守るよう命じられ、川中島の人々を率いました。
晩年には、長篠敗戦後における敗報を聞いて勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面を気遣ったといわれています。その後は、天正6(1578)年の謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わったりも。天正6年6月14日に海津城において52歳で死去しました。囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」ともいわれる知将でした。
なお信玄はあまり手紙を書くことが得意ではなかったようですが、虎綱にあてた熱烈な恋文を残していることが一部では有名な話として伝わっていました。現在ではこの手紙は虎綱にあてたものではないとされていますが、こうした話から虎綱は「いい男」として後世に伝えられ、大河ドラマなどでも二枚目俳優が演じることの多い人物です。
春日虎綱のここが推し!
あまり恵まれない子供時代を過ごしたのに、近習としてつかえるうちにスマートな働きができるようになったのはきっと努力の賜物。あまり長生きができなかったのが残念だけど、よく働きました。ちなみにイチオシの春日虎綱俳優はNHK大河ドラマ「武田信玄」(1988年)での村上弘明さんです。
「鬼美濃」と呼ばれた猛者!原虎胤
原虎胤(はら とらたね)は元々下総国千葉氏支流である下総国衆・臼井原氏の一門でした。小弓城合戦と呼ばれる戦いで小弓公方・足利義明軍に敗北して城を奪われ、父・原友胤とともに甲斐に落ち延び、武田信虎の家臣となったとされます(歴史上の事実とは異なるとも考えられます)。友胤は信虎のもとで功績を挙げ、虎胤も足軽大将として活躍しました。信虎追放後は信玄に仕え、信濃の小笠原氏との戦いで活躍し、平瀬城の城代を任されるようになります。
しかし、天文22(1553)年、浄土宗信者であった虎胤は信玄から日蓮宗に改宗するように迫られて拒絶し、甲斐を追放されて相模北条氏に身を寄せます。その後武田に帰参し、引き続き武田氏の将として活躍しました。「鬼美濃」とあだ名されるほどの猛者っぷりでしたが、戦場で負傷した敵将に肩を貸して送り届けたといわれるほど、情け深い大将でもありました。永禄2(1559)年に信玄の剃髪に伴って、自分も剃髪。永禄4年(1561年)信濃国割ヶ嶽城攻略で負傷して以後は第一線を退き、永禄7(1564)年1月28日に享年68歳で病死しました。豪傑であり、武勇で名をはせた虎胤は、美濃守だったことから「鬼美濃」と呼ばれ恐れられました。
なお、現在の原家には家宝ととして信玄からもらった軍配が400枚保管されているとか。
原虎胤のここが推し!
「鬼美濃」と呼ばれたにもかかわらず、負傷した敵の武将を送り返してあげたという逸話が残っている原虎胤。「気はやさしくて力持ち」だったことが想像されます。いわば戦国の「笑わない男」だったのかも??
日本人はグループ好き!?
二十四将のなかには「武田四天王」あるいは「武田五名臣」と呼ばれる人たちがいます。
武田四天王は、甲斐国の武田信玄・勝頼期の重臣の馬場信房(馬場信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)を指します。また、武田信虎・信玄初期には板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、小山田昌辰(虎満)を指すともいわれています。さらに原 虎胤、小畠 虎盛、横田 高松、多田三八郎、山本勘助の五人は「武田五名臣」と称されることがあります。
このように、日本人は何名かをグループ分けして名前を付けることが好きなようで、千利休の弟子で高名な人を「利休七哲」などと呼ぶこともあります。武田二十四将、四天王などと同じく、いずれもメンバーには諸説ありますが、「推しメン」を決めることで歴史がいっそう楽しく感じられるかもしれません。歴史を考えるときは、人物だけはなく土地や政治・経済の流れを総括的に観察する必要がありますが、お気に入りの武将を入り口に中に入っていくのも、時にはよいでしょう。
歴史博物館 信玄公宝物館
開館時間:9:00~17:00(但し入館受付は16:30迄)
観覧料:一般500円(20名以上 団体400円)・小中学生100円
休館日:毎週木曜日(但し4月~11月は無休)
住所:山梨県甲州市塩山小屋敷2280番地 臨済宗乾徳山恵林寺山内
電話:0553-33-4560(代)
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