告白します。はじめて銅鏡を見た時「こんなにゴツゴツしているのに、どこが鏡なんだろう」と思いました。ひどい勘違いでした。展示されている銅鏡の装飾はいわば鏡の裏面。鏡面は反対側でツルツルしています。青銅(銅を主成分としてスズを含む合金、いわゆるブロンズ)製のものがほとんどのため現在は錆もありますが、当時は鏡としての役割をしっかり果たしていたことでしょう。そしてパッと見には謎の青銅器・銅鐸。「鐸」とは大きな鈴のことを指す言葉です。たまたま大学で歴史を学ぶ学科に迷い込んだわたし、当時の認識は「ドウタクってなんだ!?」というひどいものでした。でも銅鐸は見れば見るほど味わい深く「考古学やってみようかな」と思わせてくれたものなんです。
そこで、知っていただきたい考古遺物の基礎知識として、弥生時代以降、祭祀(さいし、おまつりなどのこと)などに大きな役割を果たした銅鏡と銅鐸について、どのようなものだったのかをご紹介します。知ればきっとあなたも青銅器に興味を持つことまちがいなし!
鳴らす?鳴らさない?銅鐸の役割とは
最初に銅鐸を見た時、何か似ていると思いませんでしたか?わたしは「お寺の鐘に似てる」と思いました。同じように感じたかたは多いのではないでしょうか。
銅鐸は、弥生時代に近畿地方を中心に作られた祭祀のための道具で、青銅でできています。もともとは中国で作られ、朝鮮半島を経由して伝わってきました。朝鮮半島では銅鏡や銅剣とともに、神の声を聞くことを職業としていたとされる権力者の墓へ入れられていました。朝鮮半島の銅鐸はそれほど大きくないシンプルな青銅の鈴で、当初はお寺の鐘と同じく鳴らされていたようです。しかし、時代の経過とともに新しいまま埋葬されることが増えたと考えられています。
銅鈴は日本に伝わったあと、独自の進化を遂げました。いちばん大きな特徴は巨大化したこと。現存する最大のものは滋賀県野洲市の大岩山で出土した1号銅鐸で、なんと高さ144センチメートル、重量は45キログラムにも達します。また、表面にさまざまな文様が施されるようにもなりました。こうして銅鈴は日本において「銅鐸」へと進化を遂げたのです。
「銅鐸」は進化を始めた当初はまだ鈴としての役割も持っていました。銅鐸の内部には「舌(ぜつ)」と呼ばれる棒状のものがつけられており、上部の半円状の「鈕(ちゅう)」に紐を通してぶらさげ、音を出したこともあったとわかっています。
それにしてもこんな大きな鈴、いったいどのような時に使えばよいのでしょうか。著名な考古学者である小林行雄博士(1911~1989年)は香川県で出土した銅鐸に描かれた絵画を分析し、「秋の収穫祭のときに祖先をたたえるために鳴らしたものだ」と考えました。また、春成秀爾博士(1942年~)は、「シカ」「ヒト」「サギ」という水田での稲作に関係するモチーフが多いことを発見し、銅鐸は豊作を祈願する祭りに祖先の霊を招くために鳴らしたものだと結論づけています。
銅鐸の大型化が顕著になり、1メートルを超えるようになったのは弥生時代の後期です。ここまで大きくなると、もう人の力では振って音を鳴らすことはできません。舌や鈕は形骸化し、豊穣を願うシンボルとして存在することとなったのです。「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への変化だといえます。しかしシンボルとしての銅鐸の歴史は長く続かず、弥生時代の終わりとともに見られなくなってゆきました。
なお、銅鐸は時に壊れた形で見つかることがあります。その理由の一つとして「江戸時代、花を生けるためにちょうどよかったから、壊して使われた」という説が伝わっています。
初期の小さなサイズの銅鐸はミニチュアのようでおもしろく、後期の巨大な銅鐸は迫力があって見ごたえがあります。描かれた文様も農耕や家屋の様子など実にさまざまで、当時の生活をしのぶこともできます。「弥生時代はちょっと地味な気がする」と思っているかた、それはたぶん思い違いです。ぜひ一度銅鐸と向き合ってみてください。きっと考え方が変わると思います。
鏡よ鏡、なに映す?たくさん銅鏡を持っているのは権力のあかしだった
銅鏡は東アジアでの使用例が多く見つかっていますが、エジプトなどでも出土しています。日本では弥生時代から古墳時代の遺跡で多く発掘されていて、大陸からの輸入品である舶載(はくさい)鏡と、国産の仿製鏡(ぼうせいきょう)がありました。銅鏡は富の象徴であり、有力者が自分の墓にたくさんの鏡を副葬品として埋葬したと判明しています。この風習は弥生時代に始まり、古墳時代にも引き継がれました。また、三種の神器のひとつに八咫鏡(やたのかがみ)が存在。ここから、信仰の対象となったのも日本における銅鏡の特徴なのです。
銅鏡は背面に施された文様などの違いで、さまざまな種類に分類されます。紐を通すところがたくさんついた「多鈕細文鏡」、8個の弧形をめぐらした内行花文帯のある「内行花文鏡」、内行花文鏡をもとに、四葉座型の鈕座を除いて全ての図像を直線と弧で象った「直弧文鏡」、海獣(海外の獣)とシルクロードからもたらされた葡萄を描いた「海獣葡萄鏡」などが存在。また、銅鏡には「紀年」が書かれたものが存在し、ここから出土した遺跡の年代を推測することができる貴重な遺物でもあるのです。
三角縁神獣鏡が特別なワケ
4000面以上発掘されている銅鏡のなかでも、「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」は特別な存在です。三角縁神獣鏡は縁が三角の形状に盛り上がって、背面に神と獣のモチーフがあることからその名がつけられたもの。古墳時代前期の古墳から出土するケースの多い銅鏡で、おもに近畿圏で発見されています。
三角縁神獣鏡が特に注目を集める背景には邪馬台国論争があります。『魏志倭人伝』には魏の皇帝が倭の女王卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたという記述がみられ、三角縁神獣鏡こそがその銅鏡であるという説があるのです。そして、これを「邪馬台国=畿内説」の根拠だとする学者がいます。しかし、三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土していなないので、「日本で作られたものであり、中国から与えられた鏡と考えるのは難しい」という人も。
三角縁神獣鏡は邪馬台国論争を彩る重要な手がかりのひとつですが、邪馬台国のロマンを加味せずとも、その精緻なつくりは見ていて飽きません。もちろん他の銅鏡も同じように、こんな鋳物が弥生時代や古墳時代に作られていたなんて…と印象深いこと間違いなし。しっかり目に焼きつけてくださいね。
いろんなところで見られる銅鐸!このチャンスに古代史ファンになりませんか
我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された720年から2020年がちょうど1300年であることを記念し、「日本書紀成立1300年 特別展『出雲と大和』」が東京国立博物館で2020年1月15日~2月26日まで開催されていました(新型コロナウイルスの影響で当初予定より早めに終了)。考古学好き、古代好きには垂涎の展示物が並び、いつまで見ていても飽きない展示。圧巻だったので早い終了は残念でしたが、銅鐸や銅鏡はこの展示会以外にも各地の博物館で見ることができます。
●銅鐸が展示されている博物館など
銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)
滋賀県にあるこちらの博物館は弥生の森歴史公園内にあり、明治時代に24個も発見された大岩山の銅鐸が展示されています。
http://www.city.yasu.lg.jp/soshiki/rekishiminzoku/museum.html
神戸市立博物館
国宝「桜ヶ丘銅鐸」を展示。3個の流水文銅鐸(1号銅鐸~3号銅鐸)と11個の袈裟襷文銅鐸(4号銅鐸~14号銅鐸)が並ぶさまは圧巻です。
https://www.kobecitymuseum.jp/
浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館
この地域から出土した銅鐸7点が展示されています。
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/hamahaku/09annex/hakubut03.html
松帆銅鐸
兵庫県南あわじ市で大量に出土した「松帆銅鐸」に関する総合的なサイトです。銅鐸の説明のほか、地元の会社と銅鐸とのコラボ商品も紹介。市内ではレプリカを見ることが可能です。
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/site/matsuhodotaku/
●銅鏡が展示されている博物館
京都大学総合博物館
三角縁神獣鏡のなかでも有名な、1953年に椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川市山城町)から出土した32面以上もの鏡群を収蔵。詳しい解説つきの映像を館内で見ることができます。
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/
鳥取県立博物館
県内の古墳から出土した三角縁四神四獣鏡、画文帯神獣鏡などが展示されています。
https://www.pref.tottori.lg.jp/museum/
伊都国歴史博物館
福岡県糸島市にある博物館。平原王墓から出土した内行花文鏡(国宝)は国内最大で迫力満点です。
https://www.city.itoshima.lg.jp/map/020/05/s05.html
「銅鐸?銅鏡?難しそうだし地味じゃない?」と思っていたかたも、よく見ると全然地味じゃないことに気づくでしょう。むしろ派手な部分も多い古代の青銅器を、一度じっくりてみてください。おもしろさや奥深さや神秘――きっとその魅力に日本人としての心をふるわされ「出雲か…大和か…なにもかもがなつかしい」と思うはずです。