Culture
2020.03.04

「くらえッ、鉛玉ストレート!」明治初期の野球で使われていた、トンデモ野球道具たち

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「ボールがない状態で、野球をするにはどうしたらいいか」

こう聞かれたとき、あなたならどう答えますか? 一見すると単純なようで複雑な問いにも思えますが、難しく考える必要はありません。

実際、小学生の頃の私は「それなら公園に落ちている石ころをボール代わりにすればいいんだ!」という答えを出しました。仲間たちにもそう提案し、公園で始まったのは「石ころ野球」。今考えれば危険極まりない競技ですが、当時の私たちはそれなりに楽しんでいたことを覚えています。

…なぜこんな話をしたかというと、今回の記事で取り上げる「日本に野球が伝来した当初」においても、小学生の私と同じような発想で野球道具が用意されていたから。まだ武士の世の香りが色濃く残る明治初期の野球人たちが考えた、「痛々しくも愉快な野球道具」のヒミツに迫ります!

野球伝来当時、現代のように野球道具を気軽に買うことはできなかった

野球という競技が日本に伝来したのは、明治5(1872)年のこと。当時第一大学区第一番中学 (のちの開成学校、現在の東京大学)に勤めていた御雇いアメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが、学生たちとの休み時間に始めたと言われています。すでにアメリカでは広く野球が普及しており、まだ日本が江戸時代であった1860年代にはすでにプロ選手が出現しているほど。当然ながら日本では未知の競技でしたが、ウィルソンの教えを受けた学生たちは「こりゃあ面白い!」と感じたようで、「野球遊び」に参加する学生たちも増えていきました。

しかし、当時はバットやグローブといった、現代では誰でも買える野球道具を手に入れることが困難でした。日本に野球がないということは、すなわち野球道具の生産もなされていないからです。アメリカにて買う方法はありましたが、明治初期に渡米できる日本人は極めて限られた存在でした。そのため、学生たちは「野球道具の存在や形は知っているが、道具そのものを手にできない」という状態にあったのです。

ところが、彼らはそれでも野球がしたかった。明治初期に学校に通えた学生はエリートぞろいでしたから、明晰な頭脳をウンウン唸らせて解決策をひねり出しました。

こうして現れたのが、日本で広く普及している「野球道具っぽいもの」を、代用品として使ってしまおう! という発想。現代人が見ると痛々しくも可笑しくて仕方のない道具の数々は、彼らの情熱から生まれたのです。

バットはそのへんの「木」を削り出して自分で作った

野球をするうえで必須の道具である、バット。

しかし、当然ながら日本に古くからある道具ではありません。

そこで彼らは、「ないなら作ればいいだろ!」と自分たちで木を削り出してバットを生み出してしまったのです! 使用された木は樫や桜のもので、これは明らかに「そのへんに生えている木」でした。一般的に現代の日本産木製バットにはアオダモを用いていることからも、これらの木がバット製造にはそれほど適していないことがわかります。しかも後述するように当時のボールは鬼のような硬さだったので、すぐに折れてしまったことでしょう。

しかし、当時から学生たちは、バットに文字を彫って自分なりにカスタマイズしていたようです。ここだけは、むしろ現代よりかもしれません。文献で確認できたところだと「一撃風を生ず」といういかにも明治の血気盛んな学生っぽいものから、「当たらずとも遠からず」という洒落たものまでありました。「当たらずとも遠からず」と彫られたバット、個人的にはすごく好きです。「イヤ、当たってないんかい!」と突っ込みたくなるところも含めて。

ボールは鉛玉を皮でつつんでそれっぽくした

日本にも「蹴鞠」という球体を使った遊びがあったことは知られていますが、現代の我々がよく知るような形のボールは存在しませんでした。

当然、彼らは自分たちでボールを作りはじめます。

現代だとボールは大きく分けて「軟式ボール」と「硬式ボール」の二種類があります。明治初期の手作りボールをどちらかに分類するなら、いちおう硬式ボールということになるでしょう。しかし、我々のよく知る硬式ボールは、コルクの芯をゴムで包んだうえ、糸を巻いて最後に牛皮を縫い合わせるという複雑な作業を経て製造されるのが一般的。技術的にも、材料的にも、当時の学生たちが気軽に作れるものではありませんでした。

では、彼らはどのようにして硬式ボールを製造したのか。

目を付けたのは、ボールと同じ球体をしており、かつ当時それなりに普及していた「鉛玉」でした。この鉛玉に無理矢理皮をかぶせ、「野球ボール」と言い張ったのです。確かに、鉛玉もボールも形は同じ。なんとか代用は効きそうな気がしてきます。

しかし、この鉛という素材はおもりや銃弾などに用いられるもので、かなり「重い」という特徴があります。加えて近年では毒性も指摘されており、全くもって野球ボールには適さない素材でありました。そのため、学生たちは捕球の痛みをこらえながら野球をしていたようです。

グラブ?いらん、素手で捕る!

現代の野球道具でイチバン複雑な過程を経て作られているのは、捕球用のグラブだと思います。その製造方法は長文でないと書き表せないので割愛しますが、機械と技術がこれほど発達した現代でもかなりの手間を要するグラブを、明治の学生たちが手作りできるはずもありません。

しかし、野球をやったことがある皆さんなら分かると思いますが、バットやボールに比べるとグラブの「必須度」は一段落ちます。なぜなら、グラブはあくまで捕球を補助し、痛みを軽減する道具だから。その気になれば、素手で捕球してもいいのです。実際、現代でも守備の上手い内野手が素手でボールをキャッチし、そのまま送球動作に移る光景をしばしば目にします。

当然、彼らもグラブを使わずに素手でボールをキャッチしました。ところが、先ほども述べたように、当時使用されていたボールは「鉛玉」。これを使って野球をしたと証言するクラーク博士の弟子・大島正健の言葉を引用すると

鉛の球に皮をきせたボールを作ってノッキングを始めたが、恐ろしくかたい球を素手で受けるのであるから負傷者続出、あまり器用でない私は飛球を受け損じて左の中指が曲り、終世それがいえずに終わってしまった

…なんとも冗談みたいな話ですが、左の中指がひんまがってしまった本人が証言するのですから、真実と考えざるを得ないでしょう。加えてこの人物はクラーク博士の教えをまとめ、後世に伝える極めて重要な役割を担いました。つまり、当時でもかなりインテリな部類に入る学生だったのです。なんともおバカな怪我ですが、彼らが痛々しくも野球を楽しんでいた様子がよく伝わってくる一件です。

しかし、いくら野球が楽しいといえども流石に痛みがひどかったか。彼らは剣道のコテを腕にはめたり、胴当てを胸につけてみたりと痛みを軽減する工夫を凝らしました。が、「身動きに支障が出るので、これはいかんということになった」ようです。…どんなに工夫をしても結局は鉛玉を捕るわけですから、当然といえば当然なんですけど。

ちなみに、日本では1890年代にキャッチャーマスクが製造されましたが、これも剣道の面を改造したものでした。アメリカでもフェンシング用の防具から着想を得てキャッチャーマスクが発明されたと言われているので、彼らの発想自体は良い線をついていたということでしょう。鉛玉で指を曲げてしまうとはいえ、流石はエリートたちの頭脳…なのか?

馬鹿らしくもひたむきな彼らの姿勢が、日本の野球を作ってきた

「鉛玉で野球をしてたら一生指が曲がったままになった」なんて、もはや笑い話になっているのかも怪しいところです。この記事をお読みのお子様はゼッタイに真似してはいけませんし、そんなことをしているヤツがいたら、親御さんも厳しく叱ってやってください。

しかし、一見バカらしくも思える、彼らのひたむきな「野球愛」が現代につながる野球文化を作ったこともまた事実なのです。実際、戦前期の野球界をリードしていたのは彼ら学生たちであり、最新の野球技術をアメリカから学び、野球レベルの向上に大きく貢献しました。また指導者としても全国に野球を広める役割を担い、国民的スポーツとして認知されるに至ったという側面もあります。

未知の文化を社会に定着させるには、彼らのような「情熱」と「行動力」が必要なのかもしれません。

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?