歴史上、最強家臣団には固有のネーミングがある。「徳川四天王」などはその一例だ。それだけ彼らは有名で、力があるということ。しかし、残念ながら、最強家臣が何人いようが、一族が辿る結末は変わらない。この残念な事実は、これまでの歴史がいやというほど証明してくれている。
一体どういうことか。残念な事実、それはズバリ、「組織の結末はそのトップで決まる」ということである。
古今東西、どのような時代でも、これは共通の法則である。どんなに智臣や軍師が揃っていても。どんなに優秀な部下が名を連ねようとも。合議制でない限り、今も昔も重要事項は組織のトップが判断する。ゆえに、組織のトップが間違った判断を下せば、最強家臣は従わざるを得ない。最強家臣だからこそ、余計に辛い。訪れる不幸な結末が手に取るようにわかるからだ。戦国時代、敗けると分かりつつ身を挺して戦った智将はあとを絶たず。無念極まりない。
そう考えると、トップの必須条件はただ一つ。先を予測し変化に適応できる「頭の良さ」。これは、なくてはならないものだろう。では、あと一つ、トップとしての条件を追加できるとすれば、何が良いだろうか。今回は戦国時代を代表する2人の武将から、理想の条件を導き出したい。
毛利元就―これってリアル背水の陣?
エントリー1人目は、戦国きっての調略の鬼、毛利元就(もうりもとなり)である。大内氏や尼子氏など名だたる一族の間に挟まれながらも、中国地方で着々とその勢力を拡大した毛利一族。さて、この毛利元就、じつは家臣のモチベーションを上げることが非常にうまかったという。
今回、紹介するのは、天文24(1555)年の毛利元就が陶晴賢(すえはるかた)を破った「厳島の戦い(広島県)」である。陶軍は2万、毛利軍は3000といわれるほどの兵力差ながらも、毛利軍が大勝利を収めた。
もちろん、この兵力差では勢いだけで勝つことなどできない。調略に長けた毛利元就が、いつの時点で誰に属して戦えばよいかを緻密に計算したからである。もともと中国地方は尼子氏と大内氏の2大勢力の統治下であったが、まず元就は大内氏に属して、尼子氏を撃退してもらう。その後、大内氏のトップである大内義隆が、勇将の陶晴賢の謀反で滅びるのを傍観。そうして、旧主の仇を討つという大義名分を得て、陶晴賢を倒して中国地方を掌握しようと考えたわけである。それが、この厳島の戦いである。
ただ、平地で戦っては勝機がない。そのため、決戦の場を厳島と決めた。そして、陶軍本隊を厳島に追い込むために、囮の城を厳島有ノ浦(いつくしまありのうら)に築城する。宮尾城(みやのおじょう)と呼ばれる城だ。また、この城には陶晴賢が無視できない武将を配置した。大内氏を裏切って毛利側に寝返った武将である。さらに、「宮尾城を攻められれば痛手となる」「築城は一生の不覚」などと、毛利元就の言葉を偽装内通工作で末晴賢側に漏らすことまでした。
こうして駒が揃った。陶晴賢は思惑通り全軍を厳島に渡らせて陣を置く。一方、元就は夜に紛れて厳島へと渡り、陶軍の背後の山へと移動。朝駆けで陶軍へ奇襲を行った。海には村上水軍と毛利水軍が待ち構え、逃げてきた陶軍は壊滅状態に。結果、陶晴賢は自害。厳島の戦いは毛利側の大勝利となったのだ。
ここで、注目すべきは毛利元就の自軍への戦術である。さすがに場所や時刻で敵陣の意表を突いたとしても、やはりこの兵力差は恐怖の根源となる。そこで、元就はどうしたか。カギは「舟」である。
じつは、毛利軍本隊の移動手段は「舟」。前日の夜、嵐にもかかわらず兵たちは舟で厳島へと渡っていたのだ。そして、兵が上陸した直後、なんと、輸送手段である舟を対岸へと返してしまったのだ。「いやいや、ワシら帰れませんやん」となるわけである。兵からすれば、真っ青の状況だろう。島から出るに出れず。生きて帰るには、ここで是が非でも陶軍を破らなければならないのだ。つまり、毛利元就はリアル背水の陣を敷いたのである。
「生きて帰るために」。
この想いを胸に、毛利軍は死に物狂いで戦ったに違いない。兵力差はあっても、一人一人のパフォーマンスが高ければ、打ち破ることができる。それを証明した戦いでもあった。それにしても、家臣からすれば、モチベーションどころの騒ぎではない。毛利元就の策略は「あり」かもしれないが、その度合いは「なし」だ。やり過ぎ感は半端ない。せいぜい限度内で抑えてもらいたいところではある。
伊達政宗―マジで撃っちゃっていいんすか?
エントリー2人目は、奥州から天下を狙う、ぶっ飛びパフォーマーの伊達政宗である。伊達政宗に関する逸話は非常に多く、話題性に事欠かない。組織のトップとしての政宗を評価するなら、やはりその行動力だろう。なかでも、今回は慶長20(1615)年の大坂夏の陣をご紹介したい。
大坂夏の陣は、豊臣家最後の戦いとして知られる。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで東軍が勝利。徳川家康は幕府を開き、その2年後に将軍職を秀忠に譲っている。つまり、天下人となった徳川家康は、これを世襲とし、豊臣秀吉の嫡男、秀頼には返さないという意思表示をした。豊臣秀頼としては、徳川家康に臣従する一大名として生き残る選択肢もあっただろう。しかし、参勤交代などの要請を拒否し、方広寺の鐘銘にも文句をつけられた今、戦いを避けることはできなかったといえる。
こうして豊臣方と徳川方に分かれて、両軍は2度にわたって戦うことになる、まずは慶長19(1614)年の大坂冬の陣。こちらは豊臣方で戦った真田幸村の活躍により、最終的に両軍は講和へ。しかし、じつは、この講和がくせものだった。というのも、徳川家康の忠臣、本多正信の策により、難攻不落といわれた大坂城の堀が埋められてしまったからだ。豊臣方にとって相当な痛手となる。
その半年後。大坂夏の陣が起きるが、戦いはわずか4日で決着がつく。やはり、三の丸、二の丸の堀が埋められたため、大坂城はもはや平城(ひらじろ)と同じ。豊臣方からすれば、城外に打って出て戦うしかなかったのだ。こうなれば、決着も早いわけである。つまり、大阪夏の陣では、徳川方にそこまで戦死者が出なかったことになる。
ここで、おかしな話がある。
徳川方で戦ったにもかかわらず、武将、騎馬兵そして雑兵まで全員が討ち死にした隊があるのだとか。その名も、神保相茂(じんぼすけしげ)。大和(奈良県)で7000石の地を認められていた。『寛政重修諸家普(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には、このような記録がある。
「この日天王寺表においてふたたびたたかいをまじえ、相茂が手勢騎馬の士雑兵二百九十三人一時に討死にし、相茂も奮戦して死す。年三十四」
ちなみに、死因は鉄砲の乱射だとか。
さて、誰が撃ったのか。
答えは『旧記雑録(薩藩旧記)』の中の記録から。
「伊達殿は、今度味方を討ち申され候事、しかるに御前はよく候えども、諸大名衆笑い物にて比興(卑怯、ひきょう)者の由御取り沙汰の由に候」
伊達殿、つまり伊達政宗である。両者とも徳川方につき、大坂夏の陣で戦っていたが、伊達政宗が味方の神保相茂軍を撃ったというのだ。
ちなみに、神保軍はひと合戦したのちの休憩タイムだった。一息入れている最中に、伊達軍に鉄砲で撃たれたのだ。その後、生き残った数人が、伊達政宗の味方討ちを訴えたという。しかし、政宗曰く、味方と知ってはいたが、前にいた神保軍が逃げるためこちらに崩れかかってきたので、やむなく討ったと抗弁。結局不問にされた。
なお、真相はというと、ただ単に、前にいる神保軍が邪魔だったとか。政宗としては、これから伊達軍が手柄を取りにいくというところで、ちょうど目の前の味方である神保軍が遮っていたのだ。ならば、もう端的に撃ってしまえと命じたようだ。
それにしても、やはり政宗の家臣も真っ青だろう。あまりにも豪胆。あまりにも短絡的。確かに自軍の手柄は立てられるかもしれないが、いかんせん、針が振り切れている。頭がいいというよりも、なんでその選択?と疑問を投げかけたいくらいだ。行動力は「あり」だが、その手段は「なし」だ。意気込みは称賛に値するが、その前に一度踏みとどまって、慎重に再検討をして頂きたいものだ。
頭がいい。
確かに、伊達政宗、毛利元就、両者ともに当てはまることだ。しかし、もう一つ両者には共通項がある。「やりすぎ」という点だ。限度も手段も、一般人では考えつかないようなレベルである。
ただ、よく考えれば、一方でそれは長所といえるのかもしれない。
「やりすぎ」だからこそ、戦国の世で生き残れたのかも。
参考文献
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『毛利元就』 森本繁著 新人物往来社 1996年10月
『図説毛利元就』 荒井魏編 毎日新聞社 1997年2月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『目からウロコの戦国時代』谷口克広 PHP研究所 2000年12月