アメリカの35代大統領、ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」として名前を挙げたのが、米沢藩9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ ようざん)です。上杉鷹山は江戸時代の稀代の名君として知られており、自ら倹約や節制を行い、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直しました。
2020年の自民党総裁選に名乗りを上げた、菅義偉官房長官(当時)が「自助・共助・公助」を理念として掲げましたが、これはもともと上杉鷹山の思想だったと言われています。
「今、私たちの時代にも鷹山がいてくれたら…」そう願わずにはいられない、鷹山の数々のエピソードや名言をご紹介しましょう。
自分の生活費約8割カット!17歳の少年が藩の改革に挑む
上杉鷹山は、上杉家の嫡男ではありません。寛延4(1751)年に日向高鍋藩主・秋月種美(あきづき たねみ)の次男として生まれ、9才で米沢藩主・上杉重定(うえすぎ しげさだ)の養子として迎えられました。
藩主となったのは17才の頃。遊びたい盛りの少年時代ですが、鷹山には大きく財政が傾いた藩を立て直すという使命がありました。
鷹山がとった政策には以下のようなものがあります。
この他にもさまざまな取り組みを行い、天明の大飢餓の際は、鷹山の政策によって一人も餓死者が出なかったそうです。領民や家臣だけでなく、鷹山自ら質素倹約を心がけ、食事は一汁一菜、衣服は木綿を着用していました。
そんな鷹山は今でも地元の人々から愛され、「鷹山公」と敬意をもって呼ばれています。
自助・共助・公助「三助の思想」とは?
菅義偉官房長官が述べた「自助・共助・公助」は、もともと上杉鷹山が藩を立て直すために掲げた思想であると言われます。では、どのような意味をもつ思想なのでしょうか。
上杉鷹山 三助の思想
自ら助ける,すなわち「自助」 近隣社会が互いに助け合う「互助」 藩政府が手を貸す「扶助」 引用:内閣府ホームページより
これだけ見ると「困ったことがあれば自分で何とかしろってこと?」と感じてしまう方もいるかもしれません。しかし、上杉鷹山がそれぞれどのような目的で「三助の思想」を掲げたのかを見ていきましょう。
まず、「自助」実現のために、鷹山は米作以外の産業を積極的に興しました。新たな特産品や仕事が生まれれば、自分自身の力で生活していける「自助」となります。さらに農民に五人組・十人組などのグループをつくり、その中で互いに助け合うこと「共助(互助)」としました。身体や立場の弱い人々は、このグループで養うことにしています。また、グループ内で対処できない事態が起こった際は、近隣のグループが手助けします。
最後に「公助(扶助)」とは、グループ同士の協力でもしのぎ切れない飢饉などの重大な事態が起こった際に、藩政府が手を貸すことを言います。「天明の大飢饉」では鷹山自ら質素倹約に努め、その姿を見習って富裕層も貧しい人々を助けたと言われています。
「なせば成る…」あの名言は鷹山の歌だった!
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」、この言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。この名言は、上杉鷹山が家臣に対して詠んだ歌です。
その意味は、「やればできる。何事もやらなければ成功しない。できないのは、やろうとしていないからだ」となります。
一国の君主が発した言葉だと思うと、ずっしりその重みが感じられませんか?「できないのは、やろうとしていないから」。これは私たちの日常でも常に頭に置いておきたいものです。
また、この歌には本歌と思われる歌があります。それが武田信玄の詠んだ歌「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ」です。戦国大名として名を馳せた武田信玄の歌からは、自身の成功に対する驕りが感じられ、少し抽象的なイメージです。それを上杉鷹山は、より具体的なスローガンのように表現したことがわかります。
鷹山を名君たらしめるのは、その男女関係にもあり
鷹山の正妻幸姫(よしひめ)は、脳の障害や発達の遅れがあったと言われています。いつまでも子どものような妻と一緒になって、鷹山はお人形やおもちゃで遊んで楽しんだのだとか。
そんな鷹山を女中たちは憐れみましたが、幸姫が30才という若さでこの世を去るまで正妻として重んじ、幸姫の父からも感謝されたとのことです。
参考書籍:『代表的日本人』内村鑑三著 『国史大辞典』『故事俗信ことわざ大辞典』
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ケネディ大統領が最も尊敬した日本人上杉鷹山 童門冬二の世界