「誰もが見たままのあなたを見る、真実のあなたを知る者は少ない」
マキャヴェリが外交官の経験を元に書き上げた名著『君主論』。その中の一節を抜粋した。確かに、そうだ。人は、見たままの姿を信じようとする。それが、いかに真実の自分とかけ離れていようが。そうせざるを得ないのだ。
特に、戦国時代において、主君は多くの兵を束ね、戦いを率いる中心人物だ。誰もがその一挙手一投足を、固唾をのんで見守ることだろう。だからこそ、絶体絶命時における主君の行動で、戦いは左右され、歴史は大いに変わるのだ。
今回は、そんな戦国時代において、絶体絶命時の「主君」の姿をご紹介。想像通りという方から、意外な姿を披露する方まで。是非とも、自分の上司と比較しながら読んで頂きたい。
指から血ダラダラ、家臣は汗ダラダラ…
徳川家康のイメージは、どちらかというと冷静沈着。タヌキ親父的な印象がぬぐえない。天下を取るには、状況を冷静に分析する能力が必要だと、誰もが思うからだろう。もちろん、天下人という事実を抜きにしても、織田信長、豊臣秀吉と、前の2人があまりにも強烈キャラだったせいでもある。この2人とは異なって、家康は安定した世襲制を敷いた。徳川家の将軍職を15代まで存続させたのだから、このようなイメージがあるのも頷ける。一方で、家康は「忍従」の人でもある。幼少期に今川義元の下で人質生活を送っていたからか、それとも信長の命で嫡男である信康の切腹を決めたからか。
ただ、戦場での徳川家康は、思いのほか、熱くなる男であった。
序盤では、落ち着いて采配を振るう。しかし、家臣が家康の意図に気付かない、はたまた思い通りの動きをしない場合には、一気にヒートアップ。『常山紀談』には、家康の戦場での様子が記録されている。その要約された部分をご紹介しよう。
「攻防のヤマ場に差し掛かると『かかれ、かかれ!』と絶叫。」
(「日本の大名・旗本のしびれる逸話」から一部抜粋)
「事態が切迫すると声を張り上げ、拳で鞍の前輪を血が流れるほど叩く癖があった」
(「戦国武将に学ぶ究極のマネジメント」から一部抜粋)
戦いが終われば、家康の手からは血が。そのあまりの激しさに、家康の手の指の中節にはとうとうタコができたという。そのため、年老いてからは、指の曲げ伸ばしがしづらくなったのだとか。
さて、家康のヒステリーはそんなものではとどまらない。
慶長5(1600)年9月の関ヶ原の戦いでのこと。東軍の徳川家康は、桃配山(ももくばりやま)に陣を置いた。なんでも、のちの天武天皇となる大海人皇子(おおあまのおうじ)が、この地で桃を配って兵の士気を高めたとされる場所なのだとか。縁起がよいとして、早速、家康は桃配山に本陣を置く。
ここまでは良かった。しかし、ここから次第に家康の醜態がさらされる。
確かに、関ヶ原の戦いは重大な局面だ。家康からすれば、天下が取れるかどうかの大勝負。気合十分、前のめりになりたい気持ちも分かる。ただ、そんな家康の思いとは裏腹に、東軍は苦しい状況に立たされていた。というのも、家康の軍を分けた子の秀忠は、別ルートで関ヶ原に向かうはずが一向に来ず。戦況も家康の思い通りにはならなかった。
家康の侍医が記録したとされる「慶長年中ト斎記」。この中に、家康の様子について、興味深い内容が記されている。
なんと、関ヶ原の戦いの中で、家康がヒステリーを起こしたというのだ。
というのも、戦い当日の午前中は石田三成らの西軍が優勢。戦況が大きく動いたのは、事前に内通していたとされる西軍側の小早川秀秋が、ようやく西軍の大谷吉継の陣に向けて攻撃を開始したからだ。
結果的に勝者となった家康だが、だからといって戦いの最中は悠長に構えていたわけではない。じつは、家康本陣は大いに混乱していたという。そんな中で起こった事件。野々村四郎右衛門という兵が、うっかり誤って、家康の目の前で馬を乗りかけたというのだ。今は戦の最中。平時とは異なる状況だと知りながら、家康は速攻でブチ切れ。刀を抜いて野々村を斬りつけたのだとか。
まさか大将が、前後見境なく怒り狂うとは思っておらず。野々村四郎右衛門は驚いてそのまま逃げるはめに。それでも、家康はヒステリー最高潮。逆上しきって怒りが収まらず、側にいた近習の指物(旗など)を真っ二つに斬ってしまう有様。ただでさえ、戦いなのだから、頭に血がのぼっていることだろう。そのうえ、ヒステリーまで起こせば、さすがに健康オタクの家康でも、血管まで一緒にブチ切れる可能性も否定はできない。
本陣でヒステリーを起こし、見事に醜態をさらしてしまった家康。なお、一説には、事前に内通していた小早川秀秋が一向に動かないため、ずっと指を噛み続けていたのだとか。家康にとって、関ヶ原の戦いは、桃を配るどころか、始終イライラしっぱなしの戦いだったのだろう。
信長は短気で単騎駆け?
さて、一方で、思い立ったら吉日とばかりに、即行動に移す人物といえば、こちら。
やはり、一番に思い浮かべるのは織田信長だろう。
その中でも、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いの出陣シーンは、非常に有名だ。『信長公記』では、以下のように記録されている。
「この時、信長は『敦盛』の舞を舞った。『人間五十年、天下の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅ぼせぬ者のあるべきか』と歌い舞って、『法螺貝を吹け、武具よこせ』と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣した」
まず、端的にいえば、このときの織田信長は全く有名ではなかった。対して、今川義元は京都への上洛をも視野に入れていた名の知れた大名である。桶狭間に陣を置いた今川義元の軍勢との兵力差は一目瞭然。老臣たちからは、清洲城の守備を固めるべきとの進言がなされていたという背景がある。
しかし、信長は情報網を駆使し、今川義元の動きを予測。同年5月19日早朝に『信長公記』に記された通りに急いで出陣。このときの兵力は、主従併せて6騎、雑兵200人ほどだったと記録されている。熱田神宮で戦勝祈願をしたのち、善照寺砦で兵を待ち、臨戦態勢が整ったところで、中島砦に移動し攻撃を開始した。兵力差は大きかったが、終わってみれば信長の大金星。この桶狭間の戦いで、織田信長の名前は広く知れ渡ることとなった。
なお、出陣の前日である5月18日の夜。信長は駆け付けた老臣に対して、戦いの作戦に関する話を一切しなかったという。世間話をして早々に切り上げた。老臣たちは「運の尽きる時には知恵の鑑も曇る」と信長を嘲笑したのだとか。既に、信長の頭の中には、勝利を確信する作戦があったのかなかったのか。どちらにせよ、率先垂範に重きを置く信長の家臣は、ついていくので精一杯だったに違いない。
絶体絶命の時にこそ、主君の本質が問われる。
理想は、強く優しく。電光石火の如くキレッキレに指示を出し、海より深い寛大な心で包んでもらいたいものだ。
どうせなら、笑顔で桃でも配りながら。
参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国武将の大誤解』 丸茂潤吉著 彩図社 2016年9月
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月