現代の日本において、全国高等学校野球選手権大会(通称「甲子園」)は、完全に国民的行事として社会に定着しています。先日の「センバツ中止」というニュースがあれほど大々的に報道されることからも、その注目度は明らかです。
しかしながら、元をたどっていけば甲子園も単なる学生スポーツのいち大会。我々がよく知る甲子園の姿が形作られるまでには、知られざる大会創設者らの苦労がありました。第一回大会(当時は全国中等学校優勝野球大会という名前)が開催された大正4(1915)年に、これほど大規模なスポーツの大会はありません。ノウハウが皆無な中、彼らは試行錯誤を重ねて大会をゼロから盛り上げようとしました。
が、手探りで作り上げていった初期の甲子園大会には、私たちが見ると「ウソでしょ!?」と言いたくなってしまうような話がいくつも残されているのです。この記事では、当時の苦労に敬意を払いつつ、現代の大会からは想像もできないようなオモシロエピソードをかいつまんで紹介していきます!
そもそも、大会会場は甲子園球場ではなかった
私たちは、「甲子園」と言われるだけで「全国高等学校野球選手権大会」のことを即座に思い浮かべることができます。「甲子園出場!」と言われれば、それが何を指すかはすぐにピンとくるでしょう。もちろん、ここでいう「甲子園」は、大会会場となっている阪神甲子園球場を指しています。
しかしながら、実は甲子園球場が完成したのは大正13(1924)年のこと。いっぽう、第一回大会の開催は大正4(1915)年です。「甲子園大会が甲子園球場が出来る前から始まってるって、なんかムジュンしてない?」そう思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、答えは非常に単純。
そう、現代のように甲子園球場で夏の高校野球大会を開催することになったのは、節目である第十回大会からに過ぎないのです。それまでは、全く別の会場で大会を実施していました。
第一回・第二回大会は、現在の大阪府豊中市にかつて存在した「豊中グラウンド」で開催されました。ここは箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)が沿線の集客を目的に建築し、当時としては日本最大級の規模を誇った運動場であったと言われています。しかし、第二回大会を開催するころには予想以上の人気が出てしまい、豊中グラウンドの設備では大会運営に支障をきたすようになります。
そこで、第三回大会からは近隣の関西競馬場敷地内に新築した「鳴尾球場」を使用することになりました。
ただ、「競馬場内に野球場がある」という一見意味不明な記述からも分かるように、作りはあくまで簡素なもの。競馬場の内馬場内にグラウンドを二つ設置しましたが、土地の都合上固定のスタンドを用意できず、移動式のスタンドを利用してなんとか観客席を作っていました。現代の阪神競馬場内で甲子園が開催されていることを想像すると、ハッキリ言ってメチャクチャ異様な光景です。それでも試合数や観客の増加には対応できていたため、第九回大会までは鳴尾球場で大会を開催しています。
が、この頃には観客の大幅な増加によって、仮設スタンドの収容力が不足してきました。加えてグラウンド内に観客がなだれこむという事態も発生したため、大会の主催者側はついに球場の新築を決意。大正13(1924)年、この年の干支である「甲子」から名前をとった甲子園球場が完成したのです。
女性の観客は一人だけで、男性も学生以外は皆無だった
現代では、すっかり「女性の野球観戦」も当たり前になってきました。プロ野球のカープ女子もずいぶん注目されましたし、SNSを見ていても高校野球の熱狂的ファンと思しき女性をよく見かけます。
ところが、初期の甲子園大会では全く様子が異なりました。当時は女性のスポーツ観戦という文化自体が存在せず、必然的に女性の野球ファンも皆無。そのため、ある程度人気が出た第二回大会でも「女性の観客は、大会副委員長の令嬢一人だけだった」という伝説が残されているほどです。ただ、一方で女性の観客が少ないゆえに「特別待遇」も用意されていたようで、本塁裏の特別観戦席には「婦人席」なるものが存在したと言われます。ただし、今でいうところのガールズシート的な可愛らしいものではなく、「暴徒化することも珍しくなかった当時のファンと同じ場所で観戦していたら、女性の身が危ない」がゆえの避難場所だったのではないかと…。
一方、たとえ男性であっても現代のように「一般の高校野球ファンが観戦する」という例は少なかったようです。当時の記録を見ると、「観客は学生か卒業してまだ間もないOBばかり」であり、あくまで当事者として選手たちと近い年齢層の限られた観客しか詰めかけませんでした。
それでも、会場が鳴尾球場に移転した第三回以降は「一般人のファンも増えてきた」とされ、すでに大正時代の中ごろには人気爆発の兆候が見えていたのも事実です。
敗者復活戦が存在した
甲子園の魅力は「負けたら終わり」の一発勝負にあるでしょう。どんなに優れたチームでも、たった一回の番狂わせに巻き込まれればそれでオシマイ。そうした性質がゆえに、後にはプロで大活躍する選手たちも予期せぬ敗戦に涙をのんできました。
しかしながら、初期の甲子園には「敗者復活戦」があったことをご存じでしょうか? 「そんなん甲子園の魅力が台無しやん!」という意見も寄せられそうですが、第二回・第三回大会では敗者復活戦が実施されていました。当時は参加校数の関係で一発勝負だとトーナメントが上手く組めなかったので、初戦に敗れた6校のうち抽選で選ばれた4校が敗者復活のチャンスを手にできたのです。
そして、驚くべきことに第三回大会では、初戦敗退から敗者復活枠に選ばれた愛知一中(現在の旭丘高等学校)がみるみる勝ち進んでしまい、なんと優勝までこぎつけてしまいました! しかも、大会前の抽選会で同校の長谷川武治主将が「仮に敗者復活から勝ち上がってそのまま優勝すれば、優勝扱いになりますか?」という質問をしたとも言われており、運命のいたずらを感じずにはいられません。
が、「一敗した学校の優勝」は物議をかもし、結果として第四回大会からは敗者復活戦が廃止となりました(まあ、当然っちゃ当然のクレームですよね…)。その後も現代まで敗者復活制度は復活しておらず、愛知一中は史上初にして唯一の「敗者復活からの優勝」という記録を残しています。
優秀賞として多数の豪華賞品が贈られた
甲子園の優勝で得られるものは、直接の利益よりも「名誉」的なものがメイン。現代では深紅の優勝旗が贈られていますが、これは持ち回り式なので次の大会では返還しなければなりません。それでも、「甲子園の優勝経験」は社会のどこへ行くにも箔が付きますし、少なくとも野球選手としては最高の名誉です。実際、プロ入りしてウン十億円稼いだスター選手であっても、甲子園に出られなかったことを悔いている例は珍しくありません。それほどまでに、「甲子園」というのは重要な大会なのです。
しかし、第一回の甲子園大会では「そこまでの名誉」がなかった代わりに、現代では考えられない「賞品」が贈られていました。
具体的に見ていくと、金・銀・銅メダルのほかに
・優勝チーム…スタンダード大辞典、腕時計(一人一個)、50円の図書切符(現代の図書カード)
・準優勝チーム…英和中辞典(一人一個)
・一回戦の勝利チーム…万年筆(一人一本)
が用意されており、実際に贈呈されています。
そもそも甲子園の成績優秀校に物品を送ること自体が考えられませんが、加えて渡されたものがかなり高価なことに気がつくでしょうか。腕時計や万年筆については言うまでもなく、辞典類も当時は相当に高価なものだったでしょう。さらに、優勝校に贈られた「50円の図書切符」は、日本銀行が発表する企業物価指数にあてはめて現代の物価と照らし合わせると、だいたい5万円分であることが分かります。つまり、贈られたのはちょっとした参加賞程度のものではなく、ガッツリとした賞品だったのです。
では、なぜ現代では考えられないような豪華賞品が贈られることになったのか。その背景には、明治時代の学生スポーツでは「賞品や賞金を贈ることが当たり前だった」という事情があります。実際、当時の証言をみていくと「明治31(1898)年ごろの運動会では、現ナマ15円を貰った(現在の価値で2万円程度)」「明治38(1905)年の水泳大会で優勝した東大生は、優勝賞金300円を貰った(現在の価値で35万円程度)」という記録に出会います。
つまり、明治時代から続いていたこの慣習を参考に、甲子園でも賞品を準備してしまったのです。公式に現ナマを送っていないのはまだ中学生(今の高校生相当)という年齢が理由でしょうが、時代柄を考えれば地元の後援者やOBからはコッソリ現ナマさえ貰っていたのではないかと思います。
ところが、「学生相手に賞品は不味いだろう」という話になったのでしょうか。第二回大会からはこれらの豪華賞品は廃止され、優勝旗と優勝メダルのみの贈呈という現代に近い形となりました。
まとめ
これまで紹介してきたエピソードは、基本的にクスッと笑ってしまうような性質のものばかり。しかし、そこから一歩進んで、「私たちが当たり前だと思っていた甲子園の常識は、決して当たり前ではなかった」ということを知るキッカケにしてもらいたいと思います。
例えば、「甲子園の優勝チームに賞品を渡す」というと、私たちからすればあり得ないことに感じます。しかし、歴史を参考にすればそれが「アリ」だった時代もあるわけで、あながち的外れな話でもないのです。あくまで個人的な意見ですが、「大人は甲子園でさんざん楽しんで儲けてるんだから、少しぐらい学生に還元してあげてもいいのでは?」とさえ思っています。
皆さんも大会の成り立ちを面白おかしく知ったうえで、こんな風に「当たり前」をいま一度見直してみてください!