Culture
2020.05.10

西郷隆盛を恐れさせた用兵の天才、山田顕義とは。日本のナポレオン?人生を解説

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「私の辞書に不可能という文字はない」。子どもから大人まで本当に誰もが知る名言ですが、私が学生の頃、フランス語の授業を受けていたとき衝撃的なことを知らされました。実はこれ、本来の意味とは違う別の言い回しなんだそうです。本来の意味はというと……。

「Impossible n’est pas français.」
フランス語に不可能という言葉は無い。

ずっとかっこいい言葉だなぁと思っていたのに……日本語って不思議ですね。

さて、フランスの英雄といえばナポレオンですが、実は日本にもかつて「小ナポレオン」と称された人物がいます。その人物とは、山田顕義(やまだあきよし)。幕末から明治にかけて活躍した軍人であり政治家、さらにはあの西郷隆盛に「軍事の天才」と恐れられていたほど戦術に長けていたといいます(しかもイケメン……!)。今回は、そんな彼の生涯をご紹介します。

出典:『近世名士写真 其1』 国立国会図書館蔵

最年少で松下村塾に入門!実は愛されキャラだった?

弘化元(1844)年、長州藩の萩藩士・山田顕行の長男として生まれます。幼名は市之允(いちのじょう)。13歳で長州藩の藩校・明倫館に入ったあと、14歳という若さで松下村塾に入門します。松下村塾といえば伊藤博文や高杉晋作など明治維新の功労者たちを多く輩出した、吉田松陰主宰の私塾です。顕義は塾生の中でも年少で小柄、目がクリッとしていたため、松陰らに可愛がられたそうです。

職場や学校に愛されキャラは1人はいるかと思いますが、あの松下村塾にもいたんですね。幼少の頃の顕義は、塾の帰りに遊んでいたら、武士の命である自分の刀を忘れてしまった、というとんでもエピソードも残しているので、少しおっちょこちょいな性格だったのかもしれません。そこも愛されキャラといえるポイントであるような気がします。

松下村塾での学びはわずか1年あまりでしたが、教鞭を執っていた富永有隣(とみながゆうりん)が「市イーは中々よく読む子であった」という言葉を残していることからもわかるように、塾生の中でもかなり勤勉だったといえます。また、松陰にとっては最後の門下生であったため気に入られていたのかもしれません。「与山田生」と題した漢詩を扇面にしたため贈っています。

立志尚特異 志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難 世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業 世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安 ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳 人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐 君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように

この志を胸に、顕義は平凡ではない人生を歩んでいくことになります。

軍事の天才・大村益次郎との出会い

文久2(1862)年、19歳だった顕義は上洛し、藩主の後継である毛利定広の警護を務めるようになります。そして同年12月、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(のちの井上馨)、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、品川弥二郎らとともに攘夷の血判書に署名。翌年、「八月十八日の政変」によって公武合体派に排除され、三条実美ら攘夷派公家7名とともに長州へ落ち延びます。

その後、慶應元(1865)年、22歳になった顕義は普門寺塾に入門。当時「軍事の天才」と呼ばれ、奇兵隊の指導を行っていた大村益次郎に西洋兵学を学びます。兵学そのものは、幼い頃から伯父の山田亦介(やまだまたすけ)や中村九郎からたたき込まれていました。加えて、益次郎からは最新の武器や巧妙な用兵術、非常に合理的な思考を学び、兵学に対する才能を開花させます。そして、その才能はのちの戊辰戦争で存分に発揮されていくことになります。

益次郎の死後、イタリア人肖像画家キヨッソーネが関係者の説明から描いた彼の肖像画。出典:『近世名士写真 其2』 国立国会図書館蔵

顕義の才能を認めたのは先述の西郷だけではありませんでした。そのひとり、高杉はこんな逸話を残しています。

高杉が亡くなるとき「奇兵隊を引き継ぐ人物は誰か?」と問うと、晋作はまず益次郎の名をあげた。しかし、益次郎は元々村医者であったため「その次は?」と問うと、「山田市之允」と答えた。

このとき、顕義はまだ23歳の青年だったそうです。

用兵の天才でごわす!西郷隆盛を言わしめた戊辰戦争

元治元(1864)年、顕義は禁門の変、下関戦争、高杉の決起(功山寺挙兵)に参戦し、慶応2(1866)年の第二次長州征伐では、軍艦・丙寅丸(へいいんまる)の砲隊長に任命されます。藩海軍総督の高杉とともに周防大島沖で幕府艦隊に奇襲攻撃をかけて勝利します。

慶応4(1868)年、戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いでは、在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1000人余りの長州藩兵を指揮。約1万の幕府軍を退けると、陸軍参謀兼海軍参謀に任命され、その後も各地で見事な活躍ぶりをみせていきます。

新政府軍が最も苦戦した戦いである北越戦争では、当時武器や弾薬の拠点となっていた新潟港を有する長岡藩の勢力に圧されていたところを、顕義率いる海軍の圧倒的兵力によって戦局を打開。長州藩の新鋭艦「丁卯丸(ていぼうまる)」に乗組み、薩摩艦「乾行丸(けんこうまる)」、筑前艦「大鵬丸」を指揮下に入れて下関を出航、越後海域へ。奇兵隊を率いて奮戦していた山縣有朋らを支援し、勝利へ導いたといいます。

その後の箱館戦争でも指揮をとり五稜郭を攻略。その貢献度は高く、西郷を「あの小童(こわっぱ)、用兵の天才でごわす」と言わしめるほどだったといいます。「小ナポレオン」と称されるようになったのもこの頃でした。

明治2(1869)年、兵部省が設置されると兵部大丞(ひょうぶたいじょう)に任命され、益次郎の補佐役を務めます。益次郎が亡くなったあとは、軍事行政の責任者として政策を引き継ぎ、新たな国軍の基礎づくりに着手していきます。

陸軍に大きく貢献していく顕義ですが、あることをきっかけに後半生は「軍事」ではなく「法律」を重視していくようになります。

ナポレオン法典に釘付け!軍事よりも法律だ!

明治4(1871)年、陸軍少将となった顕義は、他国の兵制や法典の調査を行うため岩倉使節団の一員として欧米諸国に訪れます。そこでナポレオン法典と出合い、先進技術や文化を目の当たりにしたことをきっかけに、法律の重要性を確信します。欧米と肩を並べるためには軍事だけではないと思い知らされたのです。

しかし、調査を終え一行が帰国すると、国内ではすでに陸軍の主導権を握っていた山縣によって徴兵令が施行されてしまっている状況でした。これに対し顕義は、軍事力整備の前に、法の整備と教育の重要性を説いた建白書を提出。そこにはこんな一節が書かれていたそうです。

「軍とは何のためにあるか。帝室を守衛し人民を安全にするためである。しかし他にも、国には法があり律があり、教育の道がある」

最終的には大久保利通らの判断によって、顕義は軍事の実権を山縣に譲ることになり、自身は司法に転じます。

司法に転じたあともその才を買われ、西南戦争では司令官として出陣した。顕義は左から4番目。このとき33歳。出典:Wikimedia Commons

明治18(1885)年、第一次伊藤博文内閣が発足。顕義は初代司法大臣に就任し、続く黒田清隆内閣でも法の整備を行うなど、約9年間にわたって司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂していきました。さらに明治22(1889)年には皇典講究所所長に就任し、日本法律学校(日本大学の前身)を創立。翌年には、講究所内に国文、国史、国法を研究する教育機関として國學院(國學院大學の前身)を創設します。

出典:『歴代首相等写真』 国立国会図書館蔵

幕末から軍事や法律に奔走していた顕義ですが、枢密顧問官に就任した明治25(1892)年、28年ぶりに故郷の萩に帰ります。しかし、東京への帰途、生野銀山を視察した際に倒れ、不慮の死を遂げています。

天才的な戦術と、日本の近代法制を整えた「東洋のナポレオン」。

「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」

これは顕義がよく口にしていた言葉だそうですが、松陰と益次郎ふたりの遺志を受け継いだ彼が、その刹那を懸命に生きたかがわかります。